その23  旅 の 途 中 3


初めてパリを離れるカミュの目に映るものは何もかもが珍しく面白い。
通り過ぎる農家の屋根の形に関心を寄せたり、ゆっくりと草を食んでいる雄牛が尾をしきりに振っている様子を不思議がって、「あれは蝿を追っているのだ」 と聞かされれば 「まさか!」 と笑う。 
裸足の子供達が盛大に水しぶきを上げて川の浅瀬で遊んでいるのを珍しがるので、それもミロには新鮮だ。
「トゥールーズに着いたら川でマスを釣ろう。 釣りのやり方を教えてやるよ。」
「えっ! マスを自分で? そんなことができるだろうか?」
「できるさ! 領内にはマスが群れてる川があって俺も小さいときからさんざん遊んだものだ。 裸足で水の中を歩くのは面白い。 そして 夕食には自分の釣ったマス料理が食べられる。」
「信じられない!」
カミュが目を丸くする。 
それはそうだろう。 生まれたときから屋敷を出たことがなく、森や川も馬車の中から眺めていただけなのだ。 自然や社会に対する経験値は限りなく無に近い。 そのカミュをトゥールーズは大きく手を広げて待っている。
「着いたら忙しいぜ。 剣に磨きをかけて、馬を走らせて、釣りをして、森を歩いてキノコを採ろう。」
「キノコっ?!」
「ああ、そうだ。 キノコは俺も子供の頃に採ったきりだが、トゥールーズじゃ、今も出てくる料理に使っているキノコは全部城の近くの森で採れたものばかりだからな。」
「キノコを自分で採るのか?!」
「簡単だよ♪ 本格的なシーズンは秋だが、夏に採れるキノコもたくさんあるから大丈夫だ。 ただし、キノコには毒が含まれているものも多いから、城の料理人と一緒に行って見分けてもらわないととても手が出せない。 あと、鹿狩りもやりたいが、こっちの方は大掛かりなのですぐにできるかどうかはわからない。」
「鹿狩り!!」
カミュには驚くことばかりなのだ。 聞いているだけでドキドキしてきて頬が紅潮してしまう。
「大丈夫だよ、トゥールーズでこれまでの二十年を取り戻すんだ。 子供の頃にできなかった木登りや水遊びや虫捕りもやろうじゃないか! 俺も久しぶりで楽しみたい。 ところで、コガネムシにさわれる?」
「ん………たぶんさわれると思う。 ありがとう、みんなミロのおかげだ。 あのときミロが来てくれなかったら私は今も……」
溜め息をついたカミュをミロがぐっと抱き寄せた。
「すると俺は白馬に乗った王子様ってことかな?」
「え………あのぅ…」
「都合のいいことにトゥールーズには真っ白な馬もいる。 俺の雄姿を見て惚れ直してもらおうか♪」
「何度でも……」
揺れる馬車の中でやさしいキスが交された。

「ミロ様、このあたりで昼食がよろしいかと思いますが。」
のどかな田園風景を走っているときにグリモーが声を掛けてきた。 外を見ると遠くの方に農家が点在しているだけで、そのあたりは緑深い森を背にした草原になっている。 馬車は小川にかかっている橋を越えたところで、川岸にはヒナギクやアザミやベルフラワーが咲き乱れていて美しい。 大きなライラックの木が何本も枝を広げて涼しそうな木陰を作っていた。
「ああ、理想的だ! そうしよう!」
グリモーの合図で馬車は道をそれて草原に乗り入れた。 小川に向かってゆるやかな斜面を作っているあたりに敷物を広げると木漏れ日がちらちらと踊って明るい模様を作る。
「これはいい! お前たちも適当にやってくれ、ここで二時間ばかりのんびりしても大丈夫かな?」
「はい、早立ちいたしましたので、今夜の宿にはちょうどよろしいでしょう。」
グリモーが馬の世話をしていたバザンにそのことを伝えに行き、二人もほどよく離れた川岸で自分達のバスケットを開け始めた。
「食べたらここで昼寝をしよう! まだ外での昼寝ってやったことがないだろう? 小鳥の声が聞こえて風が頬を撫でる。 そりゃあ、いい気持ちなんだからな♪」
ほんとうになにもかもが初めてなのだ。
