その36   ミロの帰還

アレクサンドルが手配した船は二週間後に出航することが決まり、ミロとカミュはいったんパリへ引き上げた。
「こんどアフリカで暮らすからには、ジャングルでは好きにしてもいいが、居留地では紳士として振舞ってもらいたい。」
「ああ、わかったよ、せいぜいおとなしくしてるから。 でも、おとなしくしてたら、いったい俺は何をすればいいんだ?」
「ええと……ともかく洋服をもっと作って、必要な品物を揃えなければ。」

パリに戻ってからのミロは忙しかった。 事情を聞いて驚愕したレオナールはパリを立つ前にぜひともコンサートに行こうと主張し、ミロはガルニエ宮に二度も引っ張っていかれた。 
警察署に行くと、成り行きを心配していた警視が満面に笑みを浮かべて握手をしてきて、ミロがトゥールーズの人間であることが署内に瞬く間に広まった。 ディスマルクは上司の眼を盗んで書類をうっちゃってミロのところに来ると、
「君があのトゥールーズとは! いやぁ、まったく驚いた! トゥールーズの人間に投げ飛ばされた経験のあるやつは珍しいよ。 え? アフリカに帰るんだって? う〜ん、それは残念! パリに来たときはぜひ寄ってくれ、署の車でどこでも連れてゆくから遠慮なく言ってほしい!」
握手しながら興奮してしゃべりまくり、苦笑した警視から、はやく持ち場に戻るようにと業務命令を受けて、しぶしぶ戻っていった。
「投げ飛ばして悪かったな。」
「しかたないさ、あのときは。 ライオンと互角以上に闘える人間とやりあって勝てる男はどこにもいない。」
「そうだ! 家が決まって落ち着いたらディスマルクを呼んでやろう。きっと面白がる!」
「でも、蛮族にさらわれないように気をつけてやらないと。 あれは心臓に悪い。」
「俺も、カミュとレオナールだけでたくさんだ。」

あれもこれもとカミュが選んだのでミロの荷物はずいぶん多くなった。 もっとも蜂蜜の大瓶を2ダースも注文したのはミロなのだが。 まだまだ勉強し足りないというのでたくさんの本も荷造りをした。 こんどは小説も選んだので、ミロも少しは恋愛の感覚が芽生えるかも知れないとカミュは思う。 むろん、悲恋の類は慎重に避けてある。 ハッピーエンドこそ物語の王道というものだ。
猟銃と拳銃、たくさんの弾薬も入れた。
「どうしてそんなものを? ナイフで十分じゃないか。」
「君が出かけている間に私が襲われるかもしれないし。 それに、二人一緒のときでも何頭ものライオンに囲まれたら私も闘えなくては困る。 いつまでもミロに助けてもらうわけにはいかない。」
「ライオンも何頭かで狩りをすることもあるからな。 でも、カミュ狩りなんてやめたほうがいいな。」
「カミュ狩りとは………なぜ、やめたほうがいいのだ?」
「決まってる。 みんな、俺に返り討ちにされるから。」
笑っているミロはほんとに頼もしい。

カミュの家族たちはミロとの別れを惜しんだ。 はるかに格が上のトゥールーズの御曹司であったこともさることながら、わずかの滞在でもミロの人柄を理解し愛してくれたのだ。
「あなたを息子と同じに思っています。 どうぞ、パリにいらしたら、うちでゆっくりしてくださいね、アフリカに行っても身体に気をつけて。」
カミュの母はミロを心を込めて抱擁し、涙を流してくれた。 二人の姉も弟の命の恩人であるミロと別れることを残念がって頬を染め、年若い弟はミロのたくましい体躯に羨望の眼差しを向けた。
「君がいなかったら私の息子はアフリカの奥地に人知れず骨を埋めているところだった。 本当にありがとう。」
固く握手をする父親に、骨は埋めるのではなくて雨ざらしになるところだったのです、と言いそうになったカミュは危うく言葉を飲み込んだ。ここでそんな赤裸々なことを言ったら、アフリカに滞在する許可が取り消しになりかねない。
「では、次はいよいよアフリカだ!」
別れを告げて列車に乗り込むと二人の思いは海の向こうの大陸に飛ぶ。 ミロは生まれ故郷を、カミュはミロと出会った思い出の地を心に描いていた。

トゥールーズで合流すると一同はマルセイユに向かい、真っ白い大型ヨットに乗り込んだ。 ミロの祖母、アレクサンドル夫妻、その息子夫婦、それからアリスの両親と兄弟もいるので大人数だ。 アレクサンドルが手配したこの船は最新式で、長い航海にもなんの不自由もない。 専属の料理人の作る料理が陸の上となんら変わらないのはたいしたものである。
ミロとカミュのほかはスエズ運河を通るのも初めてで、カミュは説明に忙しい。 ミロは刻々と近づくアフリカに思いを馳せながら、別れを惜しむ祖母や親類との時間も持つように心がけていた。
やがてヨットは予定通りにあの居留地の港に入港した。
「とうとう着いた!」
「降りたとたんにジャングルに駆け込むのは我慢してくれ。」
「わかってる。 でも、うずうずする。」
居留地の事務所で査証を受けるとホテルに入り、その日は久しぶりの陸地で夜を迎えることになった。 トゥールーズの人々は初めてのアフリカの夜に興奮気味だが、ミロの興奮は一味違う。
「気分はどう?」
「なんとも言えない懐かしい気がする。 カミュと初めてここに来たときは建物や人が珍しくて変な所だと思ったが、今は嬉しくてたまらない。」
いったんはベッドに横になったミロがむくりと起き上がった。 遠くからライオンの咆哮が聞こえてきたのだ。
「ちょっといいかな?」
指さす先には窓がある。
「好きにしていいよ、君のアフリカだ。 でもほかの人に見つからないようにしたほうがいいと思う。」
「気をつける。」
にやりとしたミロは身軽な格好になると窓から出て行った。
カミュが本を読んでいると二時間ほどしてミロが戻ってきた。
「どうだった?」
「やっぱり素晴らしい! 俺はパリ向きじゃないな、ここが最高だよ!」
「ライオンをかついでなくて安心した。」
「かついできたほうが、もっとトゥールーズの跡継ぎには向かないってわかってもらえるかな?」
「う〜ん、それよりもご婦人方が悲鳴を上げて卒倒しそうだ。」
「それだから俺は結婚する気になれないんだよ。」
ミロがくすくす笑った。

