その21 旅 の 途 中 1
トゥールーズはパリからほぼ真南に500キロの距離にある。
むろん何日もかかるので泊まりを重ねてゆくことになり、ちょっとした小旅行なのだ。
「では、行って参ります。」
「気をつけて! 子爵、カミュをどうぞよろしくお願いします。」
「子爵にご迷惑のかからぬようになさいませ。」
七月早朝のアルベール邸にミロが馬車で迎えに来た時には、家族も使用人も総出で晴れの出立を見送った。
なにしろ、世間に出ることはあるまいと諦めていた御曹司の初めての旅行、それも、あのトゥールーズ伯爵の城に招かれるというのだからただ事ではない。
カミュの二人の姉達が喜び羨ましがることは大変なもので、着いたらすぐに手紙を書いて様子を知らせることを繰り返し約束させられたものだ。
「ほんとに私のようなものがお伺いしてご迷惑ではないのだろうか?」
「大丈夫さ! トゥールーズへやってくる客は多いし、城の者は客が滞在することに慣れている。
父にもとっくに知らせてあるからなんの心配も要らない。 」
「ん……それなら良いが。」
見慣れた邸宅街を抜けた馬車はパレ・カルディナルを左に見ながらポン・ヌフを渡りムフタール街を南へ進む。 種々雑多なものを売る市場を通り過ぎ、やがて一般市民の住む猥雑な地区に入ってゆくとそこから先はカミュには処女地に等しいのだ。
目立たぬように気をつけながら窓の外を見ているカミュの興奮がミロには楽しくてならない。
「まだ先は長い。 トゥールーズまでは六日もかかる。 パリにはなかった珍しいものをたくさん見せてやろう。 」
こんなときのミロは、恋人というよりは何も知らない子供にものを教える親のような気分になっているのだが、自分ではそんなこととは思いもしない。
新しいものを見つけて目を輝かせるカミュが可愛くてならないのだ。
トゥールーズ邸の馬車は深い飴色に磨き立てられて美しく、このあたりの古く混み合った建物ばかりが立ち並ぶ通りでは一際目立つ。
御者のバザンが念を入れて手入れしておいた四頭の馬も輝くような毛並みの素晴らしい駿馬で、馬車をよけている市民の驚いた顔が車窓からよく見える。
出発の朝に玄関先に回された馬車を見たミロは驚いた。
「おい、グリモー、こいつは俺にはちょっと立派すぎやしないか? これは父上がお乗りになるのにふさわしいが。」
「いえ、そのようなことはございません。 ミロ様がご友人をトゥールーズにお連れあそばすにはこのくらいの馬車にはお乗りいただきませんと、当家の威信にかかわります。」
真新しい馬車の扉には盾と獅子を組み合わせたトゥールーズの紋章が描かれ、ミロにはちょっと面映い。 あまりにも大仰すぎて若いミロにはかえってつらいものがあるのだが、この馬車にミロを乗せる日を待ちに待っていたグリモーは嬉しくてならないらしい。
ミロが乗り込んだのを満足そうに確認したグリモーが馬車の後ろにしつらえられた使用人の位置に立ち、御者席のバザンに出発の合図を送る。
「サン・トレノ街のアルベール邸へ!」
ミロを乗せた馬車が正門を出ていった。
ミロは馬車よりも馬に乗るほうを好む。 かなりの距離のトゥールーズさえも気候が良ければ馬で行くことがほとんどだ。
従者を連れて行くことさえ渋り、自由に行動できる一人旅をしたがるので、今回の馬車でのトゥールーズ行きは極めて稀なことなのだ。
「ふうん! お前が馬車で行くとは珍しいな。」
「当たり前だ。 カミュが馬車なのに、俺だけが馬に乗っていても仕方あるまい。
話もできん。 そのくらいならおとなしく馬車におさまってトゥールーズまで行くことにする。」
「そりゃそうだな。 お前だけが馬では、まるで姫君のお供をする騎士にしか見えん。」
レオナールとディスマルクとともに招かれたアルベール邸での昼食会でトゥールーズ行きのことを話したミロが苦笑する。
「しかし馬車はそれなりに便利だぜ、なにしろ居眠りができる。」
「馬だって、木陰に繋いで顔に帽子を乗せたらすぐに熟睡だ。 あんなに気持ちのいいものはない。」
