その40 パ レ・カ ル デ ィ ナ ル
「このごろ難しい顔をしてるけれど、なにか困ったことでも?」
「え?そんなことはないが。 しいて言えばパレ・カルディナルでお前が迷子にならないかと心配で。」
「まさか!」
「いや、あそこは建物も庭も呆れ返るほど広い。 リシュリューが贅を尽くしたんだから当然だが。」
「ではよく気をつけよう。」
「俺から離れなければ大丈夫だよ。」
笑いながらミロはカミュを抱きしめた。
国王などに渡してなるものか!
そんなことになったらカミュは……
「ミロ………苦しいから…」
「あ、すまない。 トゥールーズの夜もこれで最後だと思うとつい力が入った。」
「ん……」
嫌な予想を振り払ったミロが頬を染めたカミュに唇を寄せた。
トゥールーズでの夏はまたたくまに過ぎて、ついにパリへ帰る朝がやってきた。
「ほんとうにお世話になりました。 素晴らしい夏を過ごさせていただきましてありがとうございます。」
「こちらもとても楽しかった。 また来てくれ給え。」
「この次はお姉さま方と一緒にいらしてくださいな。お待ちしてますわ。」
トゥールーズ伯夫妻と親密な挨拶をし、さて馬車に乗ろうと振り返ると今度はサガとカノンの可愛い子供たちに取り囲まれてさんざん抱きつかれたカミュが困っているのがミロには面白い。
「ほらほら、またパリで会えるから!」
「きっと遊びに来てね! 約束よ!」
「僕も約束!」
「私も!」
幾つもの指切りをしてからやっと解放されて馬車に乗り込んだカミュの頬が赤い。
トゥールーズの夏は世間を知らなかったカミュにとって素晴らしいものだった。
「グリモー、やってくれ!」
「はい、ミロ様。」
馬車の後ろの使用人の席に立ったグリモーが御者席のバザンに合図を送る。 トゥールーズともついにお別れだ。
さよならを言って一斉に手を振る子供たちの姿が小さな点になっていった。
パリまでの旅程は順調だった。 往路で泊まった宿では見知った主人から歓迎を受け、さすがに旅慣れたカミュはもう困ることもない。
パリに帰ればそれぞれの屋敷に戻ることはわかっているので、二人だけで過ごす夜はあとわずかしかないと思うと想いも募る。
「パリに帰ったら……」
「寂しいか?」
「ん……ちょっとは…」
そう言って口ごもるカミュのいとおしさがミロをせきたてる。 夏の夜が更けていった。
「もうすぐパリ市内に入るが、屋敷に戻る前にパレ・カルディナルに行くからそのつもりで。」
「枢機卿のところへ? どうしてそんなに急に?」
「思ったんだが、リシュリューはてきぱきとことを運ぶのがことのほか好きだ。
なにも待たせることはない。 このまま乗りつけたほうが歓迎されるさ。」
「そうなのか?」
「そうだよ。」
とはいっても公私にわたって忙しいリシュリューにすぐに会えるとは限らない。 運悪く泊まりがけの視察にでも行っていようものなら諦めて帰るほかはなく、万が一宮廷からの招待状がアルベール邸に届いていて、それをカミュが手にしたらすべての努力が水泡に帰すのだ。
セーヌを渡り リボリ通りを南西にゆくとルーブル宮と向かいあってパレ・カルディナルの威容が現れる。
リシュリューの死後は国家に寄贈され幼いルイ14世が住むことになるこの館は、フランス第二の実力者が住まうに相応しい豪勢なものだ。
世間に出始めたカミュが訪問するのはトゥールーズ邸、トゥールーズ城に続いて三番目で、だんだん格が上がっていくのはたいしたものだ。 むろんミロが訪問するのも初めてである。
「前を通ったことは何度もあるけれど、中に入れる日が来るなんて思いもしなかった!」
「それは俺も一緒だ。 ルーブルには何度も行っているが、それに負けないほど贅を尽くしているという噂だ。」
大きく開かれた門扉から馬車が入って行くと、通りに面した間口も相当なものだが奥行きもそれに層倍して桁外れなのがよくわかる。
さすが枢機卿の屋敷だけあって、出入りする人や馬車が引っ切りなしで、その活気にあふれた様子がカミュを感心させた。
ルーブル並みに広い階段を登ると直ぐに侍僕が寄って来たのでミロが来意を伝えると広い控室に通された。
たくさんの貴族や官吏が様々な陳情や報告やらで詰め掛けており、そんな様子を初めて見るカミュが目を丸くする。
