※ 固有名詞等を変えてありますが基本的には原作そのままです。

その28   過去  〜 ジャングル 3 〜

アリス夫人は大きな類人猿の襲撃のショックから、ついに正気をとりもどすことができなかった。 彼女は男の子を生んでから一年間生きていたが、二度と小屋の外へ出なかったし、また、自分がイギリスにいるのではないことにも、最後までまったく気付かなかった。
ときどき彼女は夜間の異様な騒音についてルイに問いただしたことはあった。 召使や友人たちのいないことや、彼女の部屋の家具や調度品の妙に粗末なことについても訊いた。 しかし、彼はべつだん彼女を騙そうとはしなかったが、説明しても意味が全然わからないようすだった。
そのほかの面では、彼女はごく理性的で、かわいい息子を持っていることに喜びと幸福感を抱いていたし、それと夫の終始変わらぬ思いやりが、彼女の短い人生の最も幸福な一年にした。
もし彼女の精神機能がすべて醒めていたら、不安や悩みにたえず苦しめられていたろう。 ルイはそれを知っていたので、異常な精神状態の彼女を見ると心が痛んだけれども、彼女が今の境遇を理解できないことを、彼女のために嬉しく思ったことが何度もあった。

彼は偶然による以外に救出される見込みはまったくないものと、とっくにあきらめていた。 そして、小屋の内部を美しくすることに熱中した。
ライオンとヒョウの毛皮で床を飾った。 戸棚や本棚が壁ぎわに並べられた。 付近から掘った粘土で作った風変わりな壷に、華麗な熱帯の花が生けられた。 窓には竹や草で織ったすだれが掛けられ、とりわけ苦心したのは、粗末な道具で材木を削って、天井や壁にきちんと張り合わせたり、平らな床板にする作業だった。
そうした慣れない仕事をまがりなりにもやれるということが、かれ自身にとって大きな驚きだった。 しかし、それが妻のためであり、たとえ彼の責任と情況の困難さを何十倍かにするにせよ、両親をはげますために生まれてきた小さな生命のためであると思うと、仕事が楽しかった。
それから一年の間に、ルイは何度か巨大な類人猿に襲われた。 小屋の周辺一帯にかなりはびこっていたらしい。 しかし、彼はもう二度と猟銃と拳銃を持たずに外へ出るような不注意を犯さなかったので、それらの野獣を少しも恐れなかった。
彼は絶えず食物を補給しなければならなかったので、狩猟や果物を採りに出かけているときに、野獣が小屋を壊してはいる心配のないように、窓の防備を強化し、ドアには独特の木製の錠を取りつけた。
はじめのころは小屋の窓から獲物を射つことができたが、しまいには野獣どもが、恐ろしい雷のような銃声を発する奇怪な小屋を恐れて、近づかなくなった。
閑なときには、新しい任地で読むつもりで持ってきたたくさんの書物の中から選んで読書し、しばしば妻のために読んでやった。 その中には幼児のための本、絵本や入門書や読本も多数あった。 任地で生まれる子どもがそのような書物を読む年頃になるまで、フランスに帰れないだろうと予測していたからだった。
彼はまたフランス語で日記を誌し、彼らの特異な生活を詳細に記録した。 その日記はいつも小さなブリキの箱に入れておいた。

男の子が生まれた日から数えて一年目の夜、アリス夫人は静かに世を去った。 まったく安らかな最後だったので、ルイが目を醒まして妻の死んでいるのに気付いたのはそれから数時間後のことだった。
情況の深刻さが、かれの意識に徐々に迫ってきた。 しかし、かれ自身の悲しみの深さや、まだ乳離れしていない赤ん坊の世話をしなければならない父親としての困難な責任を、かれが完全に自覚していたかどうか疑わしい。
彼の日記は妻の死の記録で終わっている。 その悲しい出来事をまったく事務的な筆致で記していることが、哀れをさそう。 長い間の悲しみと絶望感に疲れて鈍った感覚は、このような残酷な打撃にもほとんど苦痛をおぼえなくなっていたことがうかがえるからだ。

    我が子は乳を求めて泣いている  ああ、アリス、アリスよ、私はどうすればいいのだ

ルイはこの最後の言葉を書いたとき、そばのベッドに冷たく横たわっている妻のために作ったテーブルの上に腕をやすめ、日記を書きすすめるためにペンを持ったまま、ぼんやり首をたれてもの思いに耽っていた。
もうずっと前から、真昼のジャングルの死のような静寂を破る物音はまったくなく、ただ森閑とした中で、赤子が悲しげに泣きつづけていた。


                                  



            可哀そうで、また涙が出ました。
            読むのと書くのは、もしくは書き写すのは違います、時間がかかるだけに心に染み入ります。