その37 リ シ ュ リ ュ ー
枢機卿が馬を降りたのと同時に繁みを割って現れたのはカノンだった。 ミロたちと同じく角笛の音を聴いて鹿狩りの獲物を見に行こうと馬を走らせてきたカノンが見たものは、カミュを抱きかかえたミロとそのそばに屈み込む年配の男だ。赤いマントには気付いたがそれがまさか枢機卿のものだとわかる筈もない。
「ミロ!なにがあった?!」
「カミュが……落馬した!」
「待っていろ!すぐに馬車を呼んでくる!
即座に馬首を返したカノンが駆け去ってゆき、リシュリューは矢で射られたことに触れなかったミロの咄嗟の判断にひそかに感嘆した。
「すまぬことをした! 傷は…?」
「左肩を…!」
ミロが答えるや否や、リシュリューの細くて長い指があっという間にカミュの服の合わせ目を開き、白い肩があらわになった。
指の長さ半分ほどにえぐられて血が滲んでいるが、幸い 傷は浅い。 内ポケットから白麻のハンカチを引き出したリシュリューが傷口に当てたとき、呻き声を上げたカミュが目を開いた。
「あっ…!」
リシュリューが息を飲む。 ルビーのように澄んだ瞳はすぐに閉じられた。
「ミロ、枢機卿が見舞いをしたいとのことだが様子はどうだ?」
「今は目が覚めています。 どうぞ、とお伝えください。」
扉を開けて入って来たのはミロの父トゥールーズ伯だ。 侍僕任せにせず自分でやってきたのは、このことを表沙汰にしたくないとの意向の現われである。
「枢機卿はお前が矢のことに言及しなかったことに感謝している。 よい判断だった。」
「はい。」
扉口で小声で交わされた会話はカミュの耳には届かない。 トゥールーズ伯が出てゆき、ミロはベッドのそばに戻ってきた。
「リシュリューが見舞いに来るそうだ。」
「枢機卿がわざわざ?」
「お前に矢傷を負わせたんだから当然だな。 運が悪ければ首や心臓を射抜かれて死んでいたかもしれん!まったく冗談じゃない!」
少し乱れていた髪をかきやったミロが白い額に軽い口付けを贈る。
パリを離れていたミロたちは知らぬことだったが、フランス南岸の港湾の防備を視察に出かけたリシュリューはパリを南下してリヨンからマルセイユへの東寄りの街道を数日で駆け抜けたあと幾つかの主要な港を風のように見てまわり、護岸や守備の手薄な箇所への補強を指示した後で、帰路にはやや西寄りのコースを北上してパリに戻ろうと最初に立ち寄ったのがトゥールーズだったのだ。
リシュリュー一行が城へ立ち寄ったのは全員が鹿狩りに出払ったあとで、残っていた者からトゥールーズ伯のいる辺りを聞き出して森を抜けている途中でカミュを鹿と勘違いした従者が誤って矢を放ってしまったのだ。
「勘違いにもほどがある! そんな迂闊なことであのリシュリューの従者をやっていられるとは信じられん!
」
「そんなに怒らないで。 ともかくたいした怪我ではなかったのだから。」
「肩を掠めただけで済んだのは偶然だ。 落馬したのが柔らかい草地だったから骨折もせずに済んだが、いくら枢機卿だからって、他人の領地だぜ!
勝手に来て、鹿狩りのルールも知らない従者がお前に矢を射るなんて!」
「それはそうだけれど………あの、それから枢機卿には私の眼のことは?」
「そのことならもう言ってある。 というより、お前が落馬したあとで眼を開けたのでとっくに見られているんだが。」
「え………そうなのか?」
「だいぶ驚いたみたいだが、あのときは怪我の方が重大だったからな。 説明したのは城に戻ってからだ。 それにしてもけしからん!」
一向に怒りのおさまらない気配にカミュが困っていると扉を叩く音がした。
「おっと、御入来だ。 それから、枢機卿のことは猊下 (げいか) と呼ぶように。」
「猊下?」
「聖職者の最高の地位にある者をそう呼ぶんだよ。」
言い含めたところに枢機卿と伯爵が入ってきた。 先に立つリシュリューはきれいに手入れされたあごひげと口ひげを持つ鷲鼻の背の高い40を過ぎたくらいの年配で、枢機卿のみに許された真紅の帽子と法衣を身につけている。
冷徹にして峻厳、鋭い眼光で人を射すくめ、鉄の爪を持つとも恐れられる大政治家リシュリューだが、あえてそこまで教えることはないと考えたミロがなにも言わなかったのでカミュの眼からは政治家というよりも聖職者と見えたに違いない。
「アルマン・ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリューだ。 アルベール君、怪我の様子はどうかね? 森の中ではたいへんに申し訳ないことをした。
ああ、起きなくていいからそのままで。」
声をかけながらまっすぐにベッドに近寄ってきたリシュリューは、国王とともにフランス一国を支配する最重要人物とは思えない気さくさだ。
「わざわざ恐れ入ります、猊下。 今回のことは運が悪かっただけですし、落馬したのも私が未熟だっただけの話ですから。」
「いやいや、私が悪かったのだ。 君には私にできる最大限の償いをさせて欲しい。
聞くところによるとまだ爵位を得ていないようだから、パリに戻ったらすぐに子爵に叙しようと思うがどうかな?
