その38 晩 餐 会
鹿狩りのときの晩餐会は普段は使われていない大食堂で開かれる。 今までは家族の使う小食堂しか知らなかったカミュには初めての体験だ。もっとも、小食堂といってもサン・トレノ街の屋敷に比べたら格段に広いのだが。
「ただでさえこんなに客が来て忙しいのに、突然枢機卿が来たのだから、ますます気を使ってたいへんだろう?」
「いや、そうでもないだろう。 リシュリューの相手をするのは殆ど父だけだが、宮廷では何度も会って喋ってるはずだし、リシュリューもこんな田舎の鹿狩りに来てまで政治的な話をするとは思えない。 当たり障りのない話に終始するはずだ。」
肩の傷にさわらないようにとカミュにそっと上着を着せ掛けているミロはぴったりした瑠璃色の上着を着込み、襟元の手の込んだレースが洒落ている。
鏡の中のミロを見てそっと頬を染めているカミュは自分がミロからどう見られているか気付いていないらしいのだが、金茶の絹地に同色の手の込んだ刺繍を施した衣装はカミュにたいそう似合っていてミロを惚れ惚れとさせていた。
「この人数では晩餐会の料理の用意も大変なことだろう。」
「こういった大掛かりな晩餐会のときは村の女たちが何人も手伝いに来る。 みんな料理人の家族だから気心が知れてるし、年に何度かはお偉方が来るのでなれたものだよ。
ほら、サッシュを結んで。」
ミロが焦茶のサッシュを手渡した。
「昔から鹿狩りの料理は洗練よりも野趣をモットーにするというのがトゥールーズの伝統だ。
普通のときならリシュリューに気を使って特に洒落た料理を出したかもしれないが、いつもの鹿狩りときと同じだよ。
ナイフもこの前新調したばかりだからリシュリューの気に入るだろう。」
「気に入るって、 ナイフがなにか?」
「セギエ司法卿が食事のときに歯に挟まったものをナイフの先でほじるのが癖で、それを嫌ったリシュリューが、ナイフの先は丸くすべし、って法律を作ったんだよ。 先が丸ければ、ナイフをそんな目的に使えないからな。
冗談のようだが本当の話だ。」
「えっ! 枢機卿と一緒に食事をするような地位の人間が、そんな無作法なことを?」
「地位と作法は必ずしも比例しないっていう好例だな。 父もそういうのは好かないので、さっそく城とパリの屋敷のカトラリーを全部入れ換えた。」
そういえばカミュの屋敷でも最近新しいカトラリーに変わっていたが、理由を考えることもなく毎日食事をしていただけだ。
もしもミロと会ってからのことだったらそのことが話題にのぼったのは確実で、カミュも少しはリシュリュー枢機卿のことを知っていただろう。
襟のレースを直したミロが頷いた。
「さあ、できた! 女と違って化粧がないから簡単だ。 もっともお前が化粧をしたらそこらへんの女以上になって余計な嫉妬を買うだろうな。」
「まさか、そんなこと!」
真っ赤になったカミュをミロが引き寄せた。
「ほんとに女じゃなくて残念だ。 もし女だったらとっくに申し込んで結婚してる。
誰にも渡さない。」
「あ…」
柔らかい抱擁と甘いキスが与えられた。 パリとは違い、ここトゥールーズではミロはこうしたことにさして遠慮をしない。 勝手知ったるトゥールーズでの振舞いはそうとうに大胆でカミュをドキドキさせる。
「う〜ん、晩餐会の前から赤い顔じゃまずかったかな?」
「ほんとにミロ………私は困るから…」
「でも女じゃなくてよかったこともある。」
「え?」
くすっと笑ったミロが紅い唇の端をつつく。
「キスしても口紅がついたりしない。」
「ん…」
「さあ、行こう!リシュリューは時間に正確なのが好みだ。」
ミロがドアを開けた。
晩餐会は夕方の6時から始まった。 夏のことなのでまだ十分に明るいが、宴たけなわになるころにはたくさんの燭台に灯がともされることになっていた。 この時代の白い蝋燭はたいへんに高価なもので、それを贅沢に使うことが財力の証しとなっている。
何列も並べられている食卓の正面中央がリシュリュー枢機卿の席で、両隣をトゥールーズ伯夫妻が占め、ほかに高い地位の出席者がいないのでその近くを家族が囲むようになっていた。
「えっ! 私がここに?」
カミュが驚くのももっともで、枢機卿の真向かいが自分の席になっている。
「ふうん、こいつは驚いた!」
控えていたグリモーを呼んだミロが聞き出したところによると、この配置は枢機卿の希望によるものだというのだ。
「どうして枢機卿が私を?」
「う〜ん、さしずめお前のことに興味を持ったか、とんだ迷惑をかけた詫びのつもりということも考えられる。
なにしろフランス第二の実力者だから知遇を得たいと思っているものは掃いて捨てるほどいる。いや、実力的には第一かもしれないが。
