※ 固有名詞等を変えてありますが基本的には原作そのままです。

その26   過去  〜 ジャングル 1 〜

やがてフワルダ号が港の狭い入り口を通りぬけて突出した峰の陰に見えなくなると、アリス夫人はルイの首に抱きついて、わっと堰を切ったように泣き出した。
彼女は反乱の脅威にたいして勇敢に処してきた。 また恐ろしい未来にたいしても毅然としてそれを直視し、少しもひるまなかった。 だが、いま完全な孤独の恐怖に襲われたとき、彼女の張り詰めた気力が崩れ、反動がやってきたのだった。
彼は彼女の涙を押しとどめようとしなかった。 自然が彼女の長い間張りつめていた心をそのようにして解きほぐすままにしていたほうがいいのだ。 若い女性が、少女の時期をすぎたばかりの彼女が、再び自分をとりもどすには、かなりの時間がかかるのだ。
「ああ、ルイ」
彼女はやがて嗚咽しながら言った。
「こんなひどいことになって………、あたしたちどうすればいいの。」
「それは一つしかない。 働くことだよ、アリス。」
かれはまるで彼らの故郷の居心地のいい居間で語り合っているようなおだやかな口ぶりで答えた。
「仕事が僕たちの救いになる。 考える暇を作ってはいけないのだ。 なぜなら、その方向には狂気が待っているのだから。 ぼくたちは一心不乱に働きながら、救援を待たなければいけない。 僕はきっと救援がやてくると思う。 たとえブラック・ミッチェルが僕たちとの約束を守らなくても、フワルダ号が行方不明になったことが明らかになれば、政府はかならず急いで捜索隊を派遣するだろう。」
「でも、あなたとあたしだけなら耐えられるでしょうけど、でも………」
「うん、わかってる。 僕もそれを心配しているんだが、しかし、なんとかしてやっていかなきゃ。 ぼくたちはどんな困難な事態に当面してもくじけず、自信と勇気をもってそれを打開していかなければならないんだ。 何万年もむかし、われわれの遠い祖先もやはりこんな原始の森の中で、われわれと同じ問題に当面し、それを打開しながら生きぬいたのだ。 僕たちがいまここにいるということは、彼らの勝利の証拠でもあるわけだよ。
かれらのやったことを、僕たちができないはずはないだろう? いや、もっとうまくやれるはずだ。 僕たちには何万年もかかって培われた人類のすぐれた知識がある。 かれらがまったく知らなかった科学によって、僕たちはさまざまな防御と暮らしの手段を知っている。 彼らが石や骨で作った道具や武器でやりとげたことぐらいは、僕たちにだってきっとできるよ。」
「ルイ、男には男の哲学があるということが、うらやましいわ。 でも、あたしは女だから、頭で考えるよりも、心で感じちゃうのね。 だから、むしょうに恐ろしいのよ。 どうなるか、想像もつかないわ。 あたしはただ、あなたがいま言ったとおりになるように、祈ってるわ。 そして、勇敢な原始時代のよき妻になるために、最善をつくすわ。」

