その1  侵入者

夜更けのパリにカッカッと蹄の音が響く。
国王ルイ13世主催の舞踏会が開かれた今夜は、踊りつかれて帰宅した人々が深く寝入っていてどの屋敷も静かなものだ。
人気もなく寝静まった通りはライラックの香りこそ甘く漂っているが、漆黒の馬に乗っている男は長いマントまで黒一色のいでたちでなにやら怪しい気配を感じさせるのだ。ただ一つ黒い帽子から豊かに流れる豪奢な金髪が、この男が闇から現れた魔性の世界の住人でないことを教えてくれていた。
やがてサン・トレノ街のとある広壮な邸宅の裏に馬を止めた男は手近の木に馬をつなぎ、軽くその首筋をたたいてやると鞍の上に身軽に立ち上がりやすやすと塀を越えて中に入っていった。見ていたのは道を横切っていった黒猫だけで、それもすぐに闇に紛れてしまった。

大きな屋敷に侵入するのはわけもない。 ご大層な屋敷の奥におさまっている主人たちは知らぬことだが、大貴族の屋敷になればなるほど使用人の数は多く、一日の仕事を終えた彼らがそっと街に出かけて気晴らしをするために厨房近くの勝手口には鍵がかかっていないことが多いのだ。そんな時間帯には獰猛な番犬さえ鎖につながれてしまう。
この屋敷もその例外ではなく、思ったとおり目立たない小さなドアを押すと音もなく開いたものだ。
「おやおや、用心の悪いことだ。 アルベール伯も、もう少し気をつけたほうがいいようだな。」
自分が忍び込んでおきながらそんなことをうそぶく男の身のこなしは軽やかで、音もなく厨房を通り抜けると裏手の階段をつたって二階へ上がる。
貴族の屋敷の間取りなど相場が決まっていて、階下には応接室、図書室、食堂、サロンなどが配置され、二階には家族の居室が並ぶ。 使用人の部屋は裏手へと伸びる翼にまとめられていて、夜間にはベッド横に下げられた紐を引くと遠くの使用人部屋の呼び鈴が鳴り、しばらくして部屋係りが御用伺いにやってくるものなのだ。

寝静まった邸内に動くものは男の影だけだが、いつなんどき近くの部屋のドアが開いて家人が現れないものでもない。それを思うと動悸も高まりそうなものだが、どうやらこの男はそれを楽しんでいるふしがある。
笑みを浮かべながら東の翼の端の部屋に近付くと念のためにノブを回してみる。 なんの抵抗もなくドアが開き、鍵がかかっていることを予想してきた男があきれたようにくすりと笑う。

   おやおや、疑うことを知らないっていうのも考えものだな
   無用心にもほどがある!

「鍵は三つは掛けること。 これは常識だな。 まあ、そんなことをしても俺には意味がないが.。」
楽しそうに笑いながらすっと部屋に滑り込んだ男が後ろ手にドアを閉めた。