その39  決 意

トゥールーズに泊まったリシュリューは機嫌よくパリへと帰って行った。 むろん途中の要所要所で河川の堤防や橋の状況を確認しつつ、有力な貴族の城に泊まって否応なしに歓待させ枢機卿の権威を再認識させるという無駄のない行程だ。
「ではこれで失礼をする、伯爵。 噂に聞くトゥールーズの鹿狩りは実に素晴らしかった! 国王陛下にお見せできなかったのが残念だ。」
「お褒めに預かり光栄です。」
「子爵、アルベール君と必ず来てくれたまえ。 楽しみにしている。」
「必ずお伺いいたしましょう。」
愛想を振り撒いてトゥールーズの人々に別れを告げた枢機卿は、わずか数人の供を連れ、街道を遠ざかって行った。 赤いマントの後姿がやがて小さな点になる。
「やれやれ、無事に終わったな。」
「アクシデントがあったが、大事に至らなくて幸いだった。」
カノンとミロがほっとしているそばで、朝から正装をさせられていた子供たちが
「お母様、もういいの?」
と催促をする。
「それでは少し早いですけれど、10時のお茶をいただきませんこと? 子供たちもいいお行儀ができましたから、甘いお菓子はいかが? 今日はシュー・ア・ラ・クレームですよ。」
「わぁっ!」
歓声があがり子供らしい笑顔が広がった。
「カミュ様も一緒に行きましょ! アンヌ・マリーのお隣りに座って!」
「いつもアンヌ・マリーばっかり!今日は私の隣りよ!」
カノンの次女のセレスティーヌが負けじとカミュの手を引いた。 長女のカロリーヌは恥ずかしさのわかる年頃で頬を染めて見ているだけだ。
「それでは右がアンヌ・マリー、左がセレスティーヌでどうかな? カロリーヌとは午後のお茶のときにご一緒しよう。」
両手を引っ張られたカミュが笑い出す。
「ミロ、ちょっと話がある。」
カノンが目くばせをした。
「カミュ、先に行っててくれ。」
子供たちに取り囲まれているカミュに合図をしたミロは難しい顔をしているカノンと撞球室に入った。

「ミロ、リシュリューの招待をどう思う?」
「真意が読めない。 たしかに矢を射かけたのはとんだ失態だが、わざわざパレ・カルディナルに呼ぶほどのことはないだろう。 私的に見舞いを受けて、頼みもしないのに叙位を約束され、望みはなんでも叶えよう、とまで言われているし、さらに晩餐会で正面の席を指定されて親しく声をかけられたというに至ってはまさに過分の扱いだ。 なぜ、そんなにカミュのことを気にかける必要がある?」
このことについてはミロも気にかかっていたのだが、カノンに言われて改めて不安が募る。 世間を知らないカミュは枢機卿からの思いがけない招待に興奮しているだけだが、ミロのほうはそうはいかない。 昨夜も晩餐会がはねたあと城を辞去して屋敷に戻り、いつものようにカミュを抱いたのはいいが、どうしてもこの招待のことを考えて落ちつかなかったのだ。 カミュが腕の中で眠ったあともなかなか眠れなかったというのが実態だ。
「いいか、これは推測に過ぎないからそのつもりで聞け。 お前、リュイーヌを知っているか? シャルル・アルベール・ド・リュイーヌだ。」
ミロがさっと青ざめた。
「むろん知っている。 やはり関係あると思うのか?」
カノンが頷いた。
「リュイーヌは国王の寵臣といえば聞こえはいいが、要するに公然たる愛人だ。 最初のころは控え目だったが、王寵に馴れたこのごろでは政治にも口を出し始め、その増長ぶりは目に余る。 そのリュイーヌとカミュは似てる。」
目が紅いために人前には一切出てこなかったカミュだが、ひとたびミロの手によって限定された場所ではあっても世間の風に触れたからには噂になることは覚悟しなければならぬ。 目が紅いことは人を遠ざけもするが、一方では人目を引いて好奇の目で見られることも覚悟しなければならなかった。
「似ているとは思ったが、まさか……王の気を惹くほどに似ているというのか?」
嫌な想像だった。 万が一国王ルイ13世の声がかかろうものなら断ることは不可能だ。
「お前も知っているだろうから包み隠さず言うが、俺とリュイーヌは恋人だった。 お互いに燃え上がっているさなかに国王から声がかかり、いろいろあった揚げ句にリュイーヌはルイの寵愛を受ける身となって今に至る。」
