その9 危機一髪
日記を開いたままカミュが感傷にひたっていると外で物音がした。
ミロが戻ってきたのだと思い迎えに出ると、いきなり巨大な類人猿と鉢合わせしたのだ。
あっと思ったとたん、怪我が治ったばかりの左肩をすごい力でつかまれて軽々と身体を持ち上げられた。 あまりの恐怖に声も出ない。 毛むくじゃらの大きな身体のすぐ後ろにも同じような類人猿が二頭いるのが見えてもうだめだと思った瞬間、鋭い叫び声が聞こえてカミュは地面に投げ出された。 くらくらする頭を上げてカミュが見たものは怒りに燃えるミロだった。 ずんずんと近づくと、カミュをつかんでいた類人猿をいきなり横手で張り飛ばした。
ふらついたところをもう一度ひっぱたくと類人猿は大きな身体を縮めて恐れをなしたように見える。 ミロが二言三言唸るような口調でなにか言うと三頭とも逃げるようにジャングルの奥へ駆け込んでしまった。
「大丈夫か!」
「ああ、何とか……」
駆け寄ったミロに抱き起こされたカミュはさすがに真っ青で声が震えてしまう。 蛮族に捕われたときも恐ろしかったが、野獣の威圧感ははるかにその上をいったのだ。
身長はカミュを上回り体重200キロはありそうなあんな獣なら人の身体を裂くくらいは簡単にやってのけそうだ。
それを一喝しておまけに張り飛ばしたミロの実力にカミュは舌を巻く。
「すまなかった。 あいつらは小さいときからの遊び友達だ。 俺の友達に手を出すな!と叱りつけたらびっくりして逃げていった。」
あれが遊び友達!
カミュは今さらながらミロの 「交友関係」 の迫力に圧倒される。 類人猿と一緒に暮らしていたことは聞いていたが、ぼんやりしたイメージを持っていただけであまり具体的な想像はしていなかっただけに、この遭遇は強烈だった。
気を取り直して肩を見てみると、大きな手で掴まれた痕が赤く残っているが血は出ていない。
「これなら舐めてもらわなくてもよさそうだ。」
「よかった! 俺が戻ってくるのが遅かったら舐めても無駄だったよ。」
ほんとうにここでの暮らしはただ事ではないのだ。
この騒ぎですっかり忘れられていたが、ミロは小型の鹿を捕まえてきていた。
獣の通り道で待ち構えていて矢で射たのだそうだ。
「うまそうな鹿だろう。」
カミュに言わせれば可愛い鹿でミロの表現に苦笑する。鹿を器用にさばいている横でカミュが集めておいた枯れ枝にマッチで火をつけるとミロが興味津々といった様子で覗き込んできた。
「どうやって火をつけたんだ?」
「これだ。」
マッチを見せると、
「ああ、マッチだ、本で見た!もっと大きいと思っていたが。」
と感心する。 本の絵だけでは用途も大きさも材質もわからないのは当然で、これからミロが覚えていかなければならないことの多さに思い至り、カミュは気が遠くなりそうだ。
「これから君はたくさんのことを覚えていかなくてはならない。 ますます君から離れられなくなりそうだ。」
「俺もカミュが好きだ。 もっといろいろなことを教えてくれ。」
直裁な返事がカミュをどきっとさせる。 ミロの頭の中では、一緒にいる=好き、の図式が出来上がっているらしい。
肉を火であぶっていると脂が滴り落ちて食べ頃になってきた。 鹿の肉はパリで何度も食べたことがあるが、いずれも完璧に調理され、洗練された食器に銀のカトラリーが添えられてくる。
それに比べるとなんともワイルドな食事で、この様子をパリの知り合いたちが見たら目を回すに違いなかった。
それにしてもソースもスパイスもないのが惜しまれる。
「せめて塩があればなあ!」
「塩とはなんだ?」
「ええと、海の水を舐めたときの味のことで、それが白く固まったものだ。」
わかりそうにないな、と思いながら説明すると、
「それなら知っている。」
というではないか。
「それのたくさんある場所があって、時々みんなと舐めに行った。 行って帰って来るのに一日かかるので、無駄だと思って塊を持って帰って来てしまっておくとみんな喜んで舐めていた。 そうか、あれを塩というのか!」
塩は生物にとってなくてはならぬもので、ミロの言っているのは岩塩のことだろう。
「人間は食事に味をつけて食べる。 塩はしょっぱくて砂糖は甘い。 甘いというのは……蜂蜜の味だが。」
基礎知識のない人間に説明することの難しさに首を傾げながら一応言ってみると
「蜂蜜なら知っている。 あれはおいしい!」
とミロが言う。
「蜂蜜はみんなの好物だ。 木のうろに蜂の巣を見つけると夢中で食べる。 みんなは毛が生えているから刺されないが、俺は苦労したよ。」
こんな土地にも蜂がいるのかとカミュは驚いて、お互いに知らないことがあるものだと思い知る。
瓶詰めの蜂蜜を売っている店に連れて行ったらミロはなんと言うのだろう?
食べ終わるとミロが鹿の片足を切り取って地面に埋めた。
「それは?」
「明日の分だ。」
余った肉は埋めたほうが長持ちするという。 なるほどと思ったカミュもヒレらしい背中の肉をあぶって明日の食料を作っておいた。
日の暮れるまではフランス語の勉強をして過ごし、遺体のあったベッドにはさすがに寝る気にはならなくて床に新しい青草を敷いた。
「俺は外のほうがいい。」
「これから先、人間の暮らしに慣れるためには今から練習しておかなければ。
それに家の中だと猛獣に襲われる心配がない。 雨が降っても平気だ。」
「なるほど、それはそうだな。」
室内で寝たことのないミロを説得して二人で横になる。 しかしカミュがミロを小屋の中で寝かせた理由はそれだけではなかった。
そうすることにより亡くなった二人が喜ぶような気がしたのである。 寝つきのいいミロは今夜も先に寝息を立て始めたが、刺激的過ぎる一日を送ったカミュはなかなか寝付かれなかった。
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同じ鹿狩りでも仏蘭西とはずいぶん違います。
アウトドアライフの究極を二人で実践。