その11  剣

カミュが剣を習うには、トゥールーズ邸よりアルベール邸の方が都合がよい。
初めて訪問する屋敷で剣の訓練というのも妙なものだし、肝心のカミュが緊張していては上達も覚束ないからだ。
「この剣がラピエール、攻撃はこれで行なう。 持ち方はこうだ。 柄が短いので人差し指と親指で刃の付け根をもって、あとの指はこんなふうに。」
ミロの手がカミュの手を包み込み、剣を正しく握らせる。
三方を建物で囲まれた中庭はたしかに人目につかないが、そのかわり屋敷内の者からは何をしているのか一目瞭然である。カミュの新しい日課にアルベール伯夫妻を始め屋敷中の耳目が集まっているのだが、当のカミュにはとてもそこまで気を配る余裕はない。並みの貴族の子弟なら7歳くらいから剣を持たされて腕を磨いているというのに、二十歳からそれに追いつこうというのだからそれこそ目の色も変わってくる。もっともカミュにこの例えがふさわしいかどうかは、いまひとつわからないのだが。
「長さのわりには軽い剣だから、重さで叩っ切るということはできない。 基本的な戦法は突きだが、それにこだわることなく薙ぎ払ってもむろん構わない。要するに勝てばいいんだからな。」
ラピエールは柄元でも身幅が3センチほどの細身の剣で、長さは1m弱、重さも今で言えば800g程度の扱いやすい剣である。
「昔、騎士が重い鎧を纏っていた時代には身幅のある重厚な長剣で相手を鎧ごと叩き切ったというが、今はそんな時代じゃない。 それからこっちがマン・ゴーシュだ。」
今度は左手に30センチほどの短剣が渡された。
「名前の通り、左手用の防御用の剣だ。 これで相手の剣を受け流してその隙にラピエールで突きを入れる。相手の剣を絡め取ることもできるが、そいつはかなり慣れないと難しいだろう。」
両手に持った剣をカミュが軽く振ってみる。 軽い筈の剣だが初めて持つ身にはずいぶんと重く感じられるものだ。
「いきなりミロに短剣を投げつけた男がいたが、これがそうなのか。」
そのときのことを思いだしてカミュはゾッとする。 ミロの頬をかすめたマン・ゴーシュはカミュの横1mほどのところを飛びすぎて背後の石壁に当たったのだった。
「ああ、そうだ。 しかし、投げつけるなんていうのは最後の手段だな。 手を離れたら戦闘中は二度とは拾えない。 拾うのは自分が勝ったときだけだ。 マン・ゴーシュは必ずしも持たなくてもいいが、闘っている最中にはなかなか抜くゆとりがないものだ。 初心者は最初から持っていたほうが無難かもしれない。」
ミロが両手の剣を構えてみせる。
「立ち会うときはまず相手の目を見る。 手首は柔らかく。 相手のどんな動きにも対応できるように敏捷に動けるようにするのが肝心だ。」
照りつける日差しにすでに上着を脱いで白麻のシャツになったミロが、幾つか型を使ってみせる。
「基本は教えるが、あとはその場の判断と素早さがものを言う。 相手の動きをよく見て剣を繰り出せ。」
まだ剣を持ちなれないカミュに的確に指導しながら刃を合わせる鋭い音が響き始め、長年チェンバロやリュートの音が流れるばかりだったアルベール邸に活気がみなぎってきた。聞きなれない音に仕事の手を止めた使用人たちが窓から覗いては嬉しそうにして去ってゆく。

