その31  カ ノ ン

「明日あたりカノンの一家がやって来る。 サガたちも続けて到着する筈だから、そろそろ俺の屋敷に移っておこう。」
カノンはミロの次兄でサガより一つ年下だ。 すでにパリ市内に屋敷を構え、美しい妻との間に息子一人と娘が二人生まれている。
「私は初めてお目にかかるのだけれど、どんなお人柄だろうか。」
「サガが生真面目なのに比べて、冗談も言うしいろいろな遊びもよく知っている。 会ってみたら驚くと思うがサガととてもよく似ている。 子供の頃は同じ服を着られると、どっちがどっちだか区別が付かなくてよくからかわれたものだ。」

午後にこの部屋を引き払うというので、そんな話をしながら手回りの品をまとめてグリモーとバザンに一足先に馬車で運ばせる。 ミロが祖父から譲り受けたという屋敷は城の南にあって馬車で五分ほどの距離にある。 このくらいの距離は貴族の屋敷としては当たり前のことだ。
昼食後にミロの両親に挨拶をしてから二人で馬を走らせるとゆるやかにカーブしている道の向こうに瀟洒な屋敷が見えてきた。 よく手入れされた庭に夏の花が咲き乱れ開け放された窓に白いレースのカーテンが揺れている。
「なんてきれいなところだろう!」
「祖父は三年前に亡くなったが、俺にこの屋敷と周りの森を遺してくれた。 サガとカノンも自分の土地と屋敷を持っているのは言うまでもないことだ。」
入り口付近で馬を下りると蹄の音を聞きつけたバザンがさっそく馬を裏手に連れて行った。
「ここにいる間はグリモーとバザンに用事を頼めばいい。 母上からは侍女を何人か連れて行くことを勧められたが気楽なほうがいいと思って断った。 どうせ食事なんかは城で食べるんだから、こっちではせいぜいワインを飲んで寝るくらいだからな。 そのほうがいいと思わないか?」
「あのう、私としては……」
「むろん、召使いの部屋は前にも言ったとおり裏手の別棟になっている。 そこがこの屋敷の魅力ということだ。」
ウィンクされて頬を染めたカミュが返事もできないでいるのをどうやらミロは楽しんでいるらしい。
「城には客を泊める部屋が幾らでもあるが、兄弟だから隣り合った部屋だろうし、小さい子供達が6人も来て駆け回ったらいつなんどきドアを開けられるか知れたものではないからな。 といって他人でもないのに鍵を掛けるのも不自然だ。 俺も覚えがあるが、小さい子供にとってトゥールーズの城は冒険するのにもってこいの夢の国なんだよ。 かくれんぼなんてしようものなら、いつまで経っても見つからない。 俺も戸棚の中で眠ってしまったことがある。」
玄関ホールから弧を描いている階段を昇りきると廊下の左右に部屋が並んでいる。 少し田舎めいた造りは暖かみがあり、漆喰に梁を見せる構造がカミュには珍しい。
「ここに住んだことは?」
「いや、一度もない。 トゥールーズに来るたびに覗いてはいたが、自分一人で寝ても面白くはないからな。 でも……」
端の部屋に入ったミロがドアを閉めるとカミュを抱き寄せた。
「今夜からは一人じゃないし………」
「あ……」
「ベッドはこんな風に整えられているし………」
「ミロ………でも、あの………まだグリモーとバザンが……」
「大丈夫………少しなら怪しまれたりしないから……カミュ……」
「ミ……ロ………」
夏の風が天蓋の薄絹を揺らしていった。