ほかにもなにか望みがあれば、何なりと叶えてあげられるが。」
横で聞いているミロのほうがどぎまぎしてしまうほどの寛大な申し出だ。 アルベール伯はカミュに何の爵位もないことを気にかけており、何とかしなくてはと思っているようなのだが、今まで一切社交界にも出ずに存在を知られていなかった身で今さら叙位の申請をするのもどうかと二の足を踏んでいる気配がある。
それならミロが父に頼めば後押しは出来ると踏んではいるが、時の権力者のリシュリュー枢機卿のお声掛かりなら誰からも文句の出ようはずはない。 しかしカミュの考えはそれとは大きく異なっていた。
「猊下にそのようにおっしゃっていただきまして恐縮です。 それではあの、もしよろしければ………」
カミュが言葉を濁したので伯爵もミロもドキッとする。 噂に聞くリシュリューはてきぱきとことを運ぶのを好むのだ。
しかし今日のリシュリューには負い目があったためか、いらだつ素振りなど微塵もない。
「なにかね? なんでも言ってみたまえ。」
こんなやさしい口調を宮廷の執務室で披露しようものなら、いつもピリピリしている側近たちは耳を疑ったに違いない。
峻厳でならしている枢機卿にはおよそふさわしくない柔和な語りかけなのだ。
「できましたら、矢を放った人になんのお咎めもないようにお願いしたいのですが。
私が落馬さえしなければこんな大ごとにはなりませんでしたし、そのようにお計らいくださいましたら嬉しいと思います。」
「なんと…!」
これには枢機卿も驚いた。 なんとかして権力に取り入って甘い汁を吸おうと追従、巧言に走る輩が多い時勢だというのにカミュのこの私欲のなさは稀に見るものであった。
「それは気がつかなかった。 よろしい、君の言うとおりにするとしよう。」
莞爾として微笑んだ枢機卿はミロに向き直ると、
「子爵、よい友達は宝だ。 大事にするがいい。 それから…」
真面目くさった顔でこう付け加えた。
「いくら友達のためでも決闘は目立たないようにやり給え。 そのほうがどちらにも都合がよいというものだ。」
「は……これからは心がけます。」
「ではのちほど晩餐会でお目にかかろう。」
そう言うと枢機卿は伯爵とともに部屋を出て行った。 短いが実りある会見が終わり、さすがに緊張の解けたミロが大きく息をつく。
「ミロ………枢機卿はあの決闘のことを知っているということだろうか?」
「どうやらそうらしいな。 リシュリューの情報網はフランス一だという噂は本当のようだ。」
「伯爵はご存じないようだったけれど、あとでなにかおっしゃるだろうか?」
リシュリューが決闘のことに言及したときの伯爵の様子はカミュも気がついていた。 眉をピクリと上げてちらりとミロを見たのはあとで問いただそうと考えているに違いなかった。
「父も若いときには決闘の五回や十回はやっている。 お叱りはないだろうが、まさかリシュリューに面と向かって言われるとは思わなかったな。 いや、驚いたよ。」
「でも、決闘はいけないとはおっしゃらなかった。」
「それが、決闘禁止令を出したのはリシュリューだ。」
「えっ!」
「形式上は国王の発布だが実際の発案推進はリシュリューだよ。 貴族の数が減っては困るからな。」
「そうなのか!」
「噂通りのたいした人物だよ、太っ腹だ。 さて、あと一時間ほどで晩餐会だがどうする? 肩の傷はたしかにたいしたことはなかったが、打ち身はまだ響くだろう。 リシュリューにああ言われたからといって無理をすることはない。」
「このくらいなら大丈夫だろう。 顔を出さねば列席の方々に余計なご心配をかけることになるし、鹿狩りの成果も味わってみたい。」
ミロの手を借りて立ち上がってみると、少し腰が痛いものの困るというほどではない。
「ほら、やっぱり大丈夫だ。」
「命拾いしたな。 頭も打たなかったし、このくらいですんでよかった!」
「伯爵にもご迷惑をかけた。」
「気にするな。 お前がなんと言おうと悪いのはあっちだからな。 ただし、真相を知っているのは父とサガとカノンだけだ。
リシュリューの失策をここに来ている人間が知ったら一週間のうちには国中に広がり枢機卿の面目は丸つぶれだ。 どう考えてもいいことはない。
」
馬車を呼びに行ったカノンもすでに女子供が降りていて空になっている自分の馬車の御者を降ろして自分で馬車を駆ってきたのだ。
カミュが落馬して怪我をしたという話は一同が城に引き上げてきてからようやく広まったことで、誰もそれに枢機卿がかかわり合ったということには気付いていない。 鹿狩りの日に突然枢機卿が現われたことに驚愕して、なんとかして知遇を得ようと機会をうかがっているのだ。
「鹿肉は初めてだろう? 気に入るといいんだが。」
「ずっと寝ていていささか空腹だ。 ステーキを所望する。」
「任せてくれ。 最上のを幾切れでも進呈しよう。 でもその前に…」
心のこもったキスが進呈されて白い頬が染まる。
「こんな昼間から……」
「大丈夫! 枢機卿の情報網はフランス一だというが俺たちのことは知られてないさ。」
「ん……」
きっと、知られてない! うん、大丈夫だ!
もう一度重ねた唇はどこまでもやわらかい。
たしかに恋仲とまでは知られてないが、相手の名誉を守るためなら命も賭けるほどの仲であることはとっくにわかられているのだった。
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