その33   トゥールーズ 5  〜木登り〜

翌日、アレクサンドルがミロの戸籍を作るために市役所に出かけていった。 情況が特殊すぎるが、ミロの素性を証明する資料は揃っているので受理されるのは間違いなさそうだ。
出かける前にアレクサンドルは厩舎の馬をどれでも乗っていいと言い置いていったので、ミロとカミュは厩舎係りに遠乗りのコースを教えてもらってさっそく森へやってきた。 ブーローニュでは規定の乗馬コースしか走れなかったのに比べると、さすがに私有地だけあって馬を走らせているのが自分たちしかいないというのがなんともいえぬ贅沢だ。
「ああ、気持ちがいいな!」
「やはり馬はよい! 車とは比べ物にならない!」
ひとしきり走らせて軽く汗をかいたあとで深い森陰に入ると、涼しい風が心地よい。
「だいぶ城から離れたけれど、このあたりもトゥールーズの土地なのか?」
「そうだ。 ジャングルでは土地は誰のものでもなかったろうが、フランスでもほかの国でも土地の持ち主は決まっている。 土地にも値段があって、高いお金を払わないと自分のものにすることはできない。 他人の土地に勝手に入ってはいけないし、そこに生えている木も草も持ち主のものだ。」
「変な話だ。」
「そうかもしれない。 文明国は決まりが多すぎるのは確かだ。」
「ジャングルには決まりは一つしかないぜ。」
「なに?」
「強いものが生き残る。 もっとも、女と子どもは守られなくてはいけないが。」
その言葉がカミュにミロの子ども時代を思わせた。
「カラは自分の子どもを生まなかった?」
「俺にあまりに手がかかるのでつきっきりだったから、子どもを生んでいる場合ではなかったと言っていた。 だって、ほかの子どもは生まれて1年もすれば立派に自分で餌を探せるのに、俺はいつまでもカラに抱かれて乳を飲んでいたんだそうだ。 どうしてこの子は育ちが悪いんだろうって、ずいぶん心配したと言っていたよ。」
「それは気の毒なことをした。 人間の成長はほかの動物に比べてゆっくりだから、さぞかし気を揉んだことだろう。」
「雨が降って寒いときはみんな身体を寄せ合って雨が終わるのを待つ。 みんなと違って俺には毛が生えていなかったから、大きくなってからも夜はずっとカラに抱かれて寝てた。 温かくて気持ちがよかったな。」
海岸の小屋の外で初めて類人猿に襲われたときのことをカミュは思い出す。 あれは雄の類人猿だったろうが、雌の外見もそんなに変わるものではないだろう。

   それでもミロにとっては大事な母親なのだ
   外見の美醜で我々が勝手に判断するのは間違っている
   アリスが受けるべき敬愛をミロはカラに捧げたのだから

落ち葉が自然に堆積して腐葉土になった小道はふんわりと柔らかく、馬の蹄にもあたりがやさしい。 乗り心地もよくて、そんなところもブーローニュとはおおいに違う。
「そのかわり大きくなってからはずいぶんカラを助けたよ。 おいしい餌を探すのもほかのものより早かったし、草の葉を結んで獲物を転ばせるための罠を作れるのは俺一人だった。 工夫して草の葉をより合わせて縄を作って獲物をつかまえた。 海岸の家でナイフを見つけてからは、ずいぶん便利になった。 仲間はみんな羨ましがっていたな。狩りをするのも楽になったし、俺にはみんなと違って牙がないから、ナイフを使わないと獲物を裂くのが難しいんだ。」
ジャングルのことを懐かしそうに話していたミロが急に黙った。
「どうした?」
「こんなことはカミュじゃないとわかってもらえないだろう。 とくに女性は野獣のような男を嫌うものだ、それは俺にもわかる。 そうは思わない?」
「あの、それは………そういうことは人によって違うと思うから。」
「俺はやっぱりフランス向きじゃないな。」
ミロに里心がついたような気がしたカミュがフランスのいいところを考えさせようとしてふっと思いついたのは蜂蜜のことだ。
「フランスでは蜂蜜を瓶に入れて売っている。 それもたいして高くない。 あれはどう?」
「あれはすごくいい! 最高だ! 人間ってすごいと思う。 カラに見せたらどれほど喜んだことか!」
「うん、そうだな。 ブルゴーニュに蜂蜜農園があるから、今度見に行こう。」
「ああ、それはいいな!」

