その36  鹿 狩 り

鹿狩りを明日に控えてトゥールーズには続々と客が到着し始めた。 近在の者は当日の朝にやってくるが、遠方に住んでいる場合はそうもいかず、馬車や馬でやってきて用意された部屋に泊まって明日を待つ。
そうした新来の客と廊下でいきなり会って紅い目に恐れおののかれたら、というもっともな心配を考えたミロがカミュを連れ込んだのは、トゥールーズに到着したときに二人が泊まったあの部屋だ。 広い前庭が見渡せるので客の動きがよくわかる。
「ずいぶんと賑やかだ。 ああ、また馬車がやってきた。」
「鹿狩りは一大イベントだからな。 相当な経費がかかるので誰もができるというものではない。 トゥールーズの鹿狩りを楽しみにしている者は数多く、何年か前には王弟殿下ガストン・ドルレアン公が来たこともある。 」
「それはすごい!」
「ドルレアン公はリシュリューと仲がよくない。 同じくリシュリュー嫌いの国王と組んで、なんとかして失脚させようと策を練っているという噂だ。」
「リシュリューって、枢機卿の? あの護衛隊を設立した?」
パリの星猫亭で初めて正式にディスマルクとアイオリアに紹介されたとき、護衛隊のワルドがカミュを侮辱したために怒ったミロが決闘することになったのはいまだカミュの記憶に新しい。 あのときはどれほど心配したことか。
「ああ、そのリシュリュー枢機卿だ。 たいへんな切れ者で、敵に回すと恐ろしいが聖職者には珍しく政治的には凄腕で、国王よりも国家のことを重視するという噂だ。 そのリシュリューと反目しているドルレアン公と親しくしていると思われても面倒なので父は内心では迷惑していたのではないかと思う。 政治的には中立の立場でいたいが、これがなかなか難しい。」
そういった宮廷の政治的話題に無縁だったカミュは感心して聞くばかりである。
「でも、今年はそんな大物は来ないから気楽に楽しめる。 鹿狩りは無礼講だが、森の中で王弟殿下みたいな地位のある人物とばったり顔を合わせたら目礼して行きすぎるというわけにもいかないからな。」
「それは困る!」
そんなときの礼儀など、カミュには想像もつかない話だ。
「今夜は歓迎の夕食会で、明日は獲物の鹿肉で大晩餐会になる。 知らない顔ばかりで緊張するだろうから、早めに抜けて俺の屋敷に引き上げればいい。」
「ん……そうさせてもらえればありがたい。 勝手を言ってすまない。」
「気にすることはない。 どうせ酒も飲めないんだから、あとは酔っ払いに任せておけばいいさ。 子供たちは部屋で夕食を摂るし、ご婦人方もいつも早めに部屋に引き取るのが通例だ。」
そんな話をしながら寛いでいると夕食の時刻になった。 トゥールーズでは食卓の用意が出来上がると従僕が銀鈴を鳴らして廊下を回り、時刻を知らせて歩くのだ。 あらかじめ打ち合わせていた通りサガやカノンの子供たちと合流して食堂に降りたのは、初対面の客たちがカミュの紅い目に恐怖や嫌悪を持たないようにするための方策だった。
「客たちにはすでに説明してあるが、子供たちに賑やかに取り巻かれていれば警戒されることもないだろう。 食堂に行ったらすぐに父と母のところに行ってしばらく歓談していればあとはなにも心配することはない。」
ミロの友人としてトゥールーズの城に招かれているということがすでにカミュの身分保証に他ならないが、それでも初めて面と向かいあう客たちの驚きはかなりのものに違いない。 少しでもそれを和らげようとするミロの配慮がカミュの身に沁みる。
城の各部屋から三々五々集まってきた客たちは二十人ほどでみな一様にカミュの目に驚いたらしいが、ほかならぬトゥールーズ伯夫妻と親しげに話す様子に安堵したようだ。 夫妻によって紹介されたときには、カミュの優雅な物腰が婦人たちの頬を染めさせたことも一度や二度ではなかった。
「ほらね、大丈夫だ。」
ワインを飲みながら鴨のテリーヌをつつくミロが目配せをする。 内心ではかなり気にかけていたのだが、カミュもかなり世間慣れして初対面の客ともそつなく話ができたのだ。
「私はまだどきどきして………」
「この城にいる限り大船に乗った気でいたまえ。 トゥールーズの賓客なのだからなんの心配もない。」
カミュの隣でカノンが笑う。
「それに私の妻も君のファンだ。 自信を持っていい。」
「…え?」
カノンの向こうで美しい夫人が微笑んでカミュを赤面させた。

