※ 固有名詞等を変えてありますが基本的には原作そのままです。

その22   過去  〜 船上 2 〜

それから数日間、かれらは一度もルイと顔を会わさなかった。 また、船長はやむをえず彼らに話しかける場合でも、できるだけ短く、気むずかしく怒鳴りつけるだけで、それ以外はなにも言わなかった。
水夫たちはいままで通り船長室で会食した。 しかし船長は職務にかこつけて、決してかれらと一緒に食事しなかった。
ほかの高級船員たちはいずれも粗野で無学無知な連中だったが、かれらがこきつかっているやくざな水夫たちよりはやや感覚がまさっていたので、洗練されたフランス人夫妻との社交的な交際を避けたがっていたから、トゥールーズ夫妻は二人だけでいることが多かった。
このこと自体は夫妻の望み通りで喜ばしいことではあったけれども、一方ではそれが彼らをこの小さな船の生活から隔離させたために、かれらは急速に血なまぐさい悲劇へ傾きつつある毎日の出来事と接触を保つことができなかった。
なにか悲惨な事件の起こることを予告するような息苦しい雰囲気が船内にたれこめていた。 トゥールーズ夫妻の知る限りでは、船内の動きは以前と変わりないように見えたが、なにか危険が迫っていることを感じさせるような暗い底流があった。 夫妻はたがいに口にこそしなかったが、ひそかにそれを感じ取っていた。
ブラック・ミッチェルが負傷してから二日後に、ルイは甲板に出たとき、気を失った水夫の一人を四人の同僚が抱きかかえて下へ運んでいくのを偶然に見た。 重い索止栓を手にした一等航海士が、むっとした顔つきの水夫の一団を目を怒らしてにらんでいた。
ルイはなにも聞きたださなかった。 その必要もなかった。 翌日、フランスの軍艦が遠い水平線上にその威容を見せたとき、彼はアリス夫人と一緒に軍艦に乗り移らせてもらうように頼もうとなかば決心した。険悪な情勢が強まりつつあるルワンダ号にとどまっていると、とんでもない災難に遭うかもしれないという不安が高まってきていたからだった。
昼ごろ、フランスの軍艦は呼べば声の届く距離にまで近づいていた。 しかし、ルイは船長に軍艦への移乗を申し出ようと思ったとき、その要求がいかにもばかげていることに突然気付いた。 彼が今来た方向へ戻りたいという理由をフランス海軍の艦長に問いただされたらなんと答えることができるのか!
反抗的な水夫が高級船員に荒っぽい仕打ちを受けているからだと答えたらどうなる?
たぶん、相手は忍び笑いをして、彼がこの船から去りたいと思っている理由は 『 臆病 』 だからだと決め込むに違いない。
ルイはフランス海軍の軍人に移乗を申し出ることを断念した。 午後遅くなって、軍艦のマストが水平線の彼方に没したが、それよりも前に彼は自分の激しい恐怖が決して確証のないことではなかったことに改めて気付き、わずか二、三時間前、安全が手の届くところにあったとき、つまらぬ見栄を張って若い妻のためにそれを求めてやらなかったことを心から悔いた。
トゥールーズ夫妻が舷側に立って、次第に小さくなる軍艦の姿を見守っていたとき、数日前に船長に殴り倒された小柄な老水夫が、真鍮を磨きながら二人の方ににじり寄って、小声で囁いた。
「あの悪党どもに、きっと恨みを晴らしてやりますぜ。 この船から追っ払ってやるんだ。 今に見ていてごらんなせえ。」
「どういう意味だ、それは?」
と、ルイは聞き返した。
「あなたはご覧にならなかったんですか。 あの鬼みてえな艦長と一等航海士の野郎が、わしら水夫の半数を次々に、目から火の出るほど殴りつけてるんですよ。 昨日は二人、今日は三人、頭を割られました。 ブラック・ミッチェルはやっと元気になりましたからね、あんなことをされておとなしく引っ込んでいる男じゃありませんぜ、彼は。 きっとやりますよ。」
「ということは、反乱をくわだてているということかい?」
