その32 ド ラ ゴ ン ?
「ああ! アルベール伯の子息でミロの友人とは君のことか! 咄嗟のことで気付かなくて失礼をした。 カノン
・ スニオール ・ ド ・ トゥールーズだ。」
「いいえ、こちらこそ失礼をいたしました。」
当初の驚きから醒めた二人は互いの馬を歩ませながら話を続けている。 一つ違いのサガとカノンがあまりにもよく似ているので間違われることは数多く、そのことには慣れているカノンだが、カミュの紅い眼には正直言って驚かないわけにはいかないのだ。
「君のことはミロから聞いてはいたが、トゥールーズに来ているとは知らなかったのでね。
それにしても……」
カノンがちらとカミュに眼をやった。
信じられんほど紅いな!
ミロに聞いてはいたものの、この眼で見てもいまだに信じられん!
それになんと素晴らしい美貌だ! 目の紅いのが惜しまれる!
「なにか?」
「あ、いや………さっきは何かに驚いて森から飛び出してきたようだが、なにかあったのかな?」
「あの、それは……」
落ち着きを取り戻したかに見えたカミュが口ごもり、見る間に頬を染める。 艶やかな髪からのぞく耳朶までが濃い朱に染まり、どうしたのかとさし覗くカノンの視線に恥じらってうつむく様がただでさえ美しい面差しをますます魅惑的なものにした。
「蛇が……」
「蛇?」
「あの………大きい蛇がいて………ドラゴンかと思ったので驚いて…」
「ドラゴン…?」
カノンに問い返されてさらに困惑したカミュがますますうつむいてしまい、その困り果てた有様がカノンの気を惹いた。
紅い眼も驚きだが、この年になって蛇に驚くというのも珍しすぎる!
ドラゴンを持ち出すにいたっては、もはや珍しいを通り越して可愛いという範疇だろう!
ううむ、ミロの奴、いったいどこでこんな男を見つけたのだ?
今は三人の子に恵まれて安定した家庭を持ってはいるが、独り身のときには男女の別なく恋に遊んだこともある。 そのカノンの目から見てもカミュは並外れて美しすぎた。
いけないとは思うのだが、ついぞ忘れていた昔の血が疼き出す。
「トゥールーズには君をおびやかすようなドラゴンはいない。 安心してくれていい。
しかし……」
「……え?」
「もし万が一、ドラゴンが出たら私が君を守ってやろう。」
最初こそ紅い眼にあっと驚いたものの、男にあるまじき美貌と消え入らんばかりに恥じらう有様がまるで深窓の姫君のようでカノンを魅了する。 思わず衝動に駆られて手綱を持つ白い手を引き寄せようとしたとき、後ろから馬蹄の音が聞こえてきた。
「ミロ!」
振り返ったカミュが顔をほころばせ、その表情がカノンに一つの予感をさせた。
もしかして……!
「カノン! 来ていたのか!」
たちまち近付いてきたミロがソレイユを並ばせる。
「ああ、ついさっき着いたところだ。 家族と馬車で何日も旅をしていると無性に馬に乗りたくてね。 さっそく厩舎からこれを引き出してちょっと走らせていたらカミュと出会った。」
「では、もう自己紹介の必要はないな。 いま鹿狩りの話を聞いてきたところだ。 天気がよければ五日後にやるそうだ。」
「そいつは楽しみだ。 カミュ、君は鹿狩りの経験は?」
「まったく初めてです。」
「それならきっと楽しめるだろう。 詳しいことはミロに聞くといい。 では、私はこれで。
」
「夕食までには城に行く。 俺の屋敷に泊まってるんでね。」
「それも静かでいいだろう。 カミュ、君もトゥールーズを楽しんで呉れ給え。」
「はい、ありがとうございます。」
左右に分かれた後で振り返るとソレイユとヌーベル・ネージュが仲よく寄り添う後ろ姿が見えた。 馬上で談笑している有様が親密で、その気を起こしかけたカノンを苦笑させる。 他人にはわからなくても、こうしたことに経験を積んだカノンには二人の関係が手に取るようにわかるのだ。
やれやれ、ミロに先を越されていたか!
