その29  魚 釣 り

しばらく歩いていると瀬音が聞こえてきた。
「ほら、着いた!」
少しひらけているそのあたりは夏の日ざしが木漏れ日になって水面をきらめかせ、絶え間ない水音が涼しさを感じさせる恰好の水辺だった。
「ああ、なんて気持ちのいいところだろう!」
「ニジマスを釣るのはもう少し上流に行ったところだ。 で、まず最初にここで川の中に入る。」
「え?」
なにをするのかわからないでいると、手近の岩に腰掛けたミロがブーツを脱ぎ出した。
「ミロ、いったいなにを?」
「まず川遊びをする。 やったことがないだろう? 裸足で水の中を歩くのは気持ちがいいぜ!」
うながされたカミュがミロに倣って恐る恐る裸足になると汗をかいていたところに風が当たってそれだけでもいい気持ちなのだ。 一度も日に当たったことのない足は真っ白で森の中ではよく目立つ。 
「裾をできるだけまくり上げないと水で濡れる。 着替えはないから転ぶわけにはいかない。 」
「それは困る。」
眉を寄せながらこわごわ立ち上がったカミュの覚束ない様子がミロの気を惹いた。
「もしかして裸足で歩くのも初めて?」
「ああ。 川の中どころか草や土の上を歩いたこともない。 こんなにくすぐったいとは思わなかった。 なんだか変な感じだ。」
「川の底は砂地だが小石もたくさんあるし水草も生えている。 注意しないと尖った石を踏んで足の裏が痛くなる。 よく見て歩いたほうがいい。」
やたらと基本的な注意を受けながらミロに手を引かれて川の中に足を入れてみた。
「わっ! 冷たい!」
夏とはいえ森の中を流れる川は思ったよりも温度が低く、不慣れなカミュを驚かせた。 それに足の裏の砂がさらさらと逃げていくような気がしてどうにも不思議なのだ。
「日陰を流れているからわりと冷たく感じられるかな。  ニジマスを釣るのはこの上流だから、このあたりで水をかき混ぜても釣りには影響ないんだよ。」
「え?………ああ、なるほど! 魚のそばで水遊びをすると魚が逃げてしまうというわけか。 なるほど、そういうわけか!」
こんなことで感心されるとは思っていなかったミロはおかしくて仕方がない。
「俺たちだって人がダンスをしている横でキスをしようとは思わないだろう? そういうのは誰もいない静かなところでやるものだ。」
「そんな恥ずかしいこと……!」
頬を染めたカミュが横を向いた拍子に石でも踏んだものかバランスを崩して倒れ掛かるのをさっと手を伸ばしたミロがあやうくつかまえた。
「あ……」
引き寄せられるままに唇を重ねられたカミュが観念したように目を閉じる。 聞こえるのはさらさらと流れる水の音と名前も知らぬ鳥の声だけで足元を過ぎる水の感触がこころよい。
めったない状況をゆっくりと楽しんだミロが名残惜しげに唇を離すと押し殺した溜め息をついたカミュがそっと頭をもたせ掛けてきた。
「こんなに幸せでいいんだろうか? ミロに会うまでの私にはとても考えられないことをしていて………」
「いいんだよ、普通の暮らしをしていたならとっくに恋の一つや二つはしていただろう。 それが今やってきたんだからなにも遠慮することはない。 俺といるときには思う存分楽しめばいいんだよ。」
「ん……」
そんなふうにして足を浸しながら互いの背に手を回していると川岸近くに小さい魚がいるのが見えた。
