その10  夜の散策

アルベール伯邸から南に進みポン・ヌフ橋を渡ってしばらく行ったサン・ドミニック街にジャコバン会の修道院がある。
その斜め向かいにあるのがトゥールーズ伯爵の屋敷で、ミロと知り合ってからひそかに馬車を回らせてその前を幾度も行き来していたカミュにとっては初めてではない場所だが、いざ訪れるとなると話は違う。
なにしろ、自分の屋敷以外で馬車を降りたことはない。 今から考えると、人のいない野原とか森で降りてみてもよかったものを、そんなところに差し掛かったときには安心して窓を大きく開けて風に当たるのを楽しみながら馬車を走らせることしか思いつかなかったのだ。
ついにミロの住まいを訪れることになったカミュが不安そうにそう言うと、ミロがちょっと絶句してから、いい案を出してきた。
「それなら俺のところに来る前に、俺と夜の散歩に行けばいいんだよ。 夜の森に行くのは盗賊か陰謀家か恋人くらいだが、サン・ドニ門でも新王宮前広場でも、夜の散歩をするぶんにはなんら問題はない。夜の暗さがお前の目の色を隠してくれる。 気楽に外歩きを楽しめるさ。」
たしかに、ミロと知り合う前のカミュにはそんな必要も欲求もなかったのだが、提案されてみればこんないい考えはない。 日暮れてから馬車を走らせて好みの場所に行き、馬車から降りてミロと二人の散歩をしてあらかじめ決めておいた地点で待っている馬車に再び乗り込めばいいだけの話なのだ。
この計画はすぐにアルベール伯に持ち掛けられて、カミュの実社会経験の不足を気にしていた伯におおいに歓迎された。
「では、明日は夕方に来るから。」
夜の外歩きには月の光が欠かせない。 明日が満月という夜にカミュと親密な時を過ごしたミロがドアのところでやさしい口付けを交わしてからそっと帰ってゆき、寝床に戻ったカミュは明日の冒険に思いを馳せながら眠りに付いた。

「では行ってまいります。 」
「よろしくお願いします、子爵。 で、今夜はどこへ?」
翌日の夕方、ミロがアルベール伯爵家を訪れた。 予想通りの晴天で夜歩きにはなんの支障もない。
「フォーブル・サン・タントワーヌからパ・ド・ラ・ミュール街、サント・カトリーヌ街を抜けて新王宮前広場で再び馬車に乗ろうかと。」
「ほぅ、なかなか良いルートですな!」
にこにこ顔のアルベール伯が頷き、御者に声を掛ける。
「 聞いたな、ムースクトン!」
「はい、旦那様、お任せください。」
御者も仕える家の御曹司の初の外歩きが嬉しいらしかったが、身分をわきまえていてそれだけの返事にとどめている。良い使用人は、聞かれるまでは余計なことは言わぬものなのだ。 今日は留守番のプランシェは嬉しそうにしてアルベール伯の後ろに控えている。
こうして二人を乗せた馬車が出発し、目的のフォーブル・サン・タントワーヌに着いたときには陽もとっぷりと暮れている。
「さあ、降りて!」
御者が扉を開けるより早く馬車から降りたミロがカミュを促した。
目立たない色目の服を着たカミュがあたりを見回しながら降り立つと、扉を閉めたミロがムースクトンに合図する。馬車が石畳を遠ざかって角を曲ってしまうのを見届けたミロが、
「さあ、自分の足で歩くパリはどうかな?」
にっこりと笑いかけると、
「ん………街を歩くのは初めてで、なんだか妙な気がする。」
一つ咳払いをしたカミュが一緒に並んで歩き始めた。
「ここから新王宮前広場までは一時間くらいのものだろう。 暗くなってから散歩をするものはそうはいないが、人の家を訪ねた帰りとか恋人のところに行く男とか、それなりの目的でけっこう歩いているものさ。」
明るい月夜で風も爽やかな今夜は恋人たちも愛を語るのに忙しいようで、サン・カトリーヌ街に差し掛かるまでにそれらしい人影を何組か見かけたものだ。そのたびにミロが、
