※ 固有名詞等を変えてありますが基本的には原作そのままです。
その27 過去 〜 ジャングル 2 〜
夜が明けたとき、彼らはほっとした気持ちになったが、朝のすがすがしい気分はほとんどなかった。
塩漬けの豚肉とコーヒーとビスケットの粗末な朝食をすますとすぐ、ルイは自分たちの家を建てる仕事にとりかかった。
頑丈な壁でジャングルの獣たちを完全に遮断しなければ、身の安全も睡眠も期待できないことがわかったからだ。
骨の折れる仕事で、小さな一部屋の家を建てるのに一ヶ月近くかかった。 こんどは直径六インチほどの短い丸太をはりめぐらし、丸太と丸太の隙間には、数フィート地下から見つけた粘土を詰めた。
部屋の一隅に浜から拾い集めた石で炉を作った。 これを粘土で仕上げ、家が完成すると、丸太の壁の外側を四インチほどの厚さに粘土を塗りこめた。
窓の部分は約一インチの太さの枝を縦横に組み、強力な獣の襲撃にも耐えられるがっしりした格子窓にした。
これで家の安全度を低めることなしに換気ができるようになった。
A型の屋根は最初細い枝を束ねてふき、その上に長い草やヤシの葉を敷き、最後に粘土を上塗りした。
ドアは荷物を入れてきた木箱の板で作った。 板を枠木に横に釘付けし、さらに二重に張り合わせて隙間を埋めたため、厚さが三インチ以上もあるおそろしく頑丈なものになったので、二人はそれを見て思わず吹き出してしまった。
しかし、それからが大変だった。 重くて頑丈なドアを作ったものの、それを取り付ける金具がなかったからだ。
しかし、いろいろ工夫した末、二日がかりで堅木の丈夫なちょうつがいを二つ作ることに成功し、それでドアを取り付け、楽に開閉できるようになった。
壁塗りやその他の仕上げは、屋根ができてからすぐ引っ越しをしたあとで行なった。
その間、夜はドアの前に箱を積み重ねて、比較的安全な、居心地のいい住まいで寝起きすることができた。
ベッドや椅子、テーブル、棚などはわりあい簡単に作れたので、二ヶ月たったころにはいちおう落ち着いた暮らしができるようになった。
ときどき野獣の襲撃に驚かされたり、日増しにつのる孤独のきびしさはあったが、住み心地は悪くなく、生活の苦しみはなかった。
夜間には大きな猛獣がかれらの小さな家のまわりで吼えたが、たびたびくりかえされるうちにそれに馴れて気にとめなくなり、一晩中ぐっすり眠れるようになった。
最初の晩に見た大きな人影のようなものを、その後三度ちらっと見かけたが、いずれも距離が遠くて、人間なのか獣なのか判断がつかなかった。
極彩色の小鳥や小型の猿たちは次第に新顔の居住者に馴れてきた。 いままで一度も人間を見たことがなかったために、最初の驚きが薄れるにつれて、ジャングルや平原の野生動物たちに特有な強い好奇心にさそわれて、だんだんと近づくようになり、ひと月もすると、数羽の小鳥がトゥールーズ夫妻のやさしい手から餌をついばむようにさえなった。
ある日の午後、ルイが部屋をいくつか建て増しする計画を立てて、その作業をしていたときだった。
夫妻の不恰好な小さな友だちの一団がきいきいわめきながら、丘の頂きの方から木の間をぬって、あわただしく近づいて来た。
走りながら、おびえた目で後ろをふりかえり、やがてルイのそばで立ちどまって、なにやら危険が迫っていることをかれに警告するような調子で、きゃっきゃっと興奮した叫び声をあげた。
どうしたのだろうと思うまもなく、猿たちの恐れていたものが姿を現わした。
それはトゥールーズ夫妻が何度か遠い夜陰の中でかいまみたあの人間に似た野獣だった。
前かがみになった姿勢でジャングルの中を駆けぬけ、ときどき握った手を地面において立ちどまる大きな類人猿だった。
前進しながら太く濁ったうなり声をあげ、ときどき異様にしゃがれた声で吠えた。
ルイは小屋から少し離れたところで、部屋の建て増しの材料として格好な一本の木を切りかけていた。 数ヶ月間安全で平和な日がつづき、その間ずっと日中は危険な野獣がまったく現れなかったために気がゆるんで、猟銃や拳銃を小屋の中においていた。
しかも、草やぶを踏み分けてまっすぐ彼のほうへ突進してくる巨大な類人猿は、事実上かれが小屋へもどる退路を遮断する方向から迫っているのだった。
しまった! 彼は背すじに冷たいものが走るのを感じた。
その獰猛な怪物に斧で立ち向かっても、ほとんど勝算はなかった、 アリスのことが彼の脳裏をかすめた。
アリスが危ない!