ブーローニュでこんなことをしている人々の姿をみかけたことはあるが、羨ましいと思うこともなく見過ごしてきたのは、人目を恐れながらそんなことをしても心配が募るばかりで楽しいはずもないからだ。 そのくらいなら、安全な屋敷の中で落ち着いて食事をしたほうがどれほどよいかわからない。
しかし、ミロと二人で外で食べることの気分の良さといったらどうだろう。 小川のせせらぎが夏の日を反射して眼に眩しい。
「なんて気持ちがいいのだろう! こんなことは初めてだ!」
バスケットの中にはハムやチーズや野菜をぎっしりはさんだサンドイッチやクルミの入った焼き菓子、何種類かのチーズとそれからワインもしっかりと入っている。
「ふうん、こいつは賑やかだ! ほら、グラスはこれ。」
取り出されたのは錫( すず ) 製のワイングラスだ。
「旅行には割れないグラスを携行するのが常識だ。 銀は手入れをしっかりしないと変色するので持ち歩きは避けたほうがいい。」
明るい銀色のグラスにそそがれたワインを一口飲むと青空が目に沁みる。
「こんなに幸せでいいんだろうか。」
「いいんだよ、今までの分を取り戻すためには人の五倍も十倍も楽しまなくちゃ 割が合わない。 及ばずながら俺が手を貸してやるよ。 そら、サンドイッチをもう一つ取って♪」
こんなふうに青空の下の食事を楽しんでから、そのまま寝転がって昼寝を楽しむことにした。 ミロはすぐに寝息を立て始めたが、こうしたことに慣れないカミュの方は緊張してなかなか眠るまでには至らない。

   外で横になるなんて!
   鳥の声がして、蝶やトンボも飛んでいて、風が吹いて木の葉がざわめいて………!
   ミロは………もう眠ってる………ミロの寝顔はほんとにきれいで………
   ああ、ちっとも眠れない……!

ドキドキするばかりで眠気などさすはずもなく、青空をゆったりと流れる雲を見上げたり、隣りのミロをこっそり見たりしていると、遠くの方から馬車がやってくる音がした。 何の気なしに振り返ってみると明らかに貴族の持ち物で手入れの行き届いた立派な馬車である。 どうやら速度を落として停まるつもりらしい。 ドキッとして半身起き上がると、ミロたちよりも街道寄りにいたバザンとグリモーがそちらの方を見て慌てて立ち上がり、すぐにグリモーがミロのところにやってきた。
「ミロ様、トレヴィル侯爵家の馬車でございますが……」
新来の馬車の扉にも剣と百合を組み合わせた紋章が描いてあり、一目でどこの貴族なのかはわかるのだ。
「………え? なにもこんなところで出くわさなくたっていいだろうに……!これだから紋章入りの馬車ってのは………」
ぼやきながら立ち上がったミロが服の埃をはたいていると、果たしてすぐ近くに停まった馬車の従僕がやってきて、
「トレヴィル侯爵夫人がトゥールーズ伯爵家にご挨拶いたします。」
と口上を述べた。 頷いたミロが真面目な顔をしてついてゆくと、馬車の窓から年配の品のいい婦人が顔をのぞかせた。
「これはマダム、お久しぶりです。 このようなところでお目にかかれるとは思ってもいませんでした。」
「あらまあ、やっぱりミロ様でいらしたわ! トゥールーズにおいでになるところなんですのね、わたくしも半月ほど滞在させていただきましたの。 あなたのお母さまからお話は伺っていましてよ、とても楽しみにしてらっしゃいますよ。」
「そうでしたか! 私も半年ぶりで帰るところです。」
「今度はごゆっくりなさるの? あちらの方は?」
夫人が言うのはむろんカミュのことなのだ。 呼ばれたミロが行ってしまったので、グリモーに付き添われて困ったように伏目がちに立っている。 本人はできることなら気付かれずにいたいのだが、トゥールーズ行きを喜んだ伯爵夫妻が色こそ控え目だが最新流行の衣装を仕立てたので、相当に目立つのだ。
「私の友人でアルベール伯爵家の子息です。 一緒に一ヶ月ほどトゥールーズに行くところです。」
振り向いたミロがカミュを手招いた。 侯爵夫人にああ言われては、紹介しないわけにはいかないのだ。
