その30  乳 し ぼ り

トゥールーズの領地は広大で、城の周囲には幾つもの村が点在し豊かな田園地帯がどこまでも続いている。
「城で消費する食料はすべてこの土地で作られる。 ワインもバターもパンもハムも、俺たちが食べるものは全てだ。 」
「今朝のオムレツも。」
「そういうことだ。」
城から西へ馬を走らせてやがて見えてきたのは広々とした牧草地だ。 あちこちにのんびりと草を食んでいる牛が見えてきてカミュは興味津々である。
「こんなに近くで牛を見たのは初めてだ。 ずいぶんと大きい!」
「馬車の中から見たのは遠すぎたからな。 今日は面白いものを見せてやろう。」
トゥールーズに来て早や一週間、カミュの乗馬の腕はめきめきと上がり、ミロと遠出をするのにいささかの支障もない。 ヌーベル・ネージュともすっかり仲よくなって、森の中だろうと緑の丘陵だろうと自由に駈ける面白さがたまらないのだ。

「ねえ、聞いて! お城のミロ様を川の近くで見たわ!」
「ご一緒にいらした方が噂のルビーの目のお方でしょ! とってもおきれいなんですってね、ああ、もっと近くで見られたら!」
「お城に上がっている姉から聞いたんだけど、お名前はカミュ様とおっしゃって、素晴らしくおきれいでおやさしい方ですってよ。」
「まあ、羨ましい! 私もおそばでお目にかかりたいのに!」
ミロとカミュの乗馬姿に密かに溜め息をつく村の女たちが日に日に増えていることは本人たちにはわからぬことだ。 毎日のようにあちこちを遠乗りして歩く二人に偶然に逢おうものなら彼女たちの一日は薔薇色に染まる。 颯爽と馬に乗る青年貴族というものはいつの世でもまことに麗しい存在なのだ。

