その20  トゥールーズへ


その晩ミロからはなんの音沙汰もなく、カミュは心配のあまりまんじりともせずに朝を迎えた。
風の音がすればミロのささやきかと思い、階段が軋む音がすればミロの足音かと心ははやる。 何度となく期待を裏切られては、今ごろどうしているか、満足なベッドで寝ているか、と案じられてならぬのだ。

   恩赦があるとディスマルクは言うけれど、国王陛下の裁可を仰ぐまでにはかなりの日数がかかるのではあるまいか
   それまでの間、いったいどこに?
   まさか………まさかバスティーユだったら………………

パリの東に位置するバスティーユを国事犯を収容する刑務所としたのは現国王ルイ13世の宰相リシュリューで、例の護衛隊の創設者だ。 カトリック教会で教皇に次ぐ地位の枢機卿でもあるリシュリューは敵方の人間さえ認める頭脳明晰な優れた人物で、フランスの絶対王政確立に力を尽くした国家の功労者である。
もっともカミュが案じるほどにバスティーユが恐ろしい場所というわけではない。 なにしろ収監されるのは名のある貴族が多いので、専属の料理人や使用人を雇うこともでき、好みの服地で衣服を仕立てることも許されている。 昼食は3皿、夕食は5皿の豪勢なもので、図書室や遊戯室もあるのだから住環境は悪くない。 むろん外聞が悪いというデメリットは常について回るのだが、債権者から逃れるために自ら入所したものもいるという、ある種の優雅な実態があるのだ。
そのバスティーユに、年間何百も行なわれる決闘の当事者をいちいち入れていたらたいへんすぎて困るのだが、他の牢獄を知らないカミュとしては他に考えようがないのだ。 馬車でパリ市内を巡っていたときに、 「ここがバスティーユ監獄でございます。 国家に逆らった国事犯を収容しております。」 とプランシェに聞かされただけのカミュには恐ろしい想像しかできなかったのは無理もない。 周りを堀で囲まれ高くそびえる灰色の石壁の中に通じているのは二箇所の跳ね橋だけで、その内部を窺い知ることはとてもできないし、無事に出所した者も内部のことは一切口外しないことという決まりがあったのだから、恐ろしいことをつい考えてしまうのが普通だろう。  この世に拷問などという恐怖の行為があることを知らないカミュがそっちのほうの想像をしなくて済んだのは幸いだったが、ミロが光もろくにささない冷たい石壁に囲まれた独房の藁を敷いただけの粗末なベッドに横になって苦しんでいるのではないか思うと、決闘の原因となった我が身を呪わずにはいられないのである。

