その34   トゥールーズ 5  〜涙〜

その夜、そろそろ寝ようというときだった。
「俺がトゥールーズを継いだら、その次はどうする?」
「どうする……って?」
「俺には子どもがいない。 俺のあとは誰がトゥールーズを継ぐんだ?」
「それは、あの、子どもがいない場合はもう一度アレクサンドルに…」
「それなら、なにも俺がわざわざ継がなくてもいいじゃないか。 このままのほうが自然だよ。」
あまりにあっさりとミロが言うので、カミュは混乱した。
「だって………だって君はまだ若いし、結婚だってこれからの話じゃないか!」
「とても考えられない。 ずっとフランスで育った女性と考えが合うとは思えないし、やっぱり俺はアフリカが好きだ。 カミュのことは大好きだし、ここの人たちもいい人だけど、俺にはアフリカが向いている。 そう思わない? カミュは俺がここで満足して暮らせると思う? カミュはこれからもずっとパリで暮らすんだろう?」
「私は……」
「ここに暮らすことになれば、たぶん結婚をすることになるんだろう? 誰と? そんなことは考えられない。 有り得ないね。」
カミュの頭の中に、トゥールーズの莫大な資産とか、フランスでも一、二を争う大貴族の家柄とかの、世の人が羨望するさまざまなステイタスが浮かんでは消えた。 しかし、それらのものがアフリカで育ったミロにはなんの魅力もないことはよくわかる。 ミロの家はこの城ではなくて、あのジャングルであり、海岸の家なのだ。

   でも………でも、ミロがトゥールーズを継ぐにはほかにもわけがある!

「それでは、赤ん坊の君を残して不幸な死を遂げた両親の思いをかなえてやるのはどうなのだ? この子に跡を継がせたいと望んだルイの気持ちにどう応える?」
「俺の両親が誰だかわかったし、日記を読んだから、俺のことを心配していたのもよくわかる。 母親のことはまったく覚えていないが、俺のことをとても大事にして可愛がってくれたこともわかった。 生きていれば、きっとカラと同じようにしてくれたのだろう。 アレクサンドルと一緒に俺があの家に行けば、立派にトゥールーズの人間になったのがわかって喜んでくれると思う。 違う?」
「いや………違わない…」
短期間でミロがこれほど人間的な考えができるようになっていることにカミュは驚いた。 つい最近までは人と話したこともなく、ジャングルで類人猿と変わらぬ暮らしをしていた人間とは思えなかった。
「カミュのおかげでここまで来て、とうとうトゥールーズの人間だと証明された。 祖母という人にもわかってもらえた。 それだけじゃ足りない? 俺がここの跡をついで無理をしているとわかったら、もしもカミュが親だったらどう思う?」
「ミロ………」
そこまで言われて、どうしてカミュに、それでもトゥールーズを継ぐべきだと言えるだろう。 いや、言えはしない。 これはミロの問題なのだ。
「わかった…」
なぜか胸に風が吹き抜けた。 ミロがアフリカに帰ってしまったらきっと毎日が淋しくなるだろうと思われた。 ミロのためを思えばこそフランスに連れてきたのに、今では自分の方がミロを必要としていたことにカミュは気付かされた。
「カミュ……泣いてる?」
「え…」
気がつくと、すぐ目の前にミロがいて顔を覗き込んでいる。
「そんなことは私は……」
「俺が泣かせた? 俺がトゥールーズを継がないとカミュは悲しい?」
「私は泣いてなど……あっ…」
ミロがカミュを抱きしめた。
「カミュに泣いてほしくない。 どうすれば笑ってくれる? もう一度木の上に連れて行こうか?」
「ミロ……」
「俺は一度だけ泣いたことがある。 カラが死んだときだ。 俺たちの住処に入り込んできた蛮族の矢にいきなり射抜かれたのだ。 そのとき、悲しいときに涙が出るのだと初めて知った。 胸が裂けるかと思った。」
ミロの手がカミュの髪を静かに撫でる。
「やつらにつかまっている白い人間を見たときにカラのことを思い出した。 俺と同じ色の人間を初めて見つけたのに殺させるわけにはいかなかった。 カラは助けられなかったけれど、この人間を助けようと思った。 そしたら、それがカミュだったんだよ。」
「ん……」
「アリスが俺を生んで、カラが俺を見つけて育てて、カミュが俺を人間にしてくれた。 ありがとう、感謝する。 二人はもういないから、カミュにしかお礼を言えない。」
「ミロ……」
声が震えてカミュは何も言えなかった。 世の中には心無い人間も数多いというのに、ジャングルで育ったミロはこんなにも豊かな人間性を身につけていた。
「どうしてそんなに泣く? そんなにカミュを悲しませた?」

    そうではない………そうではなくて……

感動して、心を揺り動かされて泣くこともあるのだと伝えたかったが、今はそれさえもできはしない。

   落ち着いたら、あとでゆっくりと説明しよう
   今はだめだ、なにも言えない………

あきらめたカミュがミロの胸に頬を寄せた。 その方が涙を見られなくて済むからだ。
そのとき突然抱き上げられた。 開いていた窓に歩み寄ったミロはあっというまに窓の外のマロニエに飛び移り、地面に降りるとカミュを抱いたまま、すたすたと広い前庭の真ん中に生えているナラの大木に歩いていった。 驚いてもがくカミュを気にもせずにナラの木に登ったミロは居心地のよさそうな太い横枝に座って背中を幹にもたせ掛けた。
「ここなら笑ってくれる?」
夜目にも青い瞳がカミュをのぞく。 
「あの、ミロ、わかったから。 もう抱いてなくていいから。」
「だめだ。 まだ涙が出てるし、この木の枝は二人で並んで座るには不安定すぎる。」
「そう……かな?」
「そうだよ、俺のほうが専門家だから俺の言うことを聞いて。」
ため息をついたカミュはミロに任せることにした。 風に揺れる木の葉のささやきが夜の匂いを運んでくる。
抱かれている心地よさにカミュは大きく息を吸った。


                                  



                    ミロカミュになりました。
                    トゥールーズの夜は静かに更けてゆきます。