「え………どうしよう…!」
まさかと思っていたのに手招きされたカミュは蒼ざめた。 この眼を見て悲鳴を上げるとか気絶されたらどうすればいいのかまったくわからない。 思わずたじろいで恐慌をきたしかけたとき、
「大丈夫でございます、カミュ様! ミロ様がうまくはからってくださいますから、万事お任せなさればよろしいのです。」
グリモーの落ち着いた声がカミュを少し冷静にさせた。 カミュにしても、ここは行くしかないのはよくわかってはいる。 ドキドキしながら頷いて、できるだけ自然にみえるように努力しながら馬車に近付いた。
「私の友人でルビーのように綺麗な目の持ち主です。 父も母も彼に会うのをとても楽しみにしているところです。」
一語一語選んで言ったミロが微笑みながらカミュを見た。 短い言葉の中に最大級の擁護の想いが込められているのはその場の誰にもわかっただろう。 それに助けられるようにしたカミュが、ともすれば震えようとする声を励まして自己紹介をする。
「カミュ・フランソワ・ド・アルベールです、お眼にかかれまして身に余る光栄です。」
「………あらまぁ!」
一瞬息を飲んだらしい夫人が窓からすっと手を出した。 一歩近付いたカミュがその手に軽く口付ける。
「こちらこそどうぞよろしく。 ルイーズ・アテナイス・ド・トレヴィルですわ。 ほんとうに、なんて綺麗なお目でいらっしゃること!」
カミュが驚いたように顔を上げた。
「わたくしの指輪とどちらが美しいか、とても決められませんもの。」
差し出された白い手にはハシバミの実ほどもありそうな素晴らしいルビーの指輪がはめてある。
「いえ、そんな………」
ドキドキしたカミュはとても言葉が続かない。
「大丈夫よ、自信をお持ちなさいな。 あなたのお母さまのことは存じ上げています、トゥールーズで楽しくお過ごしになることを祈っています。」
「恐れ入ります、マダム。」
答えるミロの目が喜びに輝いた。
「パリに戻ったら二人で遊びにいらっしゃるとよろしいわ、お待ちしています。」
「喜んで!」
馬車の奥では二人の可愛らしい侍女がミロとカミュを見比べてひそひそ話をしているようだ。 若い娘らしく頬を染めて品定めに余念がないのだろうと思われた。
夫人が合図をし、馬車はパリの方向に去っていった。 ほんの僅かの邂逅だが、この出会いがカミュにもたらしたものは計り知れないほど大きい。
「良かったじゃないか!」
ミロがカミュの背をばしっと叩く。
「ミロ………私はもう、ドキドキして息が止まりそうだった!」
「実は俺もそうだ! どうしようかと思ったぜ!」
「えっ、とても落ち着いて見えたが?」
「いや、これなら決闘の方がはるかに楽だ! なんにしてもよかった。」
笑い合いながら馬車の方に戻ってくると満面に笑みを浮かべたグリモーが扉を開けて待っている。 カミュが先に乗り込んだところでグリモーが声をかけた。
「ほんとによろしゅうございました。 それからミロ様、」
「ん? なんだ?」
「髪のリボンの結び目がちょっと曲っておりますので、お直ししてもよろしいでしょうか。」
「ああ、さっきまで横になってたからな。 では、頼む。」
手早く結びなおしたそれを馬車の中からじっと見ていたカミュが頬を染める。 自分の髪のリボンに手をやって、ミロが結んでくれたのが蝶結びではないことに気付いたらしい。 ミロを乗せた馬車が走りだす。
「夫人が物分りのいい方でよかったよ、あれなら使用人たちも無責任な噂はしない。 トゥールーズに滞在して俺の親から歓待されて、パリではトレヴィル侯爵夫人が味方に付いた!これでもう安心だ。」
カミュの肩を抱いたミロが大きく溜め息をついて頭をもたせ掛けてきた。
「ミロ……?」
「俺はほんとにお前のことが心配で……ほんとによかった………」
「ん……ありがとう……」
いつの間にか出てきた涙が二人の視界を曇らせる。 泣き笑いしながら交わす口付けがこのうえなく嬉しかった。