※ 固有名詞等を変えてありますが基本的には原作そのままです。
その25 過去 〜 船上 5 〜
その日の午後三時ごろ、陸に囲まれた港のような湾の入り口の手前の、美しい樹木に飾られた海岸のすぐ近くまで来た。
ブラック・ミッチェルはフワルダ号がその港の入り口を無事に通れるかどうかを調べるために、小さなボートに部下を満載して水深を探らせた。
一時間ぐらいで彼らは戻ってきて、楽に航行できる深さの通路が小さな港の奥まで続いていると報告した。
日の暮れる前に、帆船は鏡のように静かな港の水面の中央で安らかに碇を下ろした。
周囲の岸は熱帯の緑が美しく、陸地はそこからはるか遠方まで次第に高くなり、ほとんど同じような原始林におおわれた丘陵や台地になっていた。
人の住んでいる気配はなかったが、ときどきフワルダ号の甲板の見張り人の目にうつる多数の小鳥や獣たちや、清らかな水をたたえて港にそそいでいる小川の輝きなどによって、その土地で人間がじゅうぶん生活に耐えられることが立証されていた。
周囲の世界が闇に閉ざされてからも、ルイとアリス夫人はまだ船の舷側に立ったまま、彼らの未来の住まいについて静かに思いふけった。
巨大な森の暗黒のほうから、さまざまな猛獣の咆哮が聞こえてくる。 ライオンが太い威嚇的なうなり声をとどろかせ、ときたま豹が鋭い叫び声をあげた。
彼らがその未開の海岸に二人だけで置き去りにされたあと、夜ごとに訪れる悲しい暗闇の中で彼らを待ち伏せている恐怖を想像するに身の凍る思いで、アリス夫人は震える身体を夫にすり寄せた。
その晩おそく、ブラック・ミッチェルが夫妻のところへやってきて、明朝の上陸の準備をするように指示した。
夫妻は救援の手が差し伸べられることを期待できるような、どこか文明の地に近い、もっと住みよい海岸にかれらを上陸させて欲しいと、彼に頼んだ。
しかし、どんな哀訴も、おどかしも、彼を動かすことはできなかった。
「俺たちの身の安全のために、みんながあんたたち二人を殺したがってるんだ。
そうでねえのは俺だけよ。 いや、俺だって、自分たちの首が飛ばねえようにするほうが利口だってことは知ってるさ。
だけど、ブラック・ミッチェルは恩を忘れるような男じゃねえ。 あんたはいちど俺の命を助けてくれた。
そのお返しに、俺はあんたの命を助けてやりたいのは山々だけど、今の俺にはこれだけしかできねえんだ。
野郎どもがこれ以上我慢できなくなっているからだ。 もし俺があんたたちをいっときも早く上陸させなかったら、あんたを大目にみてやろうというやつらの気持ちが変わるかもしれねえんだ………。
あんたたちの荷物は全部陸揚げするし、それに炊事用具や、テントに使うための古い帆布や、あんたたちが果物や狩りの獲物を見つけて自活できるまでじゅうぶん賄えるだけの食料も一緒に持たせよう。
それに護身用の銃があれば、あんたたちは救援が来るまで安楽にここで暮らせるにちがいねえ。
そのうち俺が無事に逃げのびたら、なんとかしてフランス政府にあんたたちの居場所を教えるよ。
もちろん、ここがどこであるのか、俺自身が知らねえのだから、正確に知らせることはできねえけど、しかし、フランス政府はきっとあんたたちを探し出すだろう。」
ブラック・ミッチェルが立ち去ると、トゥールーズ夫妻はどとらも絶望的な予感を心に抱きながら黙々と下へ降りた。
ルイは、ブラック・ミッチェルがほんとうに夫妻の居場所をフランス政府に通知するつもりだとは思えなかった。
だいいち、明日水夫たちが夫妻の荷物を陸揚げするためにいっしょに上陸した際に、なにか夫妻の生命にかかわるようなことをする陰謀が、企てられているのではないかという疑いさえ持たれた。
たとえば、ブラック・ミッチェルの目の届かないところで、水夫の一人が夫妻を殴り殺すかもしれないのだった。
そうすれば、ブラック・ミッチェルの良心を傷つけずにすむだろう。
また、たとえ彼らがそうした運命をまぬがれたとしても、それから先、もっともっと重大な危険に直面するかもしれないのだった。
軍隊で鍛えられたルイの身体は強健そのものだったから、かれひとりなら、なんとか生きながらえるかもしれなかった。
だが、アリスはどうだろう。 それに、原始の世界の災難と危険のまっただ中にまもなく生まれるはずの子どもは?
ルイは彼らのおかれたきびしい、恐ろしい、絶望的な状況について考えめぐらすと、ぞっとした。
翌朝早く、たくさんの梱包や箱が甲板にあげられ、それを岸へ運ぶ数隻の小さなボートに積み出された。
トゥールーズ夫妻は任地で五年から八年ぐらい暮らすことを予想していたので、荷物の量も種類も多かった。
生活必需品ばかりでなく、贅沢品もたくさんあった。
ブラック・ミッチェルはトゥールーズ夫妻の持物をいっさい船に残してはならないと、仲間に指示した。 それはトゥールーズ夫妻に対する思いやりのためであったのか、それとも彼ら自身の安全を計るための処置であったのか、わからない。
失踪したフランスの高官の所持品が怪しい船の中にあったら、世界のどんな文明国の港でも、釈明の着かないことになるだろう。
彼はその方針を徹底的につらぬき、ルイの拳銃を持っていた水夫からそれを取り上げて、荷物の中に入れた。
ボートには夫妻の荷物のほかに、塩漬けの肉やビスケット、小量のジャガイモ、豆、マッチ、木工用具のほか、ブラック・ミッチェルが約束した炊事用具や古い帆なども積み込まれた。
ブラック・ミッチェルはルイがひそかに恐れていたことを、彼自身も心配してか、いっしょにボートに乗って上陸した。
そして、船の樽に小川の水をいっぱいに入れた各ボートが、待っているフワルダ号へ漕ぎ出したときも、最後まで夫妻に付き添っていた。
ボートがなめらかな湾の水面をゆっくり遠ざかっていくのを、ルイは胸のつぶれるような悲しみと絶望のまなざしで、ただ黙って見守っていた。
そして、彼らの背後の低い丘陵の上からも、いくつかの目が、毛深い眉の下でぎらぎら光る、眉間の狭い、敵意に燃えた目が、それを見守っていた。
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書き写していて、初めて気がつきました。
ブラック・ミッチェルは彼にできるだけの親切を夫妻にしていたのですね。
それがために彼らはこの境遇で生き抜き、子どもも無事に生まれるのですが。