こうして、朝からやってきたミロの講義は昼食を挟んで午後の半ばまで続き、二人が引き上げてきたのは夏の陽も傾いてきたころだ。 たっぷりと汗をかいたので二人とも白いシャツが肌に張り付き、とくにミロの厚い胸板が水差しを運んできた若い侍女たちには眩しかったものか、みな頬を染めて急ぎ足で去ってゆく。
「お疲れでしょう、子爵! ご助力、まことにかたじけない!」
「いえ、久しぶりに汗を流してこちらこそいい気持ちです。」
「それで、カミュはいかがですかな? ものになりますか?」
アルベール伯が心配するのももっともで、二十歳を過ぎてから初めて剣を持つことなど有り得ないのだ。世に出ることはないからと早々に結論付けてカミュに剣を持たせることをしてこなかったことを悔いているのに違いない。
「ええ、あれなら大丈夫でしょう、姿勢もいいですし、それに、」
ミロがカミュをちらと見た。
「とても覚えがいいですね、私の子供の頃よりもずっと優秀な生徒だと思いますよ。」
汗をぬぐっていたカミュが頬を染めた。 といっても、元から激しい運動のために赤い顔をしているので誰にも気付かれなかったに違いない。
「時に今夜のことですが、子爵。 」
アルベール伯が声を改めた。
「もしも今夜もカミュとお出かけくださるというのでしたら、これから毎日 訓練をしてくださるということですし、子爵さえよろしければうちにご滞在いただければお疲れが少ないと思うのですが、いかがですかな?」
「……え? こちらにですか?」
それはたしかに、そのほうが都合がよい。
剣の訓練は間をおかずに毎日続けるのが良いし、月の明るいのもあと数日間だけだ。パリの治安が悪いというわけではないが、昨夜のようなこともあり、夜の外出は月のないときには控えるのが常識というものだ。 とすると、あと4日ほどは朝から晩までカミュと一緒にいるミロが、毎晩サン・ドミニック街に寝るためだけに帰るのもいささか手間なことである。
「こちらとしてはなんの不都合もありませんし、そう願えましたらカミュもどんなにか喜ぶことか!」
今度こそ横で聞いているカミュが真っ赤になった。 これまでは親にも黙って深夜にミロを迎え入れていたものが、あと数日は堂々と同じ屋根の下に泊まることになる。
「それは願ってもないことです。 そうとなれば、あと一時間は余計に剣を持てますから。」
笑みを浮かべたミロが言い、アルベール伯はすぐに使いをサン・ドミニック街にやることにした。
「そんなわけだから、今夜からしばらくは よろしく。」
振り向いたミロにウィンクされたカミュはこくこくと頷いて動悸を抑えかねているようだ。
「客用寝室ならいつでも泊まれるようになっている。 プランシェに案内させよう。」
カミュの居間の隣りが客用寝室になっており、そこがひと部屋空いているお蔭で夜毎の逢瀬の声がその向こうの姉の部屋に聞こえるはずもないのを都合よく思っていたのだから、そこにミロが入ることを思ってカミュの頬はますます熱くなる。

二人してそれぞれの部屋に別れて入り、用意されている熱い湯で身体を拭いているとどうしてもカミュには今夜のことが思われてならぬのだ。中庭で剣を構えていたミロはとても凛々しく力に満ちあふれており、夜毎に自分をいつくしんでくれるやさしいミロと、ほんとうに同じ人物だろうかと思ってしまう。
上半身の汗をぬぐいながら、そっとおのれの胸に触れてみる。 自分ではなんとも思わないのに、ひとたびミロの手や唇が触れるとあんなにも震えてしまうのはなぜなのだろう。昨夜のミロがどんな仕草をし、それに自分がどう応えたかを思い出すと、かっと頭に血が上ってくるのはどうしようもない。

   たしか………たしかミロは私にあんなことを……
   そして私はとても耐えられない気がして………とてもつらくて……でも嬉しいような気がして……
   何度も許しを請うて………でもミロは聞いてくれなくて………ああ…

やわらかく手を封じられたまま悶えるしかなかった我が身を思うと、いても立ってもいられなくなる。
「ミロ………私は……」
気がつくと床に座り込んでいた。 自らの胸を抱きしめて、それにミロの手を思っている自分がいた。