その17 星猫亭
三日後の昼下がりにミロがアルベール邸にやってきた。
「ではちょっと出かけてきます。」
ミロの友人たちと会うということはすでにアルベール伯にも伝えてあって、心配と期待の混ざった顔に見送られた二人は馬車で門を出た。
「星猫亭の奥にテーブルを取ってある。 レオナールとディスマルクとはそこで会う予定だ。」
「星猫亭? 星猫って?」
「夜に散歩する猫って意味じゃないのか? きっと恋のアバンチュールが目的だと思うが。
最初の晩にお前のところに忍び込んだ俺も星猫ってわけ♪」
座席の奥の暗がりに身を潜めるようにして座っているカミュの頬に軽くキスをしたミロがくすくす笑う。
「ほんとに会えてよかった! 俺は最高に運のいい猫だよ。」
「ん……」
真っ赤になったカミュはなんと返事をしていいのかわからない。 気の効いたことなど言えない性格で、こんなことでは星猫亭でうまく話が弾むか心配になる。
「なんの話をすればよいだろう? 私は宮廷のことなどなにも知らないし、銃士隊のことや他の貴族のこともなにもわからないのだが……」
「うん、その気持ちはわかる。 俺に任せてくれればいい、二人にもよく言ってあるから大丈夫さ!なにも心配することはない。」
石畳の道を行く馬車は時々大きく揺れて、もう一度キスしようとしたミロの唇がカミュの鼻の頭にぶつかった。
「あ……すまない。」
笑いながらもう一度カミュの肩をつかまえて今度は確実に唇をとらえたミロの仕草はどこまでもやさしい。
馬車や人がたくさん行き来するヴォージラール街を左に曲るとそこがフォッソワイユール街で、正面にはサン・シュルピス教会が見えている。
「星猫亭でございます。」
御者台のムースクトンの声がして馬車が止まる。
「ほら、着いたぜ! さあ、降りて。」
濃い葡萄酒色のドアの上には夜空を背景にした黒猫の看板がかかっており、開け放した窓からいい匂いと賑やかな話し声が流れてくる。
帰りの時間はわからないので馬車はそのままアルベール邸へと戻っていった。
責任をもって送り届けるとミロが約束してあるのでムースクトンもなにも心配はしていないのである。
「帽子を目深にかぶっていれば誰にも見えはしない。 俺についてくればいい。」
ミロがドアを開けると何組もの客が楽しげにやっていて新来の二人を見るものなど誰もいない。
内心ほっとしたカミュが急ぎ足でミロについていくと奥の隅の席にレオナールとディスマルクが座っているのが見えた。
心臓がどきんと跳ね上がる。
「よう! 待たせたかな?」
「いや、俺たちもさっき来たばかりだ、一足先にやってたぜ。 やあ、カミュ!」
ワイングラスを持上げたディスマルクが百年の知己のようにカミュを見て笑う。
「昼間は初めてだね、レオナール・アイオリッシュ・ド・ランベールです。 今後ともよろしく!」
「カミュ・フランソワ・ド・アルベールです、あらためてよろしくお願いします。」
ドキドキしながら手を差し出して握手をすると、
「おいおい、えらく格式ばるんだな、それじゃ俺も。 ディスマルク・ロワイエ・ド・キャンサールだ、昼間の方がいい男に見えるだろ?」
にやりと笑ってウィンクをするのがこの男らしいのだ。
「ええと……」
返事に困ってちらりとミロを見る。
「そう言うときには 『 俺ほどじゃないけどな。』 っていうのが模範回答だな。」
「あっ、言ってくれるじゃないか!」
そのまま笑いあって席に着く。 他の客の視線を気にしないで済むように壁を向いた席になるように自然に計らってくれるのがカミュには実にありがたい。
ミロがワインの追加と料理をみつくろって頼み、あっという間に運ばれてきたグラスにディスマルクが赤いワインをなみなみと注ぐ。
「じゃあ、今日から正式に紹介されたってことで!」
グラスを合わせ乾杯をする。 といってもカミュはほんの少し飲んだだけだが、その頬は誰よりも赤くなる。
赤い眼をどう見られているかはおおいに気になるのだが、ミロがよく説明しておいてくれた筈だと自分に強く言い聞かせ、うつ向くようなことはしない。
「いいか、自分に自信を持っていいから。 お前の眼はほんとうに綺麗なんだよ。」
「妙にうつむいたりすると暗い奴だと思われる。 自分が損するぜ。」
「ともかく俺がそばにいることを忘れるな。 自分で言うのもなんだが、トゥールーズの名前は大きい。
その俺の友だちなんだから自信をもっていいんだよ。」
ここに来る馬車の中で何度そう言われたことだろう、むろんその合間にはやさしいキスが交わされていたのは言うまでもない。
「ほらきた! ここの鴨のテリーヌは美味いぜ、絶品だと思う。」
手際よく切り分けたそれをディスマルクがそれぞれの皿に取り分ける。
「このエクレビスのサラダも好きだな。 え? 知らない? ザリガニのことだよ。ほら、君の分だ。」