知ってはいたがカノンの口から聞くのは初めてで、ミロの頬に血が昇る。
「だからリュイーヌのことなら隅から隅まで知っている。 今は権威をかさにきて鼻持ちならないが、あいつも最初のころは純情だった。 むろんカミュほどではないがそこが魅力だった。」
そのときドアが開き、グリモーが顔を覗かせた。
「こちらにおいででしたか。 奥様がお茶はいかがなさいますか、とおっしゃっておいでですが。」
「これからミロと一勝負やるからどうぞお先に、とお伝えしてくれ。」
壁に掛かっていたキュー (ビリヤードのスティック) を手にしたカノンがそう言ってグリモーを追い払った。 ミロも手ごろな一本を持つ。
「ルイがカミュに関心を持つ可能性があると思うか?」
「関心を持つのは間違いない。 ルイにカミュのことを教える誰かは、リュイーヌ公に瓜二つの男がおります、と言うのだからな。 会ってみたいのが人情だ。」
カノンの突いたボールが的玉を一つポケットに落としてから正確に跳ね返って好位置のラインで静止した。
「問題は、はたして実際に会ったときにあの目の色をどう思うかだが、そこのところは俺にはわからない。 いくら顔が似ていてもあの目を不快だと思ったら早々に接見は終わるだろうし、なんのこともない。 数ある貴族には変わり者がいるのだな、という印象を持つだけで実害はないだろう。 しかし、俺やお前が思ったように、ルビーのようにきれいだと感じたら…」
慎重に狙いをつけた筈のミロのボールははずれ、不利な場所で止まった。
「第二のリュイーヌになるというのか?」
平静を心掛けようとしても声がかすれた。 キューを持つ手が汗ばんでくる。
「ルイがスペインからやってきた王妃にはろくに関心を示さず男色に明け暮れていることは公然の秘密だ。 そのために王妃の憂いは深く、外交的にもよくない影響を及ぼしている。 ルイの心が一日も早くリュイーヌから離れて王妃との間に世継ぎを設けることを望む声は日に日に高まっているのに、肝心の王にはそれがわかっていない。」
カノンの球筋は正確で、狙い通りにボールが隅のポケットに落ちていった。
「むろん枢機卿はリュイーヌを快く思っていない。 世継ぎが生まれなければ次の国王は王弟ガストン・ドルレアン公だが、ドルレアン公のリシュリュー嫌いは有名だ。 陰謀を企ててばかりいる性格もフランス国王に向いてないことは明らかだ。 ここはなんとしてでもルイに世継ぎが生まれなければ、フランスにもリシュリューにも不利益だ。 だからリシュリューは絶対にカミュをルイには渡さない。 言い方は悪いが、カミュを押さえておけば自己の保身に繋がるということだ。」
「するとカミュをパレ・ロワイヤルに呼んだのは…」
「矢を射掛けた詫びと紅い目の物珍しさだけでは説明がつかない。 ここはやはりカミュを自分の手中に引き入れるためと見るのが妥当だろう。 国王がカミュに夢中になろうものならますます世継ぎの生まれる可能性は低くなる。」
「思いっきり政争の真っ只中ということか。」
ミロがスティックを壁に戻した。 とてもその気分ではない。
「そういうことだ。 しかし、悪いほうにばかり取るのはよせ。 もしもルイがカミュに関心を持とうとすれば、必ずリシュリューが阻止をする。 といってリシュリューに男色の趣味はない。 聖職者だからそっちのほうはやらないし、強いて言えば自分の姪と噂があるくらいのものだがそれも事実ではないだろう。 リシュリューの日常はきわめて謹厳で、他人ばかりでなく自己にも厳しいとのもっぱらの噂だ。 リシュリューの頭の中にあるのはいかにフランスの威信を高めヨーロッパで最強の国家に押し上げるかということだ。 そのためには人並み優れた国王でなくてはならん。 いつまでも男色に走っているようでは国家の権威は保てない。」
「リシュリューはカミュをどうすると思う?」
「どうもしないだろうが、誰の目にもリシュリューの息がかかっていると思わせるようにするだろうな。 具体的にはわからんが。 ルイもリシュリューの機嫌を損ねてまでカミュを自分のものにしようとはしないだろう。 ルイはリシュリューに頼りきってる。 リシュリューあってのフランスだ。 ともかくルイから声がかかる前に一刻も早くリシュリューに会いに行け。 パリに戻ったらアルベール邸に戻るよりもまずパレ・カルディナルだ。 もしも留守の間にアルベール邸に宮廷からの招待状が来ていたらまずいことになる。 カミュがそれを手にしてからでは間に合わない。 その前にリシュリューとの密接な関係を作ることだ。」