予想外の決闘のせいで、夕暮れ時に屋敷まで送ってきてくれたのがミロでなかったことにアルベール伯夫妻はたいそう驚いたが、「 ミロに急用ができたので、代わりを引き受けました。」 というディスマルクの言葉に安堵して、カミュにさらに友人ができたことを喜びもした。  その場でディスマルクは 「どうぞ、ぜひお近いうちに食事においでください。」 と正式な招待を受け、「では、ミロと、それからもう一人の友人のレオナールと一緒にお伺いします。」 と答えることになったのだ。
このまま世に出ることなく終るだろうと思っていた息子の不幸を嘆いていた夫妻には、カミュの友人を3人も招待できることが嬉しくてたまらない。 あれこれと当日の準備のことを考えて頬を紅潮させている二人に、どうして、ミロが牢獄に収監されているかもしれぬ、それも自分が原因で、などと言えるだろう。
酔いが残っているので、という今までにはありえなかった理由を言って、それがまた夫妻を喜ばせたのだが、ともかく鬱々としたまま運ばれてきた朝食を部屋で摂り、日課の馬車での散策も取り止めて部屋に籠もっていると昼近くになって中庭に馬蹄の音がする。 急いで窓に駆け寄り見下ろすと、ミロの愛馬と見慣れた帽子がちらりと見えた。
「ミロっ!」
それでも家人に怪しまれぬよう弾む胸を抑えて階段をゆっくり降りてゆくと、ちょうどプランシェに案内されたミロがホールに入ってきた。
「やあ、カミュ! 昨日は急用ができてすまなかった。 」
「あ……ああ、無事に済んでなによりだ。」
そこにやってきたアルベール伯がミロと握手をしながら、
「昨夜はご丁寧にご友人にお送りいただきましてありがとうございます。 おかげさまでカミュの知人が増えまして、こんなに心強いことはありません。 今度はぜひご友人もお連れになって食事においでください。」
と満面に笑みを浮かべる。
それはそうに違いない。 ミロが訪ねてくるまでは、屋敷の外にただの一人も知り合いのいない身だったというのに、今ではミロだけでなく、その友人のディスマルクと30分も歩いて来られるほどに付き合いの輪が広がっているのだ。
「これからもっと友人を増やそうと思います。 それで、こちらさえよろしければ、来週にでもトゥールーズへカミュを招きたいのですがいかがでしょう?」
「トゥールーズへですと?!」
アルベール伯が一驚する。
トゥールーズといえばパリから南に離れること500km、馬車で4〜5日はかかる土地で、しかもミロが招くということはトゥールーズ伯の居城に滞在するということである。
「なんと、カミュをお連れくださると仰いますか! これは光栄です、我が家の誉れですな!」
「えっ………そんなに急に?」
どぎまぎしたカミュが真っ赤になった。 パリの中さえ、やっと出歩き始めたばかりなのだ。
「大丈夫だよ、俺がついてる。 今の季節は景色もよくて、きっと楽しい旅になる。」
ミロにウィンクされてカミュは思わず頷いた。 初めて会った晩にトゥールーズのことは聞かされていたが、それがこんなに早く実現するとは思ってもみなかったのだ。
「それでは、上でカミュと細かい打ち合わせをしてもよろしいですか?」
「ああ、これは気が付きませんで。 ただ今プランシェにお茶を運ばせましょう。」
アルベール伯が銀鈴を振り、姿を消していたプランシェがホールに現われる。
「スコルピーシュ子爵がカミュの部屋でお過ごしになる。 お茶の 用意を。」
「かしこまりました。」
軽く会釈をしたプランシェが下がっていった。

「カミュ…」
部屋のドアを閉めるなりミロに抱擁されてやわらかくキスされたカミュが真っ赤になってうろたえた。
「あの………ミロ、すぐにプランシェが来るから……」
「ああ、それはわかってるけど、どうしてもキスしたかった!」
「ん…」
どぎまぎしながらミロの胸を押し返し、慌てて椅子に掛けると後ろに回ったミロが慣れた様子で肩を抱く。
「昨日は心配させてすまなかった。 ディスマルクはうまく送ってくれただろう?」
「大丈夫だ。 父も母もとても感謝してその場で食事に招いたほどだ。」
「それはよかった! でも、ちょっと悔しいな………」
やさしく耳朶を含まれたカミュが身をすくめ、どうすればいいかわからなくて恥じ入る様がミロを歓ばせる。
「……え?………あの、ミロ……悔しいって?」
「カミュと夜道を歩くのは俺だけの特権だったのに。 きっとディスだってドキドキしたぜ、お前があんまり綺麗なんで。」
「まさか!」
「もしも俺以外のやつにキスされそうになったら、すかさず引っぱたくように。 先手必勝だ!」
「そんなことあるはずが……」
「それから、トゥールーズでは父の城にも滞在するが、俺が祖父から貰った屋敷も別にある。 そっちの方なら召使いは別棟だ。 ………この意味わかる?」
声をひそめたささやきにカミュが真っ赤になった。

やがてお茶の盆を捧げた侍女を従えて入ってきたプランシェは、にこにこ顔のミロと珍しく興奮気味のカミュを見て、トゥールーズ行きの計画を心の中でおおいに賞賛したのだった。