その翌日、午前中に遠乗りを楽しみ城で昼食を摂ったあと馬場で馬を走らせていると伯爵付きの召使いがミロを呼びにきた。
「鹿狩りの打ち合わせだそうだ。 時間がかかるかもしれないがお前はどうする?」
「もう少し走らせてからゆっくりと屋敷に戻ることにしよう。 適当にやっているから大丈夫だ。」
「それじゃ、あとで。」
ミロが城に戻った後でしばらくヌーベル・ネージュを走らせていたカミュは初めて一人で森を抜けてみる気になった。 もう馬の扱いにはすっかり慣れたし、自分だけで森の静けさを味わってみたくなったのだ。
馬場の横の森に入ると小鳥の声が聞こえるのみで、湿った苔の匂いや高い梢を揺する風の音が好ましい。 大きく右に迂回してゆけばやがてミロの屋敷に続く道に出るのはわかっているのでなにを心配することもない。
トゥールーズに来て十日もたつとこの土地の暮らしにもすっかり慣れてパリのことが遠い日のことのように思われる。 自由に馬に乗り、どこに行っても紅い眼に奇異の目を向けられることがないというのは今までの暮らしではとても考えられないことだった。 むろん、カミュが来る前からトゥールーズ伯の意向が領地の隅々まで行き渡り、やがて来る客人に無礼のないようにとの指示が浸透していたからに違いないのだが。
「ルビーの目の客人」 というのが今のカミュに密かに冠せられている呼び名で、その稀有な瞳の色を不思議がりながらも優雅な物腰や美しい顔立ちに感嘆する者は数多く、なかでも娘たちの関心は 「お城のミロ様」 と 「ルビーの目の客人」 との双方に熱く注がれているのだった。

しばらくヌーベル・ネージュを歩かせていたカミュは道まで出ると馬から降りた。 今度は一人で歩き、ジロールを見つけてミロに自慢したくなったのだ。 手近な枝に手綱を結びつけて森の小道に入っていくと、馬上からでは気が付かなかった小さな虫や木のうろの中の名も知らぬキノコが見えて面白い。 ミロから、名前のわからないキノコにはけっして手を出してはいけないと言われているので律儀にそれを守ってジロール以外のキノコにはさわろうともしないのは堅実な性格をよく示していた。
分け入っていくとどこか遠くで人声がしたようだ。 とくに気にすることもなく歩いてゆくと、左手の繁みの向こうになにかがちらりと動くのが見えた。

   もしかしたら鹿かもしれない!
   森には鹿がいるとミロが言っていたし

自分ひとりで鹿を見つけた話をしたらミロがどんなに喜ぶだろうと考えたカミュが音を立てないように足元を確かめながら近付くと、何かがしきりに動く気配がしていよいよ期待が高まってくる。 息をひそめながらすぐ近くまで寄っていって太いニレの木の陰からそっと覗くと、それは鹿などではなかったのだ。
若い農夫が畑仕事の合間に娘と逢引をしている最中で、豊かな胸もあらわな女にのしかかっている裸の男の後ろ姿がカミュの目に飛び込んできた。 女の喘ぎ声と悩ましい姿態がカミュを驚愕させ、息が詰まり身体中の血が逆流する思いで思わず後ずさるとなにも考えられなくて来た道を駈け戻る。 日焼けした男の背中と真っ白い女の胸が目の前にちらついて眩暈を起こしそうだった。 無我夢中で 暗い森から日の差す道に飛び出したとたん、誰かに激しくぶつかった。
「あっ…!」
「なにをしているっ?!」
よろめいたところを誰かにいきなり腕をつかまれて恐怖がこみ上げてきた。 カミュを捕まえた手は力強くて逃れようもないのだ。
「は、離せっ!」
「ヌーベル・ネージュに乗っていたのは君か? いったい誰だ?」
思わぬところで他人の濡れ場を見てしまった羞恥がカミュを混乱させ、突然 見知らぬ男に腕をとらえられた恐怖をいや増した。 見てはならぬものを見てしまったことをとがめだてされているような気がして、相手の言うことなどとても耳に入るものではない。
「ミロ! ミロっ!!」
「ミロの知り合いか?おいっ、落ち着けっ!」
男がカミュの顔をのぞきこんだ。
「………なぜ目が赤い?! こいつは驚いた!」
「……サ…ガ?」
驚きのあまり思わず手を離した男の顔がサガそっくりで、カミュを瞠目させる。 これがカミュとカノンの初めての出会いだった。


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