鹿狩りの日の朝は早い。
夜明け前からたくさんの使用人が起き出して厩舎や厨房で忙しく働き始める。 なにしろ客が多いので接待の準備におおわらわなのだ。 近郷の客が次々と到着し、その荷物を部屋に運び込んだり馬の世話をしたりするのも一仕事で目の回るような忙しさだ。
鹿狩りが催される一帯には何日も前から勢子が出て、鹿の群れの居場所を確かめては当日の人の配置の検討に余念がない。 これにはミロたちも加わって鹿を追い立てる手順や待ち構える場所、立ち入ってはいけない危険箇所は勢子頭から説明を受けて各々頭に入れてある。
「このごろはマスケット銃を使うのが流行りだが、トゥールーズでは昔ながらの弓で狩る。 銃なんて風情がないからな。 」
マスケット銃は銃士隊にも支給されており、それがために銃士隊というのだが、銃身が長くて重く、命中精度もよいとはいえぬ。
ミロの説明によると、弓を射るもの、つまり射手はあらかじめ鹿が走ってきそうな地点に間隔を置いて配置されてあり、よく訓練された猟犬が鹿を見つけて吠え立てると馬に乗っている追い手が犬と一緒になって一斉に鹿を追い立て、射手の待ち構えている場所に追い込むのである。
「そんなにうまくいくものだろうか? 鹿が見つからなかったり、違う方向に走っていってしまったら?」
「そういうことも有り得るが、万全を期して人手を集めて何日も前から群れの居場所を探り、今日に備えている。 それに、鹿は賢くて足が速いから逃げ切れると考えて野山の走りやすいところを選んで走る。 鹿の習性がわかっていれば、どこに逃げてくるかはだいたいわかるものだ。」
「馬で追いかけながら鹿を弓で射るのだと思っていたが。」
「う〜ん、そいつはまず無理だろう。 昔の戦闘なら命懸けでやったかもしれないが、十分に準備をしてかかる鹿狩りでそんな危険なことをする必要はないんだよ。 馬を走らせながら手綱を離して逃げる鹿に矢を射掛けるなんて有り得ない。 まず間違いなく落馬して命を落とすか大怪我をする。」
聞いてみないとわからないもので、鹿狩りのために勢子が百人、射手が二十人は必要だと言うのにはカミュも驚くばかりなのだ。
朝食を済ませると、厩舎から前庭に引き出されていたソレイユとヌーベル・ネージュを見つけて鼻づらを撫でてやる。 五十頭からの馬が集まっているのに少し興奮しているが、人参をやると軽くいなないて蹄で地面を掻いている。
「俺たちがいちばん経験が浅いから、無理をしないでみんなについていけばいい。 間違っても弓を射掛けられるようなところに立ち入ってはいけない。 射手のいる一帯に近づいたらそこで待機していれば、鹿を射止めた合図の角笛が鳴る。 それからみんなが一斉に集まって凱歌を上げるというわけだ。 いつも俺と一緒にいれば何の危険もない。」
「わかった。」
朝早くから集められていた二十頭ほどの猟犬はすでに森の方に連れられてゆき、勢子や射手もすでに配置についているので、前庭に集まっているのはミロとカミュたち大勢の馬に乗った追い手たちだ。 昨夜顔見知りになったばかりの客たちに囲まれたカミュが少し恥ずかしそうにしているところにミロも加わって鹿狩りの話を始めた。 婦人たちが少し離れたところから頬を染めてカミュを見ているのは、眼の色はともかく類まれな美貌に惹かれたものらしかった。
そろそろ時間だというので何台もの馬車に婦人と子供たちが乗り込み始めた。 足弱な者は鹿が追い立てられる場所をあらかじめ予想して馬車で出かけて待ち受けるのである。 小さい子供たちが興奮しているのを落ち着かせようと年上の男の子たちが躍起になっているのもカミュには面白い。
「カミュ様! 大きな鹿を捕まえられる?」
アンヌ=マリーが駆け寄ってきた。 たくさんの人が集まっているので興奮していて頬が赤い。
「みんなで頑張るからきっと捕まえられると思うよ。 応援してくれる?」
「はあい!」
「アンヌ=マリー、カミュだけでなく私にも応援してほしいね。」
「ミロおにいちゃまも頑張ってね! うまくいくようにほっぺにキスしてあげる!」
「おやおや!」
かがんだ二人の頬に柔らかい唇が押し当てられた。

森の奥で角笛が吹かれたのは犬が放たれた合図だ。 興奮していななきをあげる馬をなだめながら待つことしばし、犬の吠え立てる声が聞こえたのを合図に、気負いたつ男たちを乗せた馬に一斉に拍車がかかる。 森をめがけて走り出した五十頭あまりの馬蹄の響きがあたりを揺るがし、なにもかもが初めてのカミュは高揚せずにはいられない。 馬を走らせるルートも乗り手の技量に応じておのずから違い、木々の向こうに見え隠れしていたほかの追い手とは徐々に間隔があいてきた。
「この先の森を抜けて左手の丘に行こう!」
「ここで様子を見てから川に沿って下ればいい!」
ミロの的確な指示で鹿狩りは初体験のカミュもなんとか全体に遅れることなくついて行き、何回かは前方を矢のように横切る鹿を見た。
「ミロ! 鹿がいた!」
「見事な角の牡鹿だ! あいつを捕まえられたらいいんだが!」
ときどきは他の客たちの馬と一緒になったりしながら夢中になったカミュが鹿を追い立ててゆくと、ブナの林を抜けたあたりで前方に鮮やかに回りこんできたミロに馬を制された。
「ここから先は行くんじゃない! あとは射手に任せよう!」
「あ! もうそんなところまで?!」
弾む胸を押さえながら耳を済ませているとやがて合図の角笛が三度高らかに響き渡り、森のあちこちで歓声が上がる。
「うまくいったようだ! さあ、獲物を見に行こう!」
促されてどきどきしながらヌーベル・ネージュを先に進めたカミュが潅木の繁みを抜けたとき、突然飛来した矢が左肩を切り裂いた。
「カミュっ!」
艶やかな髪が宙を舞い、思わぬ衝撃に悲鳴を上げて落馬したカミュに駆け寄ったミロが慌てて抱き起こす。 矢を放った者が草叢を分けて近づいてくる気配に怒りをあらわにしたミロが振り向いたとき、弓を持った従者を従えて現われた馬上の男と目が合った。
「リシュリュー枢機卿!」
驚愕の声を上げたミロが腕の中のカミュをきつく抱きしめた。


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