もっとも目を見られるのを恐れるあまり、つば広の帽子を目深にかぶり伏し目がちにしているのだが。
「こんなにたくさん人がいては、うまく枢機卿に会えるのだろうか?」
「そこのところは俺にもわからんが、ともかく待つよりほかはない。」
空いている椅子もなくて壁を背にして二人で立っていると、立派なお仕着せを着た侍僕がやってきた。
「スコルピーシュ子爵様はどちらにおいででしょうか?」
控え目に声を掛けながら来る侍僕にミロがちょっと手を挙げて合図をすると、すぐに認めて寄ってきた。
「どうぞこちらへお越しください。」
たくさんの人をかきわけるようにしてついてゆくと、大勢の注目を浴びるのはミロにはなんということもないが物慣れないカミュにはドキドキする経験だ。
鼓動を抑えながらミロのあとをついてゆき、控え室を出たときにはほっとした。
美しいカーブを描く階段を上ると左右に伸びる廊下は果てしなく長い。 重厚な時代物のタペストリーや高名な画家の絵画が並ぶ壁面を照らすシャンデリアにはたくさんの蝋燭がともされていて、きらめく明かりが贅沢な雰囲気を醸し出す。
たくさんのドアが並ぶ廊下を通って案内された先は、予想に反して落ち着いた中にも贅沢な造りの寝室だ。
「…え?」
侍僕の説明では、リシュリューは連日 朝からルーブルでの執務に忙しく、帰ってくるのは深夜に及ぶこともあるという。
「スコルピーシュ子爵様とお連れ様がおいでのときにはぜひともお泊まりいただいて、あるじの帰りをお待ちいただくようにと固く申し付けられております。」
思わぬことに二人は顔を見合わせた。
「ご夕食はただいまこちらにお運びいたします。 ご用の向きがございましたら、こちらのベルをお鳴らしください。
なんなりと承らせていただきます。」
そう言って侍僕が下がって行った。
「こいつは驚いた!賓客並みの扱いだ。」
「でもどうして?今日は屋敷に帰れると思っていたのに。」
「まだお前に詫び足りないと思っているんじゃないのか。 気にすることはない。
おおいに歓待に預かろう。 パレ・カルディナルに泊まるなんて、滅多にあることではないからな。」
カノンの言った通りだ!
たしかにカミュはリシュリューの大事な持ち駒に違いない
俺が直接カミュを連れてくることを見越してここまで計らってくれるならカミュを守り切れるだろう
寄らば大樹の陰とはよく言ったものだ
留められたがむろん軟禁されているのではないというのは、なんとも贅沢な夕食を終えたあとで中庭の散歩をしたいと言ったときに明らかになった。
「どうぞご自由にお過ごしください。 奥が広くなっておりますので、迷われませんようにお気をつけください。」
庭園への出入口まで案内してくれた侍僕はそのまま邸内に戻ってゆき、二人は最新流行を取り入れた庭を自由に歩き回ることができた。
よく手入れされた花壇や噴水が見事で作庭家の腕がしのばれる。 工夫を凝らした小道は角を曲がるたびに思いもかけない光景を二人に見せて、飽きるということがない。
「ここは?」
人の背丈ほどあるきれいに刈り込まれた生け垣の前でカミュが首をかしげた。
意味ありげにぽっかりと口を開けた入り口らしき場所があり、そのそばに 「アリアドネ」 と書かれた札が下がっている。
「これは生け垣で造られた迷路だ。 ギリシャ神話のアリアドネを知っているだろう、最近の流行りだよ。
大規模なものだと抜け出すのに一時間近くかかるらしい。」
「それはすごい! ぜひ、やってみたい!」
ルーブルにも同じような迷路はあるが、なにしろ既婚未婚を問わず恋愛をすることが半ばマナーと化している宮廷社会のことだ、広い庭園のあちこちで逢い引きが行われ、高い生け垣で造られた迷路もそんな恋人達の恰好の出逢いの場所となっている。
うっかり入って、恋人たちの甘い逢瀬の現場に踏み込んで慌てて退散した覚えもあるのだ。
ルーブルの迷路なんてとてもじゃないがカミュには勧められんが、パレ・カルディナルにそんな心配はないだろう
カミュに迷路を体験させるにはちょうどいい
夏の夜はまだ明るくて、迷路の中からも高い居館の屋根が見えるので方向を見失うこともない。
「では入ってみよう、きっと面白い。」
こうして二人は迷路に足を踏み入れた。
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