その14  トゥールーズ邸

よく晴れた日の午後、カミュがトゥールーズ邸を訪れた。
この日のために特に念を入れて磨きたてられた馬車にはプランシェが同乗し、御者台に座るムースクトンもいかにも満足そうである。 長年仕えてきたアルベール家の嫡子の初めての他家への訪問なのだから、それは力も入ろうというものだ。 引かせる馬までたてがみからしっぽの先に至るまで一糸の乱れもなくブラシが通り、ひづめの先まで滑らかに整えられている。
ポン・ヌフを渡ってサン・ドミニック街に入ると行く手にジャコバン会の修道院が見えてきた。 今まで幾度も見てきた高い尖塔の向かいに目指すトゥールーズ邸があるのはカミュも従者たちもよく知っている。 大きく開かれた門扉を通り、前庭で馬車を軽く迂回させたムースクトンが玄関前にピタリと止めた。 それと同時にミロが玄関から出てきたところをみると、どうやら馬車が到着するのを今や遅しと待ち構えていたらしかった。 ミロがムースクトンに合図をし、先に馬車を降りたプランシェが大きく扉を開けるのも流れるようなタイミングだ。
こうして玄関先で侍僕頭のグリモーが恭しく迎える中をカミュが馬車から降り立った。
にこやかに出迎えたミロと握手をしたカミュの目をグリモーも見たに違いないのだが、そこは優秀な侍僕の心得としていささかも表情を変えることがない。 たしかにミロの事前の注意が周知徹底していたことが大きいのだが、もしそれがなかったとしてもグリモーは眉をちょっと上げるだけで済ませたのではないかと思われた。
「はい、当家では紅いお目の方には慣れておりますのでいささかも驚くものではございません。 こう申しましてはなんですが、先日のサガ様のお目のときよりもずっと自然だとお見受け申しあげました。」 とは後日のグリモーの弁である。

ミロと一緒に邸内に入ってゆくカミュは一見したところなにごともないように振る舞っているが、ここに至るまではやはり並々ならぬ心の準備が必要だった。
「大丈夫だよ、屋敷の者にはよく説明してあるから。」
「ん………それはわかっている。」
そうは言うものの、ミロ以外の外部の人間に昼の光の中で会うのは十数年ぶりなのだ。 音楽や馬術を教えてくれた家庭教師たちは事前に目のことを十二分に聞かされていたし、何年もの間、屋敷に出入りしていたのだからこの範疇には入らない。
「ともかく、れっきとしたアルベール伯の跡継ぎなんだから堂々としてればいいんだよ、いつも俺がついてるから大丈夫だ。 気を大きく持って、落ち着いて振る舞えばいい。」
「やってみる。」
カミュの部屋で何度となく繰り返された励ましの合間には、むろんやさしいキスが贈られて互いの気持ちを伝え合う。 カミュの生活の幅を広げるトゥールーズ邸訪問までは、毎晩のように訪れているミロとの間でこんな会話が繰り返されていたのだった。

広い応接室に案内されたところで、長兄のサガが妻を伴ってやってきた。
「ようこそ! サガ・ジェミニエル・ド・トゥールーズです。 ミロが散々お邪魔しているようで申し訳ありません。」
「いえ、そんな! カミュ・フランソワ・ド・アルベールです。 スコルピーシュ子爵にはたいそうご面倒をおかけしています。」
「ようこそおいでくださいました。 どうぞごゆっくりなさってくださいましね。」
「奥様、どうぞお見知りおきを。」
差し出された手を取っていとも優雅な動作でそっと口付けるところなどは、なかなかどうして堂に入っていてミロをひそかに感心させる。 運ばれてきた紅茶を飲みながらひとしきり歓談したところで、ミロはカミュを撞球室に誘うことにした。
「撞球?」
「屋敷に撞球室を作るのがこのごろの流行りになっている。 ちょっと面白いゲームだ。」
二人が挨拶をして撞球室に向うのと入れ違いにグリモーが来て、子供たちの音楽の家庭教師が来たことを告げた。
「ではわたくしも音楽室に参りますわ。 」
「ああ、行っておいで。 ところで、彼はなかなかいい青年だと思うが、君にはどう見えたかな?」
「最初は驚きましたけれど、ミロ様のおっしゃる通りのとてもきれいな目の方ですのね。 」
「ミロが初めての友だちということらしい。 他の屋敷を訪問したのもここが最初だというから、それにも驚かされる。 これからうまく世の中に馴染んでいけると良いのだが。」
「きっと大丈夫ですわ。 紅い目の方は…」
夫人がうつむいてそっとささやいた。
「やさしくて素敵な殿方ばかりですもの……」
「そう言ってくれると思っていた。」
微笑んだサガが夫人の手を取り軽く口付ける。 頬を染め、いとも優雅に会釈した夫人が音楽室へ向った。

撞球室でミロにルールを教わったカミュが小手調べにボールを突いていると、遠くの方でチェンバロの音が聞こえ始めた。 少したどたどしい曲はカミュもよく知っているクープランのものだ。
「あれは?」
「兄の子供たちの家庭教師が来たんだろう。 三人のうち上の二人はかなり上手くなったが、一番下のアンヌ=マリーは…」
ちょっと言葉を切ったミロが姿勢を低くして狙いをつける。
「やっと先週から始めたばかりだ。」
跳ね返ったボールが吸い込まれるようにポケットに落ちていった。
「あとで子供たちに紹介しよう。 大丈夫だよ、姉も俺も、よく説明しておいたから。」
「ん…」
カミュが突いた玉は2回跳ね返ってきっちりとポケットに落ちる。
「初めてでその出来は素晴らしい!」
ミロに誉められたカミュの頬が薄紅に染まった。

