その13  サガ

その数日後、カミュがトゥールーズ邸を訪ねることになった。
むろんミロが事前に屋敷中の使用人を集め、カミュのことについて入念に知らせて、けっして奇異の眼で見ることのないように周知徹底したのはいうまでもない。
「俺の親友だ、そこのところを忘れないでくれればいいことだ。」
侍僕頭のグリモーによく言い含めおいて、ミロの足は長兄のサガのところに向った。サガは当年とって28歳で、ミロとの間にはもう一人の男子がいる。 それぞれが家庭を設け男子も生まれているので、ミロが跡継ぎのことについてせっつかれる心配はないのだった。 次兄はパリ市内に別に屋敷を構え、ミロもいずれはヴィユー・コロンビエ街の屋敷をもらうことになっているのだ。
「兄上、ちょっといいですか?」
書斎に入っていくとサガはペンを片手になにやら手紙を書いている。
「少し待ってくれ。 父上にパリの近況を書いている。」
広い部屋には羽ペンが紙の上をすべる音だけがリズミカルに響き、あとは静かなものだ。暖炉の上には両親とミロたち三人の兄弟の小さいころの肖像画が掛かり、最近はとくに気にも留めていなかったミロだが他にすることもないままに眺めてみる。
ミロはまだ小さくて母の膝にもたれかかり、二人の兄たちはきちんと立ってまっすぐにこちらを見ている。まだ若い父は椅子に座っている母の肩に軽く手を置いて少し微笑んでいるのだ。
ミロの髪と目は母親譲りで兄弟の誰よりも鮮やかな色をしている。 この絵に描かれている年頃にはもう少し薄い色だったのだが年長になるにしたがって濃い色になり、今では母親とそっくりな金色で、そのせいでもあるまいが父親からはずいぶんと可愛がられているという自覚がある。二人の兄はどちらも褐色の髪に暗い蒼の目をしていて、こちらは父親譲りなのだった。
書いた手紙を封筒に入れたサガが、臙脂色の封蝋を垂らして指にはめていた印章付きの指輪をぐっと押し当てる。机の上の真鍮 ( しんちゅう ) のデスクベルを振ると、すぐに侍僕が現れた、
「この手紙をトゥールーズへ。」
「かしこまりました。」
侍僕が下がってゆくとサガがくるっとミロの方を向く。
「なにか用事かな、ミロ。」
この兄は謹厳実直でミロはちょっと苦手なのだが、仲が悪いというのではけっしてなく、ただ気楽なおしゃべりをして楽しむということがないだけなのだ。年が八つも離れているとそんなものだろうとミロは考えている。
「実はこんど友人を招こうと思うのです。」
「けっこうなことだね、で、いつかな?」
「いつでもいいのですが、その前にちょっと兄上に話しておきたいことが。」
「改まってなにごとだ?」
サガの眉が上がる。 いつもは気軽にことを運ぶミロにしては珍しいことなのだ。
「アルベール伯の子息で私と同い年ですが、ちょっと事情があって…」
ミロが咳払いをした。 ともかくここでこの兄に理解してもらわないといけないのだ。
「カミュは……友人の名はカミュ・フランソワ・ド・アルベールですが、目が紅いのできっと驚かれると思います。 本人はとても気にしているので、できるだけ普通に接して欲しいのですが。」
「目が紅い? それなら私も去年やった覚えがあるが、半月もすれば直るものだ。」
サガが自分の目を指差し、そう言われてミロもその時のことを思い出した。

ある朝 起きてきたサガの右目が真っ赤だというので屋敷中が大騒ぎになったのだ。
最初に気付いたのは隣りに寝ていた妻で、いつものようにやさしいキスをされて目を開けると目の前の夫の右目が血のような真紅に染まっていたのだから驚かぬ筈がない。
絹を裂くような悲鳴が上がり、屋敷中の家族と使用人がドアの前に駆けつけた。夫人付きの小間使いがみんなに背を押されて恐る恐る中に入ったところ、天蓋付きのベッドで気を失っているらしい夫人をサガが抱きかかえており、入ってきた小間使いを真っ赤な目で見たのだという。
さきほどの悲鳴を上回る小間使いの金切り声が響き渡り、こんどこそ全員が部屋になだれ込んだ。
「あっっ!!」
男は全員立ちすくみ、女たちは絶叫しながら飛ぶように部屋から逃げ出したものだ。隣りの子供部屋からは小さい子供たちが恐怖に怯えて泣き騒ぐ声がする。 何がなんだかわからず当惑しているサガにどきどきしながら近寄ったミロが、
「サガ………目が真っ赤だが、大丈夫か?」
とうわずった声で聞き、そのとき初めてサガは自分の置かれた状況を知ったのだ。 黙って化粧台から手鏡を持ってきたミロからそれを受け取ったサガは鏡に映る己が目を見て絶句した。
「……それ……痛くない?」
「いや………なんともないが………いつものとおりによく見える。」
それからサガは屋敷中の者が集まっていたことに唖然としながら、
「どうやら大変な心配をかけたようだが、私は大丈夫だ。 それより心配なのは彼女の方だ。早く気付け薬を!」
はっと我に返ったグリモーがあたふたと侍女を呼びに行き、男たちはサガが夫人をベッドに寝かせなおすのを見てそそくさと部屋を出て行ったのだ。
その後、数日はサガの右目は血のような真紅のままで、わかっていながらあまりの痛々しさに屋敷中の者がつい目をそらす破目になり、サガをおおいに困惑させた。 小さい子供たちは父親の目を見るたびにわんわんと泣き、手のつけようもない。 外出は控えることにして屋敷にいても外からやってくる客を拒めるわけもなく、言い訳をしながら客間で会うと一様にぎょっとした顔で引かれてしまうのにはサガも相当うんざりしたらしかった。

「いえ、そうではなくて。 あの時の兄上の目は内部の出血のために白い部分が赤くなったのでしたが、カミュの目は、私の目でいうなら青い部分が生まれたときから紅いのです。ですから直るというものではないので、あまりに人目を引くため人に接したことがないのです。」
「人に接したことがない? これはまた……」
サガがミロをじっと見た。 こんなふうに見られるのにミロは滅法弱い。 なんとなく、全てを見透かされているような気がして落ち着かないのである。
「アルベール伯のご子息が病弱なために宮廷には出てこないという話は聞いたことがあるが、目が紅いとは………それにしても、ミロ」
「………は?」
「屋敷の外に一歩も出ないということになると、どうやってご子息と知り合えたのかな?後学のために、そこのところをぜひ訊きたいものだが。 このところの夜歩きとなにか関係でもあるのか?」
机に肘をついて長い指をあごの下で組んでいるサガの目が面白そうに輝き、ミロに冷や汗をかかせる。
「それは……カミュは外に出ないというわけではなく、人に見られないように注意して毎日馬車で出かけるのが日課なのです。 先日ブーローニュの森に行ったとき、たまたま言葉を交わしたので、それで知り合ったということです。」
「なるほど! おおかたハンカチでも拾ってやったのだろうな、うむ、よくある話だ。 いや、独り言だから気にすることはない。」
真っ赤になって黙り込んでしまったミロが気の毒になったものか、
「心配することはない。 紅い目だろうと青い目だろうと、みな 神の創り賜うたものだ。いささかも気にせぬようにと伝えるがいい。 それに、この屋敷のものは、」
サガがくすりと笑った。
「すでに紅い目には慣れている。」
こうしてカミュがトゥールーズ邸を訪れる下地が整ったのである。