「あっ、ミロ、あそこに魚がいる! あれがニジマス?」
「ん? どれ?」
ミロが首をめぐらせる。
「あれは vairon ヴェロンだ。 小さすぎて食用には向かない。 マス釣りの餌にはなるが。」
それからミロがふと思いついたように言った。
「ところで釣りには餌が必要だって知ってる?」
「餌………釣竿の先に糸が垂れててその先に針が付いてることはわかるけど、餌って?」
「腹を空かせた魚が針の先についている食べ物を口に入れると曲った針の先が口に引っかかって取れなくなる。 で、魚が逃げようとして暴れると釣竿にその動きが伝わってこっちに魚がかかったことがわかるので逃げられないうちに竿を上げて魚を捕まえるんだよ、それが魚釣りというものだ。」
「ああ、なるほど、わかった! それで魚が釣れるのか! では、あの魚を………ええとヴェロンを捕まえればいいのか?」
「いや、餌はべつに持ってきてある。 ヴェロンが見つからなくて餌がないのでは釣りができないからな。」
新しいことを覚えて感心しているカミュの頬に一つキスをしたミロが岸辺に戻ったところをみると、どうやらニジマス釣りに取り掛かるらしい。
石の上に腰掛けて足を乾かしながらミロが荷物の中から束ねた枝を取り出した。
「それは?」
「ブドウの枝だ。 この中に虫がいて、それを餌にする。」
「虫?」
興味津々でミロの手元を覗きこんだカミュがちょっと身を引いた。 茶枯れたブドウの枝の表面が少し剥がされていて中に白っぽい芋虫のようなものが見えたのだ。 カミュの考える虫というのは蝶やトンボやコガネムシのことであって、こんな形のものは虫の範疇にははいっていない。
「それはなにっ?!」
「ブドウ虫って呼んでる。 蛾の幼虫だよ、こいつが大きく育って蛾になるんだが、そういうのは知ってる?」
「蝶のことは知っているが蛾も? ああ、そういえば形がよく似てるからそうかもしれない。」
「これが枝に入って中を食い荒らすとその先の枝が枯れてブドウがだめになる。 そこで見つけ次第切り取って釣りの餌に使うんだよ。 森番は釣りのためにこれをたくさん取っておいてくれる。」
説明を終えてブーツをはいたミロが立ち上がった。
「じゃあ行こう。 夕食のメニューが豪華になるかどうかは俺たちの腕にかかってる。」
「ちょっと、というか、まったく自信がない。 」
「平気だよ、俺がついてる。 俺は運がいいんだよ。」
そうしていつのもポイントに陣取ったミロがお膳立てをして釣りが始まった。 なにしろ釣り針にブドウ虫をつけるのを教える時点でカミュが怖じ気を振るい、苦笑いをしたミロが全てをやってのけねばならなかったのだ。
「えっっ!! そんなことをするのか……?!」
ミロがブドウの枝からひょいっとブドウ虫をつまみ出したとき、当然ながら生きているブドウ虫が身をくねらせてカミュを驚愕させたのだ。 目を見開いているカミュの視線を面白がりながら、
「針からはずれないようにこうやって…」
ブドウ虫の肛門から針を刺し、頭の近くで湾曲した針先をくいっと出して見せたときは大変だった。
「ミロ………できない……私にはとても無理だから……」
蒼ざめて唇を震わせているカミュが気の毒やらおかしいやらでミロは苦笑する。
「初めてじゃ無理かもしれないな。 俺も子供の頃はドキドキしたものだ。 いいさ、俺がやるから大丈夫。」