「そうそう、反乱ですわ。 やつらを皆殺しにしようっていうわけです。 きっとやりますよ。」
「いつ?」
「近いうちに必ず。 ですが、あっしは密告のつもりで言ってるんじゃありませんぜ。 ちょっとしゃべりすぎたかもしれねえけど、しかし、あなたはこないだわしらに親切にしてくださったので、警告しておくべきだと思いましてね。 しかし、これはあなたの頭の中にとどめておいて絶対に口にしないこと。 そして、銃声が聞こえても、下にじっとしていることです。 いいですか、そうしねえと、やつらはあなたのあばら骨の間に索止栓を突っ込むかもしれませんぜ、 きっと。」
老水夫はそう言ってルイのそばを離れ、真鍮磨きを続けた。
「いよいよ雲行きが怪しくなってきたようだね、アリス。」
ルイは言った。
「すぐに船長に知らせるべきだわ、ルイ。 今のうちなら騒動を防ぐことができるかもしれないわよ。」
「うん、そうすべきだろうとは思うけど、しかし、僕は 『 頭の中にとどめておいて、絶対に口にしない』 方を選びたいね。 利己的すぎるかもしれないけど、いまたとえ反乱が起こっても、彼らは僕があのブラック・ミッチェルという男を助けてやった恩義を感じて、僕らを除外してくれるだろうが、もし僕が彼らを裏切ったことがわかれば、情け容赦なくやられるんだよ、アリス。」
「でも、あなたは権限を守る義務があるのよ、ルイ。 もし船長に知らせなかったら、あなたは反乱側に味方して彼らの謀議の実行に自ら手を貸したことになるわ。」
「君はよくわかってないんだね、」
とルイは付け加えた。
「僕が問題にしているのは君のことなんだ。 僕の第一の義務は君を守ることにあるのだからね。 船長はみずからこんな状態を招いたのだ。 だから、自分で種をまいた暴動から彼を救おうという、おそらく無駄な努力をするために、僕が自分の妻を予知できない危険にさらす必要はないじゃないか。 このフワルダ号の支配権をめぐる血なまぐさい抗争がどう発展するか、予想もつかない状態なのだよ。」
「でも、義務はあくまでも義務だわ。 どんな理屈をつけても変えられるものじゃないと思うわ。 もし私が、夫が明白な義務を怠ることに加担するようでは、とうてい立派なフランス貴族の妻にはなれないでしょうよ。もちろん私は、そのあとに来る危険をじゅうぶんわかってるわ。 でも、あなたと一緒にそれに立ち向かう勇気があるわ。 もしあなたが義務を怠らなければ悲劇を避けることができたのだということを知っていて、つねに懺悔しなければならない屈辱感に耐えるよりも、ずっと勇敢に戦えるわ。」
「それじゃ、君の言うとおりにしよう。」
彼は微笑しながら答えた。
「ひょっとすると、僕たちは取り越し苦労をしているのかもしれない。 たしかに船内の情勢はよくないけれども、思ったほど悪くないかも知れないのだ。 あの老水夫は事実を語ったのではなくて、しいたげられ歪められた彼の心の願いを語っただけかもしれないのだからね。」
「公海上の反乱事件は、百年前はしばしばあったかもしれないけれど、今は1888年、こんな繁栄の時代にそんな野蛮なことが起こるとは思えないわ。」
「あっ、船長がキャビンへ行くところだ。 僕はあいつと話すのが苦手なんだが、どうせ警告をしに行かなければならないのなら、嫌な仕事をさっさと片付けることにしよう。」
彼はそう言いながら、船長が通って行ったばかりの昇降階段のほうにぶらぶら歩いていき、まもなく彼の部屋のドアをノックした。

                                  



        原作ではイギリス貴族グレイストーク卿ジョン・クレイトンですが、話の都合上フランス人になっています。
        ルイ………極めて入力しやすい、よい名前でした。 キーボードの配列も簡単明瞭。