その16  教える


夜の散策も回数を重ねてカミュがようやく街の様子に慣れてくると、ミロはそろそろ自分の友人たちを正式に引き合わせようと考えた。
人数はあまり多くないほうがいい。 知り合い同士の話が盛り上がって全体の雰囲気に気おされると、場慣れしていないカミュが萎縮して自信をなくす恐れが高いのだ。
「だから、レオナールとディスマルクを呼んである。 夜に何回も会っているし、二人ともいい性格だ。 きっとうまく行く。」
深夜に訪れてひとしきり親密な愛を交わしたあとでミロがその話を切り出した。
「あの………私の眼のことは…」
カミュが口ごもった。 たしかに夜の街で何度も会って挨拶をし、ミロを中に挟んで通りをしばらく歩きながらしゃべったこともある。 しかし、昼間に会って眼を反らされたらと思うと生きた心地がしないのだ。
「俺からよく言っておくよ、安心して。 二人とも物分りがよくて気の置けない奴らだ。 子供の頃からの付き合いだから気心は知れている。 きっとわかってくれるさ、この俺が保証する。 」
「ん……」
あれからトゥールーズ邸には何度も行ってサガ夫妻や子供達とはすっかり打ち解けることができたし、屋敷の使用人たちの目も気にならなくなってきたのは事実だ。 しかし、ミロの友人となると話は違ってくる。 ミロの身内とは無関係の全くの他人が赤い眼を見てどんな反応を示すかは誰にもわからないのだ。
「あの………私は話題もそんなに出せないし、酒もほとんど飲めなくて…」
ミロとレオナールとディスマルクがほどよく酔って楽しげにしゃべっている横で身の置き所がなくてうつむいている自分を想像したカミュが蒼ざめた。 せめて酒に酔えればいいのだが、グラス一杯で赤くなるのではとてもミロたちのペースについていけるわけがない。
「といって、屋敷に招待して正式な晩餐というのも肩が凝る。 男四人でブーローニュの散歩というのも妙だし、結局、気楽な店で飲んで食べるのが一番なんだよ。」
緊張するカミュをやわらかく抱きながら、それでも話題には気をつけなきゃな、とミロは思うのだ。
カミュのまったく知らない人物を引き合いに出すのは避けたほうがいいし、ディスマルクの得意な色っぽい話題にもついていきかねるだろう。 宮廷や政治的な話題もいかがなものか。

   成り行き任せは危険だ   ここで疎外感なんか感じられたらカミュが傷つくからな………
   カミュが入っていきやすい話題をあらかじめ考えておいて、あの二人にも協力してもらったほうがいいかもしれん

「フォッソワイユール街にいい店がある。 食事をしながら話をしよう。 まんざら知らない仲じゃないんだから、きっとうまくいくさ。」
「フォッソワイユール街なら夜に何回か通ったことがある。」
「あのあたりはパリでも治安のいいところで、店も比較的上品だ。 娼婦なんかいやしない。 安心して過ごせると思う。」
「………え?…… 娼婦って?」
カミュの語彙に娼婦という言葉がなかったことに気付いたミロが、ちょっと慌てた。 そういえばアルベール邸の中で娼婦などという言葉をカミュに教える者などいる筈もない。
「ええと………娼婦っていうのは、男に色を売る商売の女のことだ。 ………わかる?」
「色を売る………?」
外の風に当たってこなかったカミュにその言い回しは通じない。

   俺が説明するのかっ??
   ………それはたしかに俺しかいないが、どうしても言わなきゃだめか?

世の中のきれいなことしか知らないらしいカミュにそんな類のことを教えることにたじろいだミロだが、深窓のご令嬢ならともかく、これから世に出ようという男がいつまでも知らぬでは済まされないだろう。
「つまり………男に抱かせて女が金を受け取る、そういう商売があるんだよ。」
「抱かせるって、何を?」
天真爛漫に訊くカミュの脳裏には猫を抱くとか人形を抱くとかいった のどかな情景が浮かんでいるに違いなく、ミロはおのれの説明のまずさを思い知る。
「……では、はっきり言おう。 女が合意の上で男とベッドで寝て、男はその謝礼として女に金を払う。 そういう商売をする女を娼婦と言う。」
カミュが真っ赤になった。
「そ………そんな……そんなこと…!」
「驚かせてすまない。 でも事実そういう種類の女がいるんだよ。」
「それはあの………好きでもないのに抱かれるということか?………どうしてそんなことができる?」
「どうしてって………」
生活のためとか、そういった行為が好きだからとか、いろいろな理由が浮かびはするものの、ミロにしてもはっきりと知っているわけではないのだ。 嫌々ながら娼婦に身を落としている女もいるのだろうが、ミロが今までに見かけた娼婦はみな一様に商売に身を入れているように思われる。  商売だからそういうものだろうとは思っているが、一晩に何人もの男に抱かれることさえあるはずだ。
「私は………私はそんなことは嫌だ。」
なにを考えたのか、カミュが蒼ざめた。 男として娼婦を抱くという行為を拒否しているのか、それとも現にミロに抱かれている自分のことを考えて、愛してもいない他の男に抱かれることを嫌悪したのか、ミロにはどちらとも判断がつかないのだ。 なんにしてもカミュのこれからの人生に娼婦との接点などある筈もない。
「大丈夫だよ、俺にもお前にも関係のない話だ。 余計なことを考えさせた。」
うつむいてしまったカミュの形の良い顎に指を添えて自分の方を向かせるとミロは唇を重ねてゆく。 震えおののいていた身体を抱きこんで背を撫でてやるとそっと溜め息が洩らされた。

   世に出るからには、多少は嫌なことも経験せざるを得ないだろう
   そうしたことをいつまでも避けてばかりはいられない  降りかかる火の粉を払わねばならないときもある
   それでもできる限りそばにいて、お前を守ってやるから安心するがいい

暗い天井にぼんやりと見えている唐草模様の装飾を眺めながらそんなことを考えていると、ミロの胸に頬を寄せていたカミュがついに寝息を立て始めた。 このまま父の領地のトゥールーズに連れて行って誰に見られることもなく二人で静かに暮らせたらそれは平穏かもしれないが、刺繍と音楽だけに日を送るご令嬢ならいざ知らず、男と生まれて二十歳の若さで引き篭もるのはもったいないというものだ。 屋敷の中で過ごした二十年を少しでも埋め合わせるために、なんとかしてカミュに世の中の楽しさを知らせたいとミロは考える。

   友だちを作って楽しく飲み食いして放歌呻吟して、時には喧嘩騒ぎも体験する
   次々と言い寄ってくる女をうまくあしらって洒落た会話でその場を盛り上げる
   ………おっと、そこまで望むのは無理かな

剣を教えるほうが百倍も楽だと考えながらミロも目を閉じていった。