レオナールの前に置かれた大皿にたっぷりと乗っているサラダは赤と緑が美しい。 とてもアントレとは思えないほどの量にカミュが眼を丸くする。
アルベール家では両親も二人の姉もそれほどたくさん食べないし、むろん大皿に乗ってくることもなくてカミュには全てが珍しい。
「カミュはまだザリガニを食べたことなかったかな、オマール海老と似たようなものだ。
味はそんなに変わらないぜ。」
「ザリガニは知ってるけど食べられるとは思わなかった。 あ、レオナール、そんなにたくさん?!」
「大丈夫だよ、このあともまだまだ出るんだから、まだ序の口さ♪」
事前の打ち合わせでまず食べ物の話で盛り上げようということにしたミロの思惑は当たり、カミュの口もほぐれてきた。
「ああ、どれも美味しい! ここにはときどき?」
「そうだな、週に1、2回は来るかな。」
答えるミロは、もっとくだけた、つまりディスマルクが自慢げに昨夜の戦果を述べ立ててもいっこうに差し支えのない店を思い浮かべて苦笑する。
ミロはたしかにここ星猫亭によく来るのだが、ディスマルクは月に一度くらいのものだろう。
「ここの料理は品がいいのさ! そら、ヒレ肉のワインソースかけだ、このソースが美味くてね、しっかりとパンでぬぐって一滴も残すなよ。 男は残さず食わなきゃいかん!」
食う、などという言葉を使われたのは初めてのカミュだが、友だち扱いされているのは間違いなさそうである。なにか気の効いた返事を探してみたもののとても見つからず、といって 「はい、食べます。」 ではいくらなんでも子供のようだと考えてこう言ってみた。
「了解!」
「了解だってよ! 気に入った! カミュ、お前って面白い奴だな♪」
ディスマルクが大笑いしてぐっとワインを飲み干した。 どうやら底なしに飲めるタイプのようで、テーブルに並んでいる6、7本のワインのうち3本はディスマルクが空けたに違いない。
「君のところは、サヴォイア家から出てるアルベール家? もうちょっと飲めるかな?」
レオナールがやっと半分ばかり減っているカミュのグラスにワインを注ぐ。
「いいえ、ブルゴーニュ公フィリップ2世から出ています。」
「すると豪胆王だ。 うちの先祖はその父親のジャン2世勝利王の宰相を務めてた。」
「おいおい、えらく固い話だな、政治談議でもする気か? といって女の話もまずいかな。」
「ええと……」
赤くなっているのがワインのせいなのか、初めて昼間に人と会っているせいなのか、それともまさか昨夜の娼婦の件を思い出したものなのか、横にいるミロにも判別がつかないのだが、ここで女の話はまだ早すぎるだろう。
「女の話は次の機会に譲るとしよう。 ほら、仔羊のグラタンが来た。」
やんわりとミロに言われたディスマルクが苦笑する。
「わかったよ、女もいいが、ここのグラタンも悪くない。 」
それからしばらく料理に舌鼓を打ちながら談笑していたときだ。
「おい、カミュ! 俺はちっとも気にしないからな、赤い眼がなんだってんだ!」
「ディス……よせ!」
しかしレオナールの言葉は耳に入ってないらしく、ディスマルクがしっかとカミュを見据えた。
「俺はとてもきれいだと思う。 おい、ミロと二人で顔をくっつけてみろ!」
「え……ディス、なにを……!」
ミロの言うことなど聞きもしないでテーブルの向こうから身を乗りだしたディスマルクが両手で二人の肩をつかまえるとぐいっと寄せた。
「あっ…」
驚く二人の頭が軽くぶつかった。
「ほら見ろ! ミロの青とカミュの赤が実に綺麗だ! 海の青とワインの赤って言やぁいいのか?
よく似合ってる。 俺はいいと思うぜ!」
「ええと……私も同感だ! サファイアとルビーみたいで贅沢な取り合わせだよ。」
もうわかったから座れ、とディスマルクを引き戻して座らせたレオナールがウィンクをする。
「予定外だが、つまり、そういうことだ。 」
真っ赤になったカミュとミロが慌てて姿勢をただし、
「………だそうだ。 カミュ、それでいいか?」
うつむいた顔をミロが覗き込む。 ディスマルクがワインをあおっているそばでミロとレオナールがはらはらしながら返事を待っていると、やがてカミュが顔を上げた。
「ありがとう………あの……私は…」
声が震えて一筋の涙がこぼれ落ちた。
「そら、もう一度乾杯だ!」
涙と笑いが交錯し四人が再び話に熱中し始めたとき、店のドアが開いて二人の若い貴族が入ってきた。
なにやら声高に話しながらミロとカミュのすぐ後ろの席に着いたとたん、一人の男の声が聞こえてきた。
「信じられるか? 今でもはっきりと覚えてる。 眼が血のように赤いんだぜ、俺はアルベールの息子は化け物だと思ったよ。
遊び友達になんかなれるわけがないだろう!」
その場の空気が凍りつき、次の瞬間ミロが立ち上がった。
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