その25  ブ ラ ン コ


鳥の声に気がついて目を開けると金色の波が見えた。

   ………え?

よくみるとそれはミロの髪で、カミュはミロに抱かれたまま寝入っていたのだった。
二人に用意された部屋はこの城に数え切れないほどある客用寝室の一つで格式のある内装が好ましい。 東に向いた窓が大きく開け放たれていて清々しい朝の風が天蓋の薄布を揺らしている。

   そうだ………私はトゥールーズにいるのだった!

見慣れない室内にどきどきしてそっとあたりを見ているとミロが寝返りを打った。 あわてて身体をずらそうとしたがミロの肩の下に髪が敷かれていて思うようにはいかず、逃れられないままにミロが覆いかぶさる形になった。
「あっ…」
いきなり見詰め合ってしまい、次の瞬間笑いがこぼれる。
「おはよう! すまん、髪を引っ張ってるかな? 痛かった?」
「あ………少し…」
返事の途中からミロが唇を重ねてきて、もう答えることもままならないのだ。 昨夜の続きとばかりに抱きしめにかかるミロは、どうやら勝手知ったるトゥールーズ城のこととてアルベール邸のように遠慮する気はないらしい。
「ミロ………でも、あの、もうこんなに明るくて……」
「ん〜、気にしなくていい。 朝もまだ早いし、長旅で疲れている俺たちを起こしに来ることはないからゆっくりしてもいいんだよ。」
「ゆっくりっていっても……」
性急な動きが風と一緒になって天蓋を揺らす。 紅い瞳が観念したように閉じられた。

トゥールーズでは朝食は部屋に運ばれる。 美味しいオムレツとハムがカミュを喜ばせ、むろんミロが朝からワインを開けているのは言うまでもない。
「ではこのハムも?」
「ああ、ハムも城で作っている。 俺たち家族と来客のためだから、量はそんなに 多くはないが。」
といっても城の貯蔵庫にはハムやチーズやピクルス、果物の砂糖漬け、各種燻製、その他諸々の食料がぎっしりで、子供の頃に料理人に覗かせてもらったミロは目を丸くしたものだ。 広い厨房では毎日何種類ものスイーツが作られてそれが次々と運ばれてきて小さいミロたちを喜ばせたのは懐かしい思い出だ。 城の歴史を刻んでいるワイン蔵には、ワイン通なら気が遠くなるほどの垂涎ものの逸品が数え切れないほど横たえられている。
「城の近くにはクルミの木もたくさんあるし、葡萄園で採れたブドウからレーズンもできる。 ほとんどが自給自足だな。」
「ふうん! そうなのか! 私のところではパンは焼いているけれど、他のものは………たぶん誰かが買ってくるのだと思う。 ………たぶん、だけど。」
そんなことを考えたこともなかったカミュが自信なさそうにするのは当たり前で、貴族が食料の調達方法に詳しい筈もない。 そういうことを考えるのは執事をはじめとする使用人の役目なのだから。
「俺のところもパリではそうしてる。 バターなんて、牛を飼ってるから自前で作れるんだよ。 パリの街中で牛を飼ったりしないから、バターはパリ郊外の農家から毎朝届けられてると思うし、ワインやチーズの商人は何代も前からうちに出入りしてる筈だ。」
ミロにしてもパリのトゥールーズ邸での食料の調達方法についてはとくに考えたことはないが、そこは世間の常識というものがあるのでいちいち使用人が市場に行って買い物をしているわけではないという知識くらいは持っている。

   どの屋敷でも厨房の人の出入りっていうのは頻繁だからな
   出入りの商人も次から次へとやってくるし、そのためのドアには鍵なんか掛けてないことがほとんどだ
   それだからこそ、深夜のアルベール邸にも忍び込めたっていうわけだ♪

