その4

「なんだ、フランス語がわかるじゃないか! すると君はフランス人?! いったいどうして…!」
驚愕したカミュが矢継ぎ早に叫ぶとミロはそれをさえぎるようにして再び手帳に字を書いた。

  
書くことはできるが話すことはできない

「なぜっ?!」
唖然として叫んでから、意味のないことを言っていると気付いたカミュは鉛筆を借りるとどきどきしながら字を書いた。 疑問質問は山ほどあるが、一度にたくさんのことを聞くと混乱するかもしれないと考えて少しずつ尋ねることにした。

 
 君と話ができて嬉しい。 どうやって字を書くことを覚えたのか?

  
本を見て覚えた。 人間と話をしたのは初めてだ。

初めてと聞いてカミュは絶句する。 このアフリカの密林の奥でこの男、ミロはたった一人でフランス語を学び、いま初めて人間と会話を交わしているというのだ。 有り得ない奇跡を目の前にしてまじまじとミロを見ていると、胸の中に次から次へと疑問が湧き上がり自分の方がはるかに混乱していることを知る。 大きく息を吸って次の文章を綴っていった。

  
もっとたくさんのことを教えたい。 友達になろう。

それに対する返事はこうだった。

  
君と俺は友達だ。 そうではないのか?

感動したカミュが文明人に対するように思わず手を差し出して握手を求めると、一瞬の間をおいてミロがその手を強く握り締めた。

ともかく話ができるようにならなければこの情況を打開できないと考えたカミュはその日からフランス語を教えることに専念した。 基本の文章は書けるのだから一つ一つを指差して発音を繰り返させる。 そうやって二人で夢中になっていたある日、カミュが熱を出した。 朝から体がだるかったのが夕方になってひどくなり、額が火のように熱くなったのだ。 風土病にかかったのに違いなかった。
身体が火照って何も喉を通らず横になってじっと耐えていると、どこかに行っていたミロが戻ってくる気配がして身体を抱え起こされた。 眼を開ける気にならなくて抱かれたままでいるといきなり唇が重ねられた。 あっと思ったとき舌が侵入してきて水が喉に流れ込んできたではないか。 驚いたものの、高熱にうなされていた身体はたしかに水を欲しておりカミュはそれをむさぼるように飲んでいた。 ミロは幾度も幾度も繰り返しそうやって川の水を運んできてカミュに与えたのだ。 それがここに生きてきたミロの知る唯一の水を運ぶ方法だった。
それからミロは熱い身体を抱きしめて一緒に横になった。 いつも肌をさらけ出しているミロの身体は冷たくて、それはカミュの熱の高かった証拠でもあったのだが、ともかくそうやってカミュは危機を脱したのだ。
元気を取り戻したカミュが頬を赤らめながら聞くと、自分の母親もそうやって看病してくれたことがあるというではないか。
「えっ! ミロは自分の母親の記憶があるのか?」
「記憶とは?」
ここでカミュが記憶の意味について簡単な講義をし、ミロも理解した。
「俺の母親のカラはもう死んでしまったが、やさしい類人猿だったよ。 」
「類人猿っ?! そんなはずはない! 君は間違いなく白人だ!私と同じで両親とも白人だったに違いない!」
「でも、カラは俺の母親だった。」
ミロはがんとして譲らず、カミュもその場はあきらめた。 ミロの出自についてはおぼろげながら類推していたからだ。

ミロとのフランス語の学習はどんどん進み、こんな土地にいたにもかかわらずミロが優秀な生徒であることが明らかになった。 乾いた砂が水を吸い込むようにミロは貪欲に知識を吸収して、生まれ持っていた資質を開花させたのだ。
「するとこの世界にはたくさんの国があるのか?」
「そうだ、君が書いて話しているのはフランスの国の言葉で、他の国には違う言葉がある。 私はフランス人で20歳だ。」
「20歳とは?」
そこでカミュが数の概念や一年二年という月日の数え方を教えるのだ。 そんなふうにミロの学習カリキュラムは思わぬ方向に飛び火してカミュは生まれて初めて教師の苦労を知った。
平らな地面に木の枝でざっと世界地図を書き、フランスと今いるアフリカのおおよその地点に印をつける。
「ここが私の国で、こっちがいま私たちのいる場所だ。 私は国に帰りたい。」
ミロが二つの点を指で結んだ線を引いた。
「すぐに帰れるだろう。 こんなに近いじゃないか。」
明るい笑顔が屈託なくて思わずカミュも笑ってしまう。
「そうではない。 これはほんとうより小さく書いてある。 船に乗って長いあいだ旅をしなければフランスには着かないのだ。」
「それなら俺もフランスに行きたい。 ここにはないたくさんのものを見てみたい。」
こうして二人の次の目標ができた。