   ほんとに塔の上の姫君みたいだな………
   いや、姫君だったら失神するのかもしれん
   それならそれで介抱のし甲斐があるっていうものだが、ちょっと惜しかったかな?
   森の中のアバンチュールも悪くないんだがな

不埒なことを考えながらカミュの竿にも餌をつけてやり、コツを教えながら糸をポイントに静かに下ろす。
待つこと10分、最初のニジマスがかかったのはカミュの竿の方だった。
「ミロっ! 動いてるっ! これってニジマス?」
「おっと、慌てないで落ち着いて! 動きに合わせてこう引いて…」
そのとたん大きな魚が水面を割って飛び上がり水しぶきが上がった。
「あっ!!」
驚いたカミュが竿を離してしまい、うまく針をはずしたニジマスはあっという間に姿を消した。
「すごいっ!ミロ! すごいっっ!!」
水しぶきがかかったカミュが驚きの声を上げた。
「う〜〜ん、逃げられたか! ニジマスはああやってうまく針をはずすことがある。 むこうも必死だからな。 大きいのがジャンプを繰り返すとものすごい手ごたえでそいつがたまらないんだよ!」
「魚があんなに力があるとは思わなかった! それにすごくきれいだ! 次は釣れるかな?」
飛び上がった魚体に木漏れ日が当たって虹色に輝いたのだ。 初めての経験にカミュの頬が紅潮する。
「釣れるさ! なにしろ俺は運がいいんだからな。」
そしてミロの言ったとおり、二時間ほどの間に大小合わせて6匹の釣果があった。 いちばん大きいのはミロが最後に吊り上げた40センチほどもある立派なニジマスで横で手に汗握っていたカミュは糸が切れるのではないかとおおいに心配したものだ。 カミュも小さいのを二匹釣り、初めての釣りは大成功だったといえよう。
ニジマスの入った手桶を提げての帰り道は話も弾む。
「釣りはどうだった?」
「すごく面白い! 魚が竿を引くときの感覚はなんともいえない! でも………」
「やっぱりだめかな?ブドウ虫は。」
「う〜ん………まだちょっと…」
結局最後までブドウ虫にさわれなかったカミュである。その気分を察知したミロは、普段は気にも留めないのだがブドウ虫を針に刺したあとで指先を川に浸して洗うことにした。 釣りの最中にもカミュを引き寄せてキスしようと思っているのに、その指でさわられるのはちょっと………、などと思われたとしたら大問題だ。
魚の喰いつきが悪いときにはブドウ虫をちょっと (もちろん指で ) つぶしてやると効果的なのだが、こんな秘儀は言わないに限る。

   それはまあ、白馬に乗った王子はブドウ虫を指ではつぶさないかもしれん
   うん、たしかに素敵ではないな

「気にすることはない。 森番の言うことには、ケーキのスポンジ部分に卵の黄身を混ぜて練ったものもかなりいけるらしいから、次の時にはそれを持ってきてみよう。」
「そんなものでも餌になるのか?」
「美味いものは魚にもわかるらしい。 今夜の夕食が楽しみだ!」

そうしてトゥールーズ城の正餐にはなかなか見事なニジマスのムニエル・香草添えが供された。生まれて初めて自分が釣った魚を食べたカミュはワインをしこたま飲んでいるミロに負けず劣らず頬を染め、蝋燭の灯りの下でもその初々しさがよく目立つ。
「まあ! 蛇もリスも初めてでいらっしゃいましたのね。 それはさぞかし驚かれたことでしょう!」
広いテーブルの向こう側に座る夫人は聞き上手でカミュの口もほぐれてくる。 ミロと同年齢なのに今までずっと屋敷の中に籠もっていたという特別な事情が夫人の心に作用して、今までにミロが連れてきた誰よりもやさしい眼差しが注がれる。
「それからこのジロールも見つけました。 ほんとうに初めてのことばかりです。」
「わたくしキノコ取りは大好きですわ。 秋になるとブドウや栗も実りますから、その頃にどうぞまたおいでくださいな。 あなた、よろしゅうございましょう?」
微笑んだ夫人が上機嫌でワインを空けていた夫に声をかけた。
「もちろんだとも。 客人は多いほうが賑やかでいい。 そのときにはアルベール伯の二人のご令嬢もお招きしたいのだが、いかがですかな?」
「えっ、よろしいのですか! 姉たちがどんなに喜ぶことでしょう!」
「それは素晴らしい考えです、父上、ありがとうございます。」
思わぬ招待にますますカミュが頬を染め、食卓はおおいに盛り上がりを見せた。

「う〜ん………ちょっと飲みすぎた!」
部屋に戻ったミロがベッドに倒れこむ。
「大丈夫か?」
「大丈夫なことは大丈夫だが………」
「……え?」
「これじゃ、とてもお前を抱けない………楽しみにしてたんだが……すまん、期待してたかな、やっぱり。」
「そんなことは私は……」
「明日の朝に早起きできたら……必ず………」
それきりミロが眠り込み、くすくす笑ったカミュが隣りにもぐりこんだ。
慌てなくてもトゥールーズの夏はまだ続く。
「おやすみ………ミロ」
すこし乱れた金髪にやさしいキスが贈られた。