「いや、馬車はお前が居眠ってる間にも前に進む。」
「馬車には御者が要る。 自由が効かない。」
「ふうん ……… 一人だけでなにをやろうっていうんだ? 怪しいな♪ もしかして村娘とのアバンチュールか?」
「馬鹿なことをっ! お前じゃ有るまいし!」
「よせよ、ディス、カミュが笑ってる♪」
レオナールが止めなかったらミロとディスマルクのやり取りはまだまだ続いたに違いない。
「一人でトゥールーズに行くときは村娘とアバンチュールってほんとうに?」
「えっ?」
「ディスがそう言ったとき、真っ赤になってた。」
「おい、そんなことを俺がするはずが……!」
明るい夏の日差しあふれる外とは違い、カーテンが半ば閉められた馬車の中は仄暗い。
人通りの多いパリを抜けるまではと、気を遣ったミロが閉めておいたのだ。 眼を凝らしてみるとカミュが笑っているのがわかる。
「わかっている。 ミロはそんなことをするような人間ではない。」
「カミュ……」
ミロがカミュを引き寄せた。
「ねぇ、知ってる? 馬車の効用は居眠りするだけじゃない。 もっとほかのこともできるって………」
「あ……ミロ…」
馬車が緑豊かな田園地帯に差し掛かってもカーテンはなかなか開かれなかった。
夕暮れの金色の光があたりを染める頃、馬車は最初の宿泊地オルレアンに着いた。
「今日はここで泊まる。 うちのものが行き来するときの定宿でなんの心配も要らない。」
素早く馬車から降りたミロが宿の扉を叩いた。 その間にグリモーとバザンが馬車の後ろに積んだ荷物を降ろす。
「これはこれはトゥールーズのミロぼっちゃま! よくおいでなされました、お久しぶりでございます!」
中から出てきた赤ら顔の宿の主人が嬉しそうにミロに挨拶し、
「お部屋はいつものところを用意してございます、すぐにお食事になさいますか?」
そう言いながら、荷物を運び込む二人にも合図をするのはいかにも馴染みの間柄のようである。
「ああ、長旅でえらく空腹だ。 ところで今夜は部屋で食べたいんだが頼めるかな。」
「はい、よろしゅうございますとも!お任せくださいませ!」
「こっちは友人のカミュだ、ここは初めてだがよろしく頼む。」
ミロが振り向いて陰にいたカミュを紹介し、にっこり笑った主人と伏目がちなカミュとの間に挨拶が交された。
主人はなにか気が付いたかもしれないが、ミロが連れてきた友人についてはなんの心配も要らないと考えたに違いない。
「この階段を上った奥の部屋だ。」
勝手知ったる宿のこととてミロはずんずんと歩いてゆく。 ドアを開けるとほどよい広さの部屋にきちんと整えられたベッドが二つあり備え付けられている家具も猫足の上等な品だ。 大きく開けられた窓からは夕暮れの色に沈む静かな村の風景が見えている。
「宿どころか、自分の部屋以外に泊まるのも初めてで珍しいだろう。 」
「それもそうだが、さっきの 『 ミロぼっちゃま 』 には驚いた。」
「ああ、あれか!」
ミロがくすくす笑う。
「なにしろこの宿には俺が二つくらいのときから時々来ているからな。 向こうとしては俺がどんなに大きくなっても子供に見えるらしい。」
帽子を取ったミロがカミュの帽子をひょいと取り、さっそくやさしいキスを贈る。
「こんなに大人になってるのに、わかってもらえないのさ………」
「ん……」
「もっとも、わかられたら困るけど♪」
「あの………」
「ん? なに?」
「今夜は………グリモーとバザンは…?」
蚊の鳴くような小さな声がミロを微笑ませる。
「使用人は一階の玄関近くの部屋だ。 用事があればそこの呼び紐を引けばいい。
気になってたかな?」
「いや、あの……」
カミュが真っ赤になった。 自分から訊いてしまったことがどうにも恥ずかしくてならないのだ。
「じきに食事の用意ができるだろうから今夜は早く寝よう。 明日も早く発つつもりだ。
もっとも寝るのと眠るのは違うけど♪」
「ん…」
初めての旅の夜が始まろうとしていた。
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