まだ、小屋へもどるチャンスがわずかに残っていた。 彼は走った。 類人猿がかれの退路をふさいだ場合を考えて、走りがなら妻に大声で知らせた。
「早く家へ入って、ドアを閉めろ!」
アリスは小屋の外に腰をおろしていた。 夫の声を聞いてふりかえると、大きな醜怪な獣がちょっと信じられないほどの速さで跳びはねながら、夫の逃げ道をふさごうとして突進してくるのが見えた。
あっと低く叫ぶと、彼女は夢中で小屋へ駆けこんだ。小屋へはいる瞬間、恐怖にひきつれた目で後ろをふりかえって見た。猛獣は彼女の夫の前に立ちふさがっていて、いまや進退きわまった夫は、両手で斧をあげ、狂暴なその怪物が襲いかかってきたとき、一気に勝負を決しようとする構えだった。
「ドアを閉めて、かんぬきを掛けろ、アリス」
とルイは叫んだ。
「こいつは僕が斧で始末してやる。」
だが、彼はいま死と対決していることを、自分でも知っていた。 アリスもそれがわかった。
おそらく体重が三百ポンドはあるだろう、巨大な醜怪な類人猿だった。 餌食の前で立ちどまると、大きな牙のような犬歯をむき出して地鳴りのようなうなり声をあげ、ぼうぼうたる眉毛の下の陰険な、眉間の迫った目が憎しみと殺意をみなぎらせて、ぎらりと光った。
ルイは野獣の肩ごしに、二十歩ほど離れた小屋の通路が見えた。 その通路から、年若い妻が猟銃を手にして飛び出してくるのを見たとき、はげしい驚きと恐怖で一瞬目がくらんだ。
彼女は日ごろ銃をこわがって、決して手をふれなかった。 しかしいまは、子を守るために恐怖を忘れた雌ライオンのように、狂暴な類人猿に向かって突進してきた。
「アリス、もどれ! お願いだから、もどってくれ!」
ルイは叫んだ。
だが、彼女は聞こうともしなかった。 ちょうどそのとき類人猿が襲いかかってきたので、ルイはそれ以上彼女に忠告する余裕がなくなった。
彼は上にふりかぶった斧を渾身の力をこめて打ち下ろした。 しかし、強力な野獣はおそろしく大きなはがねのような手でそれをつかむと、ルイの手からもぎ取って、ぽいと横へほうり投げた。
野獣は地鳴りのようなうなり声をあげて、無防備になった餌食に襲いかかった。
だが、その牙がルイの喉にかぶりつく寸前に、鋭い銃声が炸裂し、弾丸は後ろから類人猿の両肩の中間をえぐった。
ルイを地面にほうり捨てると、野獣はくるりと向きを変えて、新しい敵に牙をむいた。
その目の前で、恐怖におびえた、かよわい、若い女が、野獣の体にもう一発ぶちこもうとして必死になっていたが、彼女は銃器の構造を知らなかったので、銃の撃鉄はからっぽの薬莢の底をいたずらにはじくだけだった。
ルイはそれを見ると同時にはね起き、素手では無力にひとしいことも忘れて、失神して崩れるように倒れた妻から野獣を引き離そうというただ一念で、がむしゃらに突進した。
一瞬後に、彼は労せずしてそれに成功した。 野獣の巨体がひとりでにふぬけたようになって芝草の上に転倒したからだ、死んだのだった。
アリスの射った弾丸が野獣の心臓をぶち抜いたのだろう。
急いで妻の情況を調べてみたが、かすり傷ひとつなかった。 おそらくルイがはね起きて野獣に飛びかかろうとしたとき、すでに野獣は死んでいたのにちがいない。
彼はまだ気を失っている妻をそっと抱き上げて、小屋の中へ運んだ。 意識が回復するのに二時間以上かかった。
目を醒ましたときの彼女の最初の言葉は、ルイにはさっぱり意味がわからなかった。
それからしばらくすると、アリスは小屋の内部をけげんな目で眺め、やがて、ほっと満足のため息をついて言った。
「ああ、よかった! ほんとうの家にいて、よかったわ。 あたし、恐ろしい夢を見ていたのよ、ルイ。
ロンドンから遠い旅に出たまま帰れなくなって、どこか恐ろしい土地で暮らしている夢なの。
猛獣があたしたちを襲ってきたのよ。」
「うん、なるほど。 」
彼はアリスの額をやさしく撫でた。
「さあ、もう一度おやすみ。 そんな悪い夢のことなんか気にかけずにね。」
その夜、原始の森のほとりの小屋の中で、男の子が生まれた。 ヒョウがドアの前でけたたましく叫び、丘の向こうからライオンの咆哮がいんいんと鳴りひびいているときだった。
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こうしてその子はこの世に生を受けました。
長い物語の始まりです。