翌日はもう一度ヨットに乗り込んで海岸沿いに南下してルイとアリスの暮らした海岸の小屋を目指した。 ミロとカミュが歩いたときは二十日ほどかかった距離をわずか一日で進んだことにミロは感心する。
「ふうん、文明っていうのはやっぱりすごいな。」
「だからときどきフランスに帰ってきて欲しい。 蜂蜜も補給しなくては、すぐなくなりそうだ。」
「蜂蜜はブルゴーニュに限る!」
そのときミロが見慣れた入り江の形を見つけた。
すぐにヨットを岸に向けると程よいところで停泊し、あとは二艘のボートに乗り込んでついに一同は上陸をした。 ミロが先頭に立って海岸から少し離れた高台に案内すると、二十年前にルイとアリスが建てた小屋が目の前に現れた。
「ああ………ルイ…」
ミロの祖母が言葉をなくして泣き崩れ、アレクサンドルに支えられていなければ倒れてしまったことだろう。 むろんアリスの両親も泣き暮れた。 慣れたかんぬきをミロが開ける。 小屋の様子はミロとカミュが出たときのままで、ルイの手作りのテーブルやベッドが二十年の時を越えて苦闘の跡を偲ばせた。
「こんなところで………ああ、なんてことだろう……」
アレクサンドルが書棚から一冊の本を手に取った。
「私が兄に贈ったハイネの詩集だ。 こんなに読み込んで手擦れしていて……」
ほかにもたくさんの遺品が見つかり、そのたびにすすり泣きの声が漏れた。
それからカミュが小屋の外の二人の墓にみんなを連れて行った。 あのときは新しい盛り土に花を供えたが、いまはすっかり草に覆われている。 アレクサンドルがトゥールーズから連れてきた司祭はルイが生まれたときに洗礼をしたことをよく覚えており、厳かな声で祈りを捧げてくれた。 一同が故人の冥福を祈ったあとで婦人たちが遠くに離れ、男たちがトゥールーズに埋葬するために丁寧に遺骨を掘り出した。 こんどはミロも自分の両親だとわかっているので真剣な表情だ。
カミュが一緒に埋めた金の結婚指輪が出てきて、それも新たな涙を誘ったのはいうまでもなかった。
こうしてルイとアリスはついにトゥールーズの人々の手によって故郷に戻ることを得たのだった。

居留地に戻るとミロの家探しが始まった。 ミロの考える家と、祖母やアレクサンドルの思う家が食い違っていて、意見の相違の調整に手間取ったが、カミュがうまく取り持ってジャングルに程近い空き家を見つけることができたのは幸いだった。
「こんなに大きくなくてもいいと思うが。」
「いや、私のほかにレオナールやディスマルクが一緒に泊まることも考えられる。 部屋数はあったほうがいい。」
なにしろ、ミロの頭の中にあるのはあの海岸の小屋なのだ。 カミュと一つベッドで寝ようと考えている気配のあるミロは、一部屋でいいと思っているらしいが、世の中はそれでは通らない。
「トゥールーズの家の者が一部屋きりの家に住むなんて! アレクサンドル、あなたからも言ってやってくださいな。」
「大丈夫です、お母さん、いくらミロがそれがよくても、このあたりの家はみんな五部屋以上はありますから。」
契約が終わったところでミロの荷物を運び込み、やれ安心と思っていると、外の通りを人がわらわらと走ってゆきたいへんな騒ぎになっている。
「どうしたんだね?!」
アレクサンドルが通りかかった部隊をつかまえて尋ねると、銃を持った下士官が叫んだ。
「安全確認をしていた部隊が襲われた! また蛮族のやつらに決まってる!」
「ダルノー中尉がさらわれた! はやく助けに行かないと、先週の二の舞だ!」
この土地の危険性を再認識したアレクサンドルが唸っていると奥からミロが現れた。
「ミロ、何を……!」
「もちろん助けにいってくる。 これだから文明人っていうのは…」
身軽な格好で腰にナイフを差し、肩に弓と矢筒をかけたミロが風のように出て行き、トゥールーズの人々は唖然として見送るばかりだ。
「大丈夫ですよ、きっと明日は艦長から昼食に招待されると思います。」
カミュが笑って言った。
さよう、ミロにはアフリカがよく似合う。


                                 



             かくて、トゥールーズのミロは、めでたく 36 (ミロ) 回目で故郷に錦を飾りました。
             題名は、もちろん、ロード・オブ・ザ・リング 「王の帰還」 のもじりです。