「わかった。」
悔しくも語尾が震えた。 屋敷に閉じこもっていたカミュを世間に引き出そうとしたのは大きな間違いだったのだろうか。 もし万が一、国王がカミュに興味を持って寵愛するようなことになったらと思うと、心臓が締め付けられるようでとても平静ではいられない。 今までに経験したことのない不安と恐怖がミロを襲い、とても立っていられなくて手近の椅子に座らざるを得なかった。
「カノンの言う通りだ。 カミュだけではなにも判断ができないだろう。 ただでさえ世間のことを知らないのに相手は国王だ。 俺たちみたいに批判精神がある者でも面と向かっては何一つ反論できないんだから、ルイから声がかかれば抵抗することもできずにされるがままになることは目に見えている。 気に入られたらおしまいだ。」
引き止められている宮廷から息子を連れ帰ろうにもアルベール家にはそれほどの力がない。 宮廷の誰に助けを求めても、現に国王の寵愛を受けてしまったいたら誰の意見も通らない。 いや、王の怒りに触れるのを恐れて誰も口出ししないだろう。 宮廷とはそういうものだ。 里帰りすら許されずに日に日に衰弱していくカミュが目に見えるようでミロは色を失った。
ミロに愛されることしか知らないカミュに国王がなにをしてカミュがそれにどう応えるか、考えるだけでも恐ろしい。 無垢なカミュ、この世の穢れをなにも知らないカミュが大きな渦に巻き込まれようとしているのだ。
リュイーヌとは違い、権力にはなんら関心を持たないだろうカミュの純粋さを王が愛でて手元から離さないかもしれないし、あるいは望まぬ境遇に泣いてばかりのカミュに飽きた王がじきに捨て去ることも考えられる。 どちらにしてもカミュは傷つきひどい痛手を受けることは明らかだった。
「いいか、リシュリューの力を借りてカミュを守れ。 リシュリューはそのつもりでカミュをパレ・カルディナルに呼んでいる。 トゥールーズでリシュリューとの繋がりができたことは幸運だった。 しっかりカミュを捕まえて手から離すんじゃない。」
カノンの真摯な口調にミロが蒼ざめた顔を上げた。
「ありがとう、やってみる………だが、どうしてそんなに心配してくれる?」
「それは…」
カノンがちょっと照れたような笑みを見せた。
「俺もカミュが好きだからだ。」
「えっ…」
「だが心配するな。 その気を起こしかけたとたん、お前が現れてすぐに恋人同士だとわかったよ。 それも極上のいい関係じゃないか。」
「う……」
「目の紅さは気になるが、そのほかの点ではカミュははるかにリュイーヌにまさる。 とくにあの性格は………うん、お前の見る目は確かだよ。 俺が先に会っていたらそのままにはしておかなかったんだが惜しいことをした!」
なにを思い出したのか、カノンがくすくすと笑った。
「カミュを大事にしてやれ。 いや、こんなことを改めて俺が言わなくてもお前にはよくわかっているだろうが。 ともかくルイには渡すな! カミュはお前といるときがいちばん幸せなんだよ。」
「わかった!」
真っ赤になったミロが頷いた。
「カミュを世間に出したのは俺の責任だ。 だから命を懸けてカミュを守る!」
「その意気だ!さあ、俺たちもお茶の時間にするか。 ところで…」
「え?」
立ち上がったミロをカノンがぐいっと引き寄せた。
「この件が無事に片付いて落ち着いたら、カミュとの馴れ初めを教えてもらおうか。 ハンカチを拾ってやったなんて女子供にしか通用しない話は聞いてもいられない。 正直に白状したら、特別な愛し方を教えてやらんものでもない。」
「そんなことはっ…!」
「遠慮はするな。 サガと違って俺は話がわかるんだよ。」
この兄には敵わない。 
笑いながら歩いてゆくと、廊下の先の食堂からカミュと子供たちの明るい声が響いてきた。


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