「さて、俺も飲むのはこのくらいにして外に行こう! もう、できてる頃だ。」
「できてるって、なにが?」
「ブランコだよ、俺たちが食事を始めるかなり前から取りかかってた。」
「あ……こんなに早く?」
あれからひとしきり愛したあとで、ふたたびカミュが眠ってしまったのをみすましてからそっと起き上がったミロが窓辺に寄ると、二人の園丁が長いはしごを担いで庭を横切っていくのが見えたのだ。 あの様子ならとうにできているに違いない。
「ブランコに乗ったことはない?」
「全くない。 ブーローニュで見かけたことはある。」
「大人になって乗っても面白いと思う。 風を切る感覚がなんとも言えずいいものだ。」
そんなことを話しながら階下に下りてゆくとホールでトゥールーズ伯と会った。
「おはようございます、伯爵!」
「おはよう、二人とも。 よく眠れましたかな?」
「はい、とてもよく。」
「それはよかった。 ところで、ミロ、来週にはサガとカノンたちもやってくることになった。 いい機会だから鹿狩りをやるつもりだ。 客人にもそれに備えていただくといい。」
カノンはサガの一つ下の弟でミロの次兄に当る。 やはりパリ市内に屋敷を持っていて子供も生まれているのだった。
「それは楽しみです! あとはギャロップだけですから、そうはかからないでしょう。」
「ヌーベル・ネージュがいいだろう、あれはおとなしい。」
「え……では私はソレイユで。」
頷いた伯爵が行ってしまっても、鹿狩りの話が本当になって頬を紅潮させているカミュの胸の鼓動はおさまらぬのだ。
「大丈夫だよ、なにも先頭切って鹿を追わなきゃいけないわけじゃない。 そんなのは慣れている兄貴たちに任せておいて、ほどほどについていって雰囲気を味わえばいいんだから。 それにしても、鹿狩りには手がかかる。 いくらお前に見せたいからって特別に頼むのもどんなものか、と思っていたが、兄たちがくるなら鹿狩りは当然だな!」
「夏にはいつも?」
「ああ、家族でここに来るのが通例だ。 子供達も来るから賑やかになる。」
話をしながらサロンを覗き、本を開いていた夫人とにこやかな挨拶を交わしてから外に出た。 夏の日ざしは眩しいが芝生を渡る風が心地よい。
「ほら、できてる!」
城から100メートルほど離れた大きなナラの木のがっしりとした横枝にうまくロープが取り付けてあり、地面からちょうどいい高さになるようにブランコがある。
「そら、座って! コツがわかれば自分でどんどん漕げるが、最初は後ろから押さないと無理だろうと思う。」
どきどきしているらしいカミュを座らせると、
「ロープをしっかり持って離すんじゃない。足は前に伸ばして地面につけないように。」
そういいながら後ろに立って両手でロープをぐっと引いたミロが勢いをつけて前に押しだした。
「わっ…」
戻ってきたところを加減しながら背を押していくとブランコは徐々に大きく揺れ出した。 取り付けてある横枝はかなり太いので折れるようなことはないのだが、そこは木の枝だけに多少のたわみがあり不思議な弾みがついてくる。
「ミロ、ミロ、すごい!」
初めての経験に興奮して目を輝かせたカミュの長い髪が風になびいて美しい。
「ここまできたら、あとは自分でこげるといいんだが。 一番高く上がるちょっと前から肘と足を伸ばして前方に押し出すような感じだ。 う〜ん、口で言うのは難しいな!」
要領がつかめなくてだんだん勢いが弱まってきたブランコにミロが首を傾げる。
「それじゃ、俺がやってみるから。」
カミュと替わったミロが座らないで立ったままできるだけ後ろに後ずさり、それからすばやく座ってこぎ出したのを見たカミュが、ああ!、という顔をする。 そのあとミロが体の反動を利用してぐんぐんと高くこいでゆき、ついには低く垂れ下がった枝先の葉に足先が触れそうになったのにはそうとう感心したらしい。
「まあ、こんなところかな。 それにしてもブランコをこぐのは久しぶりだ! たしかに愉快だな!」
「ではもう一度私がやってみる!」
そんなふうに二十歳を迎えた二人がかわるがわる新しい遊びに打ち興じているのを城の方から見ていた人がいる。

「おや……あれは?」
図書室の張り出し窓からたまたま外を覗いた伯爵が、ブランコに乗っている女性のドレスの裾が優雅に風になびいているのを見かけて疑問に思うのは当然だ。 この城にブランコに乗りたがるような若い女性がいたろうか? 侍女たちの中には若いものも多いが、使用人は城の前庭にしつらえられたブランコを楽しめるような立場ではないのだ。
「はい、奥方様でございます。 さきほどミロ様とカミュ様が馬場の方に行かれまして、そのあとお楽しみでいらっしゃいます。」
伯爵の問いに答えたのはグリモーだ。 ミロとともにこの城に来てからは 「俺のことはそんなにかまわなくていいから、適当にやっててくれ。」 と言われて、伯爵付きの召使いも兼ねている。
「ブランコとは、また珍しい。」
近くには侍女が二人いて、夫人と一緒に笑いさざめいているようだ。 大きな木の下で楽しそうにブランコをこいでいる様子がまるで少女のようで伯爵に笑みを浮ばせた。
「あの様子では、きっと喉が渇くだろう。 じきに戻るだろうから、そのときにはサロンに紅茶を持ってきてくれ。」
「はい、かしこまりました。」
お茶の用意をするためにグリモーが出て行った。
伯爵がもう一度外に目をやったとき、ブランコに乗った夫人の裾がふわりとふくらんで小さい靴がちらりと見えた。
「ミロのやつ、面白いことをしてくれる。」
くすっと笑った伯爵がサロンに向って行った。