ルイはまず夜寝るための小屋を作ることを考えた。 餌をあさって忍び込んでくる野獣から身を守ることのできるようなものを。
彼は猟銃と弾薬の入った箱をあけて、仕事中に襲撃された場合に備えて二人とも武装した。 それから、最初の夜の宿を作るのに適当な場所を探し始めた。
磯から百ヤードほど離れた林の中にかなり広い平坦な空地があった。 彼らはそこに永住の家を建てることに決めたが、さしあたって、このあたりを領地にする猛獣の手のとどかないような小さなつり床を林の中に作り、それを仮住まいにすることにした。
ルイはそのために、八フィート四方のほぼ直角形を形作っている四本の樹木を選び、ほかの木から長い太い枝を切って、地上から十フィートの高さにロープでしっかと結わえつけ、つり床の枠組をこしらえた。 もちろん、そのロープは、ブラック・ミッチェルがフワルダ号の船倉から、ほかの荷物と一緒に持ち運ばせたものだった。
この枠組の上にやや細い枝をびっちり並べておいた。 そして、付近に群生している大きなベゴニアの葉をその上に敷き、さらに大きな帆を何重にもたたんでおいた。
それから、床から七フィートほどの高さに、やや細い枝を同じように組んで屋根を作り、上にかけた帆を四方に垂らして壁代わりにした。
こうしてかなり居心地のいいこじんまりとした巣が完成すると、彼はそこに毛布や軽い荷物を運んだ。
そうこうするうちに夕方近くなり、日中の残りの時間は粗末なはしごを作るのに費やされ、アリスはそれを使って新しい愛の巣へはいることができるようになった。
周囲の森には、無数の色あざやかな小鳥がにぎやかにさえずり、猿がきいきいわめき、踊りながら、この新来者とかれらのふしぎな巣作りの仕方を、興味深く見とれていた。
トゥールーズ夫妻がたえず警戒の目を配っていたにもかかわらず、大きな野獣はまったく姿を見せず、ただ二度ほど小さな猿の仲間たちが甲高い声で騒ぎ立てながら近くの丘から降りて来て、たがいにびっくりしたような目を見合わせ、何か恐ろしいものがあの中に隠されているから近づくなといい交わしているようだった。
日の暮れる少し前にははしごができあがり、近くの小川から大きなたらいに水を汲んできて、二人は比較的に安全な空中の小屋へ登った。
小屋の中はかなりむし暑かったので、ルイは横のカーテンを屋根の上にはねあげて、風通しをよくした。 そして二人がトルコ人のように毛布にじかに座ってからまもなく、森の暗闇をじっと見つめていたアリスが、突然はっと息をのんで、ルイの腕にすがりついた。
「ルイ、あれを見て!」
と、声を殺してささやいた。
ルイは彼女の指さす方を見た。 丘の頂きにまっすぐ立っている大きな人影に似たものが、暗い夜空を背景にうすぼんやりとした影絵のように見えた。
それはほんのしばらく耳をすましているような様子で立っていたが、やがてゆっくり半転してジャングルの闇の中へとけてしまった。
「なあに、あれは?」
「わからない。」
彼は緊張した声で答えた。
「暗いし、遠くてよくわからなかったけど、いま昇りかけた月の光で、なにかの影があそこに映ったのかもしれないよ。」
「そうじゃないわ、ルイ。 人間ではないとしても、なにか人間に似た大きな怪獣みたいだったわ。 あたし、こわい!」
彼はアリスを強く抱きしめ、はげましと愛の言葉をささやいた。 若い妻の悩みや恐怖が、彼にとっては最大の苦痛だった。 彼自身は勇敢で恐れることを知らないが、彼は恐怖が人間に与える激しい苦しみを理解できた。 青年ルイはそのようにまれな才能を持っていたために、彼を知る多くの人から尊敬され、愛されていたのだった。
彼はそれからすぐ、浜に面した方を少し開けただけで、ほかは帆のカーテンを全部おろして木にしっかと結えつけ、完全に囲った。
こうしてまっ暗になった小さな巣の中で、二人は毛布の上に横になり、眠ることによって、ほんのひと時でも忘却の安らぎと休息を得ようとした。
ルイは猟銃と拳銃を手にしたまま、入り口に向いて横になった。
目を閉じたかと思うと、後方のジャングルからヒョウの不気味な叫びが鳴りひびいた。 その声は次第に近づき、やがて真下から聞こえてきた。 ヒョウは一時間あまり、かれらの小屋を支えている木を引っ掻いたり、荒々しく鼻を鳴らしたりしていたが、ついにあきらめて浜づたいにのっそりと引きあげていった。 ルイは明るい月の光でそれをはっきりと見ることができた。 いまだかって見たこともないほど大きな、みごとなヒョウだった。

                                  



            ほんとにこんな立場になりたくありません。
            同じ条件で、ミロ様カミュ様はどのくらい立派に家を作れるだろうか、とふと考えました。