「ほら、あれは女を口説き落とそうと懸命なんだぜ、女がツンとしてるが男の方は必死になにか かき口説いてるのがわかる!」
「あの二人は明らかに恋仲。 腕を組んでるのがいかにもそれらしい、ほら、キスをした!俺たちも腕を組む?」
などと言うので、カミュは真っ赤になってしまうのだ。
「大丈夫だよ、誰も見てないから。」
「そ………そんな恥ずかしいこと!」
カミュが困り果てていると、すぐ先の角を曲ってきた恋人同士らしい二人の 男の方から声を掛けられた。
「ミロじゃないか! こんなところで奇遇だな!」
「ああ、ディスマルク! お前こそなにを?……って見ればわかるが。」
見ると連れの女がはにかんで恋人の陰に隠れようとしている。
「見ての通りの逢引だ。 名前は女の名誉のために聞かないでおいてもらおうか。お前こそ、えらい美形を連れてるな、紹介しろよ!」
「彼は、」
と強調したようにカミュには思えるのだ。
「俺の親友だよ、カミュ・フランソワ・ド・アルベール。 カミュ、俺の友人のディスマルク・ロワイエ・ド・キャンサールだ。」
「よろしく、カミュ! ディスマルクだ!」
「カミュです、よろしく!」
手を差し出されたカミュが内心の動揺を抑えながら握手をし、満足したらしいディスマルクはこれ見よがしに女の腰に手を回しながらミロたちの来た方向に歩いていった。ドキドキしていたらしいカミュが大きく溜め息をつく。 まさかミロの知人に出会うとは思わなかったので、そうとう緊張したようなのだ。
「急だったが、うまくいったじゃないか! 初めて挨拶するにしては上出来だ、なんの問題もない。」
「あれでおかしくはなかったろうか? 私はもう……どうしようかと思って! まだドキドキしてる!」
「どれ?」
ミロの手が胸に押し当てられたカミュがびくりと身を震わせる。 外で触れられるのは初めてのことなのだ。
「このくらいで驚かないで………パリの恋人同士ならこのくらいは…」
そうささやいたミロがカミュを抱き寄せて口付けた。 果たしてミロがタイミングをみはかっらたものか、ちょうど翳った月がカミュの困惑を隠してくれる。
「ミ…ロ………ほんとに私は困るから…」
消え入りそうな声でカミュが抗議してもミロは涼しい顔である。
「このくらいしないと恋人とはいえないな、夜の散歩にはキスが付き物だよ。 ディスマルクのやつもきっと今ごろは…」
くすくす笑いながら新王宮前広場に入ったときだ、前方から何人もの入り乱れた足音と怒号が聞こえてきて二人をはっとさせた。
「いったい何事だ?!」
緊張したミロが剣の柄に手を掛けた時、視界に剣を抜いた一団が現れたではないか。
見れば、暗色の服装の男三人を追ってきたのは二人の銃士で、パリの住人なら誰でも知っている青い制服を着ており、すぐそれとわかるのだ。カミュが息を飲んだとき、鋭い剣の一刺しが一人の銃士の肩を刺し貫いた。
「カミュはここで待っていろ!」
即座に抜剣したミロが素早く駆け寄り 手近の敵に剣を構えると、残った銃士が驚いたように 「ミロ!」と叫んだではないか。
「レオナールか! 助勢する!」
「有り難い! やつらはシュヴルーズ夫人の屋敷に忍び込もうとした賊だ!」
「そいつはけしからんな! こっちの奴は任せてもらおう!」
たちまち激しい突きの応酬となり剣のぶつかる鋭い音が響く。 双方の腕は互角のように見えたが一度などは敵の刃がミロの頬をかすめてカミュをひやっとさせた。二人を相手にしているレオナールの方は、かさにかかって攻めてくる敵に劣勢だったが、敵の一人の腿を切り払って動けなくすると攻勢に転じ、残る敵を建物の壁際に追い詰めて鋭い突きを入れている。そちらをちらっと見たミロが口元に笑みを浮かべた。