「これはミロ様、ようこそおいでになりました!」
牛舎の並ぶ牧場で出迎えたのは恰幅の良い赤ら顔の男だ。
「アラン、久しぶりだな、変わりはないか? こっちは友人のカミュだ。今日は乳絞りを見せてもらいに来た。 」
「よろしいですとも! カミュ様、お目にかかれて光栄です!」
「よろしく!」
駆け寄ってきた少年に馬を預けると二人はさっそく牛舎へと向う。
「ここでお待ちください。 一頭、引き出してきますので。」
アランが離れた隙にカミュが疑問を口にした。
「そろそろ教えてくれてもいいと思うのだが、牛の乳絞りとは?」
「朝食のパンにバターを乗せたが、バターはどうやって作るか知ってるか?」
「バターは………ええと………いや、知らない。」
「バターはミルクから作る。 牛の乳だ。 バターを作るために牛の乳をしぼるというわけだ。 ついでに言えばチーズもミルクから作られる。」
「乳をしぼる理由はわかったが、乳をしぼるとはそもそもどういうことだろう?」
ここに来る途中で何頭もの雌牛を見たが、大きくふくらんだ乳房を見てそれとわかったわけではないのだ。 なぜ腹があんなに大きくふくらんでいるのだろう、くらいにしか思っていない。
「牛の子供は生まれてすぐには草の葉を食べることができないので、しばらくの間は母牛の母乳を飲んで育つ。 子牛が吸うから乳が出るので、そのままにしておいては乳は出ない。 だから人がしぼって乳を出させてそれからバターを作るということだ。」
「しぼる………?」
そんなことを考えたことがなかったカミュがちょっとたじろいだ。
人間の赤ん坊が母親に抱かれて母乳を飲んでいるところを見たことはある。
屋敷の外に出ないカミュにいろいろな知識を与えようと考えた夫人が、厨房で働く女中が子を産んだのを機会に、乳を含ませている様子を見せたことがあるのだ。 母乳で育てるのが当たり前の社会では授乳中のところを人に見られてもさほど恥かしがらぬし、まだ小さかったお屋敷の御曹司に自分の赤ん坊を見てもらうことはむしろ誇らしいことでもあったろう。 そのときも頬を染めて我が子に乳を含ませる女はとても幸せそうで、自分もこうやって育ったのかと幼心に思ったカミュなのだ。
といって、出産すると乳が出るようになるとか、吸われなくてもしぼれば出るとか、そういうことは知る筈もない。 そのあたりのことはカミュにとってはまったく無縁の知識であった。
そこへ一頭の大きな雌牛が牛舎から引き出されて近くの柵に繋がれた。
「こいつはとくにおとなしいですからね。 二ヶ月前に子を産んだばかりで乳の出もいいですよ。」
一緒に持ってきた小さい木の椅子を牛の横に置いたアランが慣れた手つきで真新しい木の桶に乳をしぼり始める。
「えっ、こうやってしぼるのか?」
人と違って牛の乳房が腹の方にあることにも驚いたが、その大きさにも圧倒される。
「人もおおいに利用させてもらうが、子牛もこの姿勢の母牛から乳を飲むものだ。 双方とも立ったままで、そこが人間とは違う。」
カミュが目を丸くして見ていると桶の中に白く筋を引いてリズミカルにしぼられてゆくミルクの量がだんだん増えてきた。
「俺もしぼってみてもいいか?」
「よろしゅうございますとも! お小さかったとき以来ですからコツをお教えいたしましょう。」
座っていた椅子をミロに譲ったアランが乳首の握り方や力の入れ方を説明するとふんふんと頷いていたミロがさっそくしぼり始めた。
「こんなにたくさんしぼってしまうと子牛の飲む分が足りなくなりはしないだろうか?」
「俺も子供の頃は心配したものだが、子牛が飲んで俺たちがしぼった分だけ牛はまた乳を出すものらしい。」
「それに子牛が大きくなると普通の餌を食べ始めますので、しぼったミルクをこちらが全部使えることになリますし。 」
「カミュもやってみるか?」
「私にもできるだろうか?」
「できるさ! べつに桶一杯しぼるわけじゃない。 ちょっとやって、どんなものかわかればいいのさ!」
どきどきしながら椅子に座ると牛の乳房の大きいのに圧倒されてしまう。 おずおずと手を伸ばしてピンク色の乳首の上辺りを見よう見真似で握ってみる。
「あっ、ずいぶん暖かい!」
「驚くことはない。 生きてるんだから当然だよ、俺たちと同じだ。」
その言葉がミロに初めて抱かれたときのことを思わせ、カミュを赤面させた。
理屈ではわかっていても、人の身体の暖かさを素肌で感じたのは衝撃的な体験だった。 もっとも最初の逢瀬は初夏の6月でその暖かさが心地よかったものだが、盛夏の今はいささか事情が違う。 昨夜の暑さをつい思い出してしまい手元が狂いそうだ。
「いささか手が疲れた。」
柔らかい乳房から手を離して真っ赤な顔で立ち上がったカミュの心のうちをミロが知るはずもない。
「俺もだ。 馬に乗るほうが百倍も楽だよ。」
「しぼりたてのを少しお飲みになりますか? お〜い、ジャック! ミロ様とカミュ様にコップをお持ちしろ!」
アランが声をかけると遠くのほうから興味津々でこっちを見ていた少年がはじかれたようにとび上がり、近くの小屋から錫のコップを二つ持ってきた。
「お城の若様方、コップをどうぞ!」
真っ白いフランネルでコップの内外をぬぐってから差し出すところは気が利いている。
「ありがとう、ジャック。」
カミュに礼を言われた少年が真っ赤になった。 家に帰ったら三人の姉達から質問攻めにあうに違いない。 それほどこの麗人は村の話題を独占しているのだった。
「私がしぼりますからコップを持って受けていただけますか。」
そこは慣れたもので、アランがまたたく間に二人のコップにミルクをいっぱいにしてくれた。
「田舎ならではだ。 パリではとても味わえん!」
先に一口飲んだミロがにやりと笑う。 どきどきしながらカミュも飲んだ。 このころのヨーロッパに牛乳を飲むという習慣はない。 低温輸送が可能になるまではミルクはもっぱらバターとチーズを作るためだけに生産されたものなのである。
「ああ、温かい! それにとても美味しい! こんな味とは知らなかった!」
「だろ? トゥールーズのはなんでも特別なんだよ!」
ニコニコしながら見ているアランは嬉しくてたまらない。
「向こうでバターも作っておりますよ、いかがですか?」
「そいつはいい! できたてのは香りが違うからな!」
コップをジャックに返してからアランに連れられてちょっと離れた建物に行くと中で何人もの女たちが両手で持てるほどの大きさの木の桶を一生懸命に揺すっていることろである。
「お前たち、お城の若様とお客人がおいでだ。 バターをお召し上がりになる。」
アランが言うと、
「まあ、ミロ様!」
「おいでなされませ!、ミロ様!」
頬を染めた女たちが口々に腰をかがめて挨拶をする。
「手を止めさせてすまないな。 できてるバターはある?」
「はい、こちらに。」
傍らの木桶の中から匙ですくい取られた黄色いバターは夏のこととてとろりとして柔らかい。 若い娘が二人にスプーンを差し出した。
「美味しい! これはすごいっ!」
一舐めしたカミュが感嘆の声を上げた。 出来立てのバターはやはり香りが違うのだ。
「ニジマスのムニエルもオムレツもこのバターを使って焼いたというわけだ。」
「とてもいい味だ。 どうもありがとう。」
丁寧に舐めたスプーンを返すと、頬を染めた娘が恥かしそうに微笑んだ。

「ほんとに美味しかった! まだ口の中にバターの味が残っている。」
「いや、ほんとに美味しいのはこれからだ。」
「え?」
くすっと笑ったミロがカミュをうながして脇の森に馬を乗り入れて行く。
「ミロ、どこへ?」
「もう少し奥だ。」
100メートルばかり進んだところで馬から降りたミロがカミュを差し招く。
「ここに何が?」
「こういうこと♪」
「あ……」
緑の木陰で抱き寄せられて唇が重ねられた。 バターでなめらかになっていた唇はすべりがよくて甘い香りが匂い立つ。 やさしいキスの感触と口中に残っていたバターの味がカミュをめくるめく陶酔に誘い込むようだ。
「ミロ………」
やっと唇を解放されたカミュがミロの胸で溜め息をつく。
「どう? 今日のキスの味は?」
「ん………ほんとに美味しかった……」
「だろ♪ トゥールーズのは、なんでも特別なんだよ。」
カッコウの声が梢から降ってきた。


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