リシュリューに声をかけてもらいたいと思っている人間は数多い。」
カミュには言わなかったが、おそらくリシュリューは世にも珍しい紅い目をよく見たいのかもしれないとミロは思う。
知識欲旺盛なリシュリューがマナーを逸脱しない範囲でカミュの目を見るにはもっとも効果的な方法だ。
「でも、なにか話しかけられたらなんと言えばいいのか自信がないが。」
「なに、そんなに難しいことは聞かないだろう。 今まで宮廷にお前が出ていないことはわかりきってるし、その理由もリシュリューは知っている。
父の客人としてこの城に来ているお前が困るような話をすればトゥールーズに反感をいだかせるようなものだから、そんなことをするはずもない。 むしろリシュリューは、あの事件のこともあり、お前に好感を与えようと振舞うはずだ。 むろん、父や母もすぐそばにいるんだからそんなに心配をする必要はない。 初めての鹿狩りでとんでもないアクシデントがあったが、せめて晩餐会は楽しんで欲しい。」
そう言われて頷いて、ドキドキしながらミロと並んで座っているとやがて全員が席に着き、すぐに枢機卿とトゥールーズ伯夫妻が姿を現わした。
一斉に起立したのに合わせてカミュも立ち上がる。こんな大人数の集う席に連なるのは初めてで胸が高鳴るのを抑えるのは難しい。
ワインの栓が抜かれ各自のグラスに注がれた。
「フランスと国王陛下の御世に栄えあれ!」
トゥールーズ伯に合わせて一同が声高く唱和し、一斉にワインが飲み干される。
晩餐会が始まった。
百名を越す大人数が一斉に正餐を摂るというのはカミュには初めての経験だ。
パリの宮廷というわけでなく、鹿狩りの饗宴なのだからそれほど肩肘は張らないのだが、なにしろ目の前があの枢機卿だ。 鹿肉のステーキを前にして緊張しないではいられない。
ドキドキしながらミロの隣でナイフを使っていると、トゥールーズ伯と鹿狩りの話をしていたリシュリューがカミュに話しかけてきた。
「ところで、パリを離れたのは初めてだと聞くが、トゥールーズの印象はどうかな?」
「あ……はい、とてもきれいで森も美しくてよいところだと思っています。」
「存分に楽しむとよい。 田舎の空気は人を健康にする。 できるものなら私も引退して田舎暮らしをしたいものだが、まだまだ情勢がそれを許さなくてね。」
「猊下にそのようにおっしゃられてはフランスが困ります。 ぜひとも陛下のおそばで引き続きお力をふるっていただきたいものですな。」
政治的な話題になりそうなのを察知したトゥールーズ伯が話を継いだ。 たしかにカミュにはこの手の話は荷が重いだろう。
「うむ、まだパレ・カルディナルを離れるわけにはいくまい。 ところで、アルベール君はトゥールーズにいつまで滞在しているのかね?」
「あ、はい、あと半月ほどの予定です。」
「それではパリに戻ったらパレ・カルディナルに遊びに来るといい。 一人ではさびしかろうから子爵と一緒に来たまえ。
」
「どうもありがとうございます。」
「ご配慮いただきまして恐れ入ります。 ではパリに戻りましたら、ご都合のよろしい日にお伺いいたします。」
にっこりと微笑んだミロがそつなく答えたところに次の料理の皿が運ばれて、あらたにグラスが満たされた。
それを機に再び伯爵夫妻と鹿狩りの話が始まり、カミュはほっと胸をなでおろしたが、ミロのほうはこの驚くべき招待の真意を探るのに忙しい。
これは驚いた! こともあろうにリシュリュー本人から招かれるとは!
そこまでカミュに興味を持ったのか?
それとも、怪我をさせたための単なる贖罪か?
リシュリューの居館パレ・カルディナルは第二の宮廷とも呼ばれており、国王ルイ13世に負けるとも劣らないほどの威勢を示していることはよく知られている。
知らない者は、おそらく招待を受けたカミュくらいのものだろう。
少しでも宮廷に出入りするものならば喉から手が出るほど渇望しているリシュリューからの招待を受けたのが、これまで一切の社交から遠ざかっていたカミュであるのが驚きだ。 それも人を介してではなく、リシュリュー本人から直々に招かれるとは滅多にあることではない。
もしかしてこれがカミュを政治に巻き込むことになりはしないかと、にこやかな会話を心がけながらミロは忙しく考えをめぐらせる。
外が暗くなってきたのに合わせてたくさんの使用人が蝋燭に火をつけて回り始め、ほのかなオレンジ色の明かりが揺らめいて卓上の銀のカトラリーやグラスを華やかにきらめかせる。
カミュの興奮とミロの思惑をよそに、宴は一層の盛り上がりを見せていった。
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