チェンバロの音が途絶えたのを見計らって撞球室を出ると、向こうから母親に連れられた三人の子供たちがやってくる。ドキッとしたらしいカミュに、
「いいか、笑顔を忘れるな。 子供相手に緊張した顔をすると恐い人だと思われかねん。 ともかく、ゆったりと落ち着いてにっこり笑えばいいんだよ。」
最後のアドバイスをしたミロが子供たちににこにこと微笑みかける。
「アンドレ、マクシミリアン、アンヌ=マリー、君たちに私の友人を紹介しよう。 カミュ・フランソワ・ド・アルベールだ。」
相手が小さい子供でも、ミロの紹介の台詞は大人に対するのと同様だ。 緊張を払いのけてにっこりと笑顔を作ったカミュがどきどきする胸を抑えながら挨拶しようとしたときだ。
「わぁっ、ほんとに紅くてきれい!」
「だめだよ、マクシミリアン! 挨拶をする前にそんなこと言ったら、お行儀が出来てないと思われてしまうから!」
一番上のアンドレが弟をたしなめている横で、母親に手をひかれた小さいアンヌ=マリーがびっくりしたようにカミュを見上げ、それから花のようにほほえんで、
「お母さまのおっしゃったとおり、ほんとにきれい! 宝石みたいにきれい〜!」
と言ったものだ。
「あ……」
挨拶するタイミングを失ったカミュが真っ赤になってうろたえ、慌てた夫人もやはり頬を染めて子供たちにお行儀を思い出させるのに懸命になり、独りミロだけが我が意を得たりと満足の笑みを浮かべる。 やっと子供たちとカミュが自己紹介を済ませると、仲良くなるのは早かった。
ミロが事前に話しておいたらしく、子供たちに音楽室に連れてゆかれたカミュが請われるままに先ほど聴こえていたクープランを弾いてみせると、
「先生より上手かな?」
「おんなじくらいだよ、きっと!」
「じゃあ、カミュ様も先生?」
珍しいお客に大喜びの子供たちに囲まれたカミュは上気したままで、困ったようにミロを見る。
「よかったじゃないか、子供の目は間違わない。 俺も安心したよ。」
笑っていると、チェンバロに寄りかかっていたミロにアンヌ=マリーが手招きをする。
「 アンヌ=マリー、どうしたの?」
身をかがめたミロにアンヌ=マリーがなにかささやいた。 ミロがくすっと笑う。
「カミュ、アンヌ=マリーがきれいな宝石を近くで見たいんだそうだが、かまわないかな?」
「……え? あ…それはもちろんかまわないが。」
「それなら………はい!」
「えっ?!」
小さいアンヌ=マリーを抱き上げたミロがひょいっとカミュに抱かせたものだ。
「あ………」
いきなり子供を抱かされてうろたえるカミュにかまわず正面から紅い瞳をじっと見た金髪の巻き毛の少女がうっとりとしたように、
「ほんとにきれい! カミュ様、だあいすき!」
そう言うと、薔薇色の頬にキスをした。
「あっ!」
声を上げたのはカミュよりもミロの方だ。
むろん、当のカミュもおおいに驚いたのだが、生まれて初めて子供と接し、それだけでも緊張しているのに、さらに抱かされたうえにキスまでされたのだから気が動転して声など出ようはずもない。 初めて知る子供の唇のやわらかい感触にどぎまぎしてしまい、どうすればいいのかさっぱりわからないのだ。
「こら、アンヌ=マリー! ええと………もう、降りなさい!」
「やあだ! もっと抱っこされる〜!」
すっかりカミュが気に入ったらしく、アンヌ=マリーは首筋にしがみついていっこうに離れようとしない。
「ミロ、私はどうしたら……?」
「だめだよ、アンヌ=マリーってば!」
「僕だって我慢してるのに! そんなことじゃ、ちゃんとした貴婦人にはなれないよ!」
困ったアンドレとマクシミリアンが母親を呼んできて、やっとカミュは自由になれたのだった。

こうして興奮と笑いのうちにカミュのトゥールーズ邸訪問は終わった。
「これに懲りずにまたおいでください。」
「子供たちもお待ちしておりますわ。」
サガ夫妻の暖かい言葉がカミュの心に沁みてくる。
「ええ、また寄せていただけましたら光栄です。」
カミュを乗せた馬車が行ってしまうとアンヌ=マリーがミロに
「ねぇ、ミロおにいちゃま、今度はカミュ様、いつ来てくださるの?」
と訊いてきた。
「そうね………まだ決まってないけど、アンヌ=マリーはカミュに来て欲しいの?」
「ん〜、そう! カミュ様のこと、とってもとってもだあいすき♪」
あっさりと言ってのける子供の無邪気さがちょっぴり羨ましかったりするミロである。
「ええと、念のために言っておくけれど、アンヌ=マリーはカミュとは結婚できません。」
「えぇ〜、どうして?」
「年が違いすぎます。 16才は違いすぎ!」
「つまぁんな〜い。」
「でも、お友だちになら、なれるよ。 アンヌ=マリーはカミュとお友達になってくれる?」
「ん! お友達になる♪」
「よかった! これからもよろしく♪」
ミロに握手をされたアンヌ=マリーは、おおにこにこである。
カミュの初のトゥールーズ邸訪問はたしかに成功したのだった。