そういう趣味があったとは知らなかったが、あれほどの美形では無理もない
何年も前に付き合っていた男達の中でももっとも美しかったシャルル・アルベール・ド・リュイーヌとよく似ているが、今はルイ13世のお気に入りとなり飛ぶ鳥落とす勢いのリュイーヌが高慢になっているのに比べるとたったいま知り合ったばかりのカミュの清新さ、純粋さはいかにも好ましい。
「それに加えてドラゴンまで持ち出されてはミロが庇護したくなるのも当然だ。 ミロの奴、雛をかばう親鳥のような気分でいるに違いない。
身を固める前に知り合っていればほうってはおかないのだが、いかにも残念至極!」
城に向って馬を走らせるとブランコに打ち興じる子供達の笑い声が聞こえてきて、カノンを微笑ませた。
屋敷に戻り、グリモーにワインとシードルを持ってこさせたミロがそれぞれのグラスに赤と金の液体を注ぐ。
「ずいぶん赤い顔をしていたがなにかあったのか?」
「あの………」
森の中の光景を思い出したカミュがうつむいた。 金色のシードルがグラスの中で揺れている。
「まさか、カノンが何かした?」
「え?」
首を傾げる様子にはなんの後ろめたいところもなくてミロを密かに安堵させる。
結婚する前のカノンは男女を問わずアバンチュールに忙しく、7歳年下のミロにもその遊びっぷりがわかってしまうくらいの行状だったのだ。
しかし、その無軌道ぶりについに終止符が打たれる時がきた。 数多い恋の相手の一人だったシャルル・アルベール・ド・リュイーヌが国王ルイ13世の寵愛を受けることとなり、最初こそ争ったものの、噂を伝え聞いた父トゥールーズ伯とサガの二人に厳しく意見されついにカノンもこの機に身を固めることに同意したのである。
もとより女性にもひとかたならぬ愛情を注ぐことができたので、美しい夫人を得てからのカノンは三人の可愛い子供たちのいるよい家庭を築いている。
「カノンのせいでなければ、どうして顔があんなに赤かったのかな?」
「あの……実は……」
カミュの話はミロを呆れさせた。
「そんなものを見たのか! それは………」
笑い飛ばしたいところだが、当のカミュは真剣に困り果てている。 それはミロにしても他人の情事を目の当たりにしたことなどないが、このあたりの住民がそうしていても驚くことではないだろう。
「ええと………俺たちと違って彼らの家は小さいから、夜になってもそうそう気楽に過ごせないのだと思う。 一つ屋根の下のすぐ隣りの部屋に親兄弟がいたら、とても自由にはできないからな。 息をひそめて、というのもつらいだろう。 といって、夜に示し合わせて外に脱け出すのも難しい。 それならいっそのこと昼間に森の奥で、というほうが無難なのだろう。」
「ん………そう言われてみれば……それにしても、驚いた。」
「で、逃げ出して道まで出たとたんにカノンとぶつかったわけだ。」
「ともかく一刻も早くその場を離れたくて! ぶつかった拍子に腕をつかまれるし、頭の中には見た光景がぐるぐる渦を巻いてるし……!」
「パニックだな。 それはカノンも驚いただろう。 ほら、もう少し飲んだほうがいい。」
注がれたシードルを一口飲んだカミュがほっと溜め息をつく。
「なにかあったのか、と心配されたが、まさか本当のことは言えなくて、大きな蛇を見てドラゴンかと思って驚いた、と言い訳をした。」
「ドラゴンっ?!」
「いくらなんでも蛇を見たくらいで大慌てで逃げ出すのは恥かしすぎると思ったのでドラゴンのことも付け加えたのだが、よくなかったろうか?」
「いや、それは……」
う〜ん、カノンがどう思ったことか?
慣れている俺が聞いても呆れるんだからな………
まあいい、こんどカミュの生まれ育ちのことをよく説明しておこう
「カノンにも小さい子供がいるから、日頃の話題にドラゴンの話も出てくると思う。
気にすることはない。」
「それならよかった!」
シードルに頬を染めていたカミュが安堵の笑みを浮べ、見慣れているミロにもひときわ可愛さを思わせる。
この純粋さがカノンの目にどう映ったかがいささか気がかりだが、妻子を連れてトゥールーズに来ているカノンが何をするはずもない。
それにカノンは人のものに手を出すことは絶対にしない 立場があるからな
万が一 危ないと思ったら、俺たちの仲を仄めかせば済むことだ
すでに見抜かれているとは知らないミロはそこまで考えている。 この土地の娘たちがカミュに憧れている分にはなんの問題もないが、カミュの美貌に惹かれた男達が寄ってくるのは迷惑なのだ。
鹿狩りは楽しみだが、近在の貴族や郷士も数多くやってくる。 パリでは人目に付くようなことはなかったし、稀に人に会っても紅い眼が他人の干渉を妨げたが、ここトゥールーズでは受け入れられているだけにカミュの美貌が人の関心を惹く可能性は大きいのだ。
なあに、父上の威光と俺のガードで守ればいいさ
昼も夜も一緒にいるんだから、なんの危険もない
「夕食の時にはカノンの家族に紹介しよう。 とても可愛い子供達だ、すぐに仲よくなれると思う。 明日にはサガたちもやってくるはずだからもっと賑やかになる。」
「あの……」
「なに?」
「私はかくれんぼというものをした覚えがないのだけれど、一緒にやってみてもいいだろうか?」
「え? ああ、いいとも! 俺たちで子供たちと遊んでやろう!そのほうがサガもカノンも喜ぶだろう。」
いつも子供に囲まれているというのは幸せなことだが、時には夫婦で静かな時間を過ごしたいに違いない。 愛する対象を見つけたミロにはそれがよくわかるのだ。
ミロが声を落とした。
「実はトゥールーズには開かずの間というのがあって、言伝えではドラゴンが…」
「………え゛!」
身体を固くしたカミュが眼を見開いた。 ほんとにカミュは可愛いのだ。 くすっと笑ったミロが口付けていった。
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