「少しはできるようだな、そろそろ本気でかからせてもらおうか!」
少し身を引いて構えなおしたミロが一気に攻勢に出ると、かなわぬと見た敵が左手で腰の短剣を引き抜いてミロに投げつけたではないか。危うく身体を反らしたミロが耳元の刃風を聞いたとき金髪の一房が風に舞い、見ていることしかできないカミュは心臓が凍りそうだった。
「卑怯者め、目にもの見せてくれる!」
いきり立ったミロが左足を踏み込み相手の脇腹に思い切った一撃をくれるとたまらず敵は倒れ伏す。それには目もくれずレオナールの加勢に駆け寄ったミロが今度は二人して一人に立ち向かったものだから、いかに手ごわいといってもかなうはずもない。剣を投げ出した男が両手を挙げて降伏し、やっとこの件は片付いたのだ。 レオナールが男を縛り上げている間にミロが倒れた銃士の様子を調べてみると、幸いなことにたいした怪我ではないようだ。
「こっちは大丈夫だ、しかしとても歩ける状態じゃない。」
「すぐに加勢を呼ぶ。 なにしろ咄嗟のことで救援も呼べなかったのだ、おかげで助かった!」
レオナールが呼子笛を吹き、倒れている残りの賊もあっという間に縛り上げる。
ここで剣を鞘に納めたミロがカミュに合図をして手招いた。
どきどきする胸に気付かれないようにして暗がりから出てゆくと、ミロにぐいっと手を引かれて紹介されるのも面映い。
「レオナール、俺の親友のカミュだ、ちょっと病みあがりなもので今夜は剣を持っていなくてやむなく見物役に回ってもらったが、参加出来なくて残念だそうだ。」
「はじめまして! レオナール・アイオリッシュ・ド・ランベールです。 今日はたいへんなところをお見せしました。」
「いえ、こちらこそ、ご助勢できなくて残念です。 カミュ・フランソワ・ド・アルベールです、どうぞよろしく!」
そうしているうちにも銃士隊の騎馬が十騎ほど駆けつけてきたので、それを機にミロはその場を離れることにした。到着した銃士の中にはミロを見知っているものが何人もおり、手を振って声を掛けてくるのも親しげで、カミュにはなんとも羨ましいことなのだ。

広場の向こう側には馬車が待っていて、一部始終を息を飲んで見ていたらしいムースクトンが、
「お帰りなさいませ! 御無事で何よりです!」 
と珍しく興奮した面持ちで迎えてくれた。
「心配をかけたが、大事ないさ。」
カミュを先に乗せたミロがムースクトンに手を振って続いて乗り込むと馬車はサン・トレノ街へと走り出す。
「ミロ………無事でよかった………」
「心配させたかな? 驚かせてすまなかった。 気楽な散歩のはずが、ちょっと予定外だったな。」
肩を抱き寄せて流れる髪に口付ける。 そのまま首筋に唇を落としてゆくと、しっとりと汗ばんでいて、身体も震えているのが手に取るようにわかるのだ。
「ミロのことも心配だったが、剣を持ったことのない我が身が悔しくてならなかった………これから剣を教えてくれぬか?」
「剣を?」
たしかに口惜しかったに違いないのだ。 男と生まれてあんなシーンに遭遇したら、腕を振るってみたいに違いない。
「よし、任せてもらおうか! ギャロップと違って、剣ならどこでも練習できる。さっそく明日から始めていいかな?」
「望むところだ!」
「でも………」
「でも、なに?」
心配そうなカミュが腕の中で聞き返す。 今までなんの訓練もしてこなかった身では、上達は見込めないといわれるのではないかと不安になったのだ。
「今夜はそんなことは忘れて俺のものになってくれる?」
「あ………」
「さっきのドキドキとはちがうことで胸をときめかせてやるよ。」
「ん……」
馬車がサン・トレノ街に着くまでにはまだ間があるようだ。
優しい抱擁と甘い口付けが馬車に揺られていった。