   フランスの魅力って、まさか蜂蜜だけではあるまい
   美術館やコンサートもいいと思うが、アフリカの魅力に勝てるだろうか?
   料理は………たぶん負けるのかもしれない

首をかしげながら馬を進めていると、すくすくと育った広葉樹の森にやってきた。
「ああ、これはいい!」
上を見上げたミロが笑う。
「こんな森を探してたんだよ。 今日はカミュも登る?誰も見てない。」
「え?」
吹いている風にざわざわと梢が揺れて、おいでおいでと誘いをかける。
なんだかカミュはおかしくなった。 名前のことも蜂蜜のことも、それがいったいなんだというのだ。 ミロは森が好きで、狩りが好きで、自由に振舞っているからこそミロなのだ。
「では、そうしようか。」
「そうこなくちゃ!」
手近の木に手綱を結びつけるとカミュはジャケットを脱いだミロの首に両手をまわしてつかまった。 身軽くいちばん下の枝につかまったミロはあっという間に反動をつけながら上へ上へと登っていって、わかっているはずなのにカミュをどきどきさせた。
枝を差し伸べあっている隣の木をうまく利用して可能な限り高いところまで登ると、ミロは手ごろな枝の根元にカミュを座らせて、自分は反対側にのびている少し低い枝に立ってカミュの肩に手を回してさらにしっかりと安定させた。
「ああ、すごい! 森の上にいる!」
風が吹いて梢が揺れる。 木々のざわめきがとても近くて森の匂いが押し寄せる。
「カミュはこんなのが好き?」
「好きだ! とても気持ちがいい!」
「よかった!喜んでもらえて嬉しい。」
ミロが幹の向こう側で笑った。 まるで宝物を見つけて喜んでいる子どものようだ。

   ミロ………私はここに君を連れてきて喜んでもらえただろうか?
   ここで暮らすことは、ミロに望んでもいない義務や責任を押し付けることになるのではないのか?

思い切って聞いてみた。
「ミロはトゥールーズとアフリカと、どっちが好き?」
「カミュがいるならトゥールーズも好きだ。 むろんアフリカは好きだが、カミュがいなかったら少し寂しいだろう。」
「そう……」
的確すぎる答えがカミュをたじろがせた。 カミュに会うまでは一人で行動することになんの疑念も抱かなかったミロは、気持ちを通わせることのできる人間の友達を知ってついに孤独の意味を知ったのだ。
いつの間にか空が暗くなり、ポツリポツリと雨が落ちてきた。 下に繋いである馬がいななきをあげる。
「カミュ、もう帰ろう。」
「ん……そうしよう。」
スコールとは違うやさしい雨が二人を追い立てた。


ミロ・スコルピーシュ・ド・トゥールーズ、それが正式に市役所に届けられたミロの名となった。 自分の名を自分でつけるのも妙なので、祖母とアレクサンドルが決めたのである。
出生証明書はあるはずもなかったが、日記と指紋鑑定書とを持っていったアレクサンドルがトゥールーズの後継者として認めるという含みを持たせて申請したのだから、短時間の審理のあとですんなりと受理されたのだ。
「これで君も立派なフランス国民だ。 正式な旅券も取れる。 おめでとう、ミロ!」
跡継ぎの件はともかく、戸籍ができたことはたしかに大きな前進だ。 ほっとしたカミュに握手されたミロが言ったことは、しかしいささか違っていた。
「旅券があればいつでもアフリカに行ける?」
帰れる? と言わなかったところがカミュには嬉しかったが、ミロなりに気をつかったのかもしれなかった。
「ああ、大丈夫だ。 どの客船にも乗れる。 費用のことも心配しなくて大丈夫だ。 君に助けられた命なのだから、私の自由になる財産はすべて君のものと言ってもいいくらいだし、父も母もあらゆる援助を惜しまない。 それに、もちろんアレクサンドルもだ。 君はもうトゥールーズの人間なのだから。」
「そのことだけど、」
「…え?」
「やっぱり俺には無理だ。 トゥールーズは継げない。」
青い眼がまっすぐにカミュを見つめた。


                                  



         繰り返される素直な告白がカミュ様の心を揺さぶります。
         女であれば話は簡単なのに!
         もしかして設定ミス?