その42  黄 昏

「ミロ………あの男はなぜ急にあんなことをしてきたのだろう?」
「なぜって?」
ともかく迷路から離れようと、黄昏どきの庭園を館に向かって歩いているとカミュが訊いてきた。
「なぜ、あんなことをする? 面識もないし、ただ丁寧に道を訊いただけなのに、なぜ私にあんなことをしてきたのだろう? 私はとても怖かったし嫌だった。」
ミロが驚いたことには、カミュはなぜ自分が襲われたか、わかっていなかった。 美しすぎる容姿が男の気を惹いて、初対面でもその気を起こさせる可能性があることを知りもしなかったのだ。

   う〜〜ん、確かに俺もそんなことを教えた覚えは一度もないな
   女ではあるまいし、襲われないように気をつけろと言う気もなかったが、大きな間違いだったかもしれん

常に侍女を連れている貴族の令嬢は、どんなに美しかろうともこんな目に遭いはしない。
もしも夕暮れ時に庭園の迷路を一人で歩いているとしたら、それはアバンチュールを求める発展家の娘か、生真面目なだけの夫に飽き足りなくて魅惑的な恋を夢見る有閑夫人というのが通り相場だ。 それを見越した見知らぬ男に声をかけられて親密になり、やがてそれなりの結果になってもそれは自然の成り行きだし、お互い合意の上なのだから非難するようなことではないだろう。 伝統的に恋愛を重視するフランス宮廷文化にあってはむしろ当たり前のことだ。
しかし、独りでいたカミュは男の目にどう映っただろう?
誰にでも一目でわかるカミュの持って生まれた純真さ素直さが男を引き寄せ、まるで野の花を摘むように手折らせるのではなかったか。 獲物を求めている狼の前に差し出された仔羊のようなもので、剣を帯びていなかったこともカミュの身分を軽んじさせる原因だったかもしれないと思うと、ミロはおのれの迂闊さに唇を噛む。
「やつがお前になんと言ったか、覚えてる?」
「ええと、たしか……」
さっきの経緯を尋ねてみると、やはりカミュには男の意味ありげな問いかけがまるで理解できなかったらしいのだ。 いい獲物だと思われたのも無理はない。
「相手をするとか、いい夢を見させるって、わからないかな、やっぱり。」
「それがなにか?」
これでは無理だ。 カミュが切れ切れに覚えていた、恋の道の指南とか 男を知らないとかの言葉の意味も理解できたはずがない。

   男を知らない、っていう言葉の意味を俺が教えるのか?
   ものすごく言いにくいっ!
   娼婦のことは自分にまるっきり無関係だったから話せたが、これはカミュに関係ありすぎる!
   相手をするとか、いい夢を見させるとか、身を任せるとかも教えなきゃだめか?!
   ………だめだろうな、やっぱり

なにげなく使っているこうした言葉が意味する事柄を一つ一つ説明して理解させるのは難しい。 気恥ずかしくてこっちの顔が赤くなる。 乗馬や剣を教えるのとはまったく違う困難があることをミロは知った。
「細かいことはあとで教えるが、ええと、つまり、世の中の男の中には、お前みたいな整った容姿の人間を見るといきなり抱きたがるやつもいるんだよ。 たいていは感心して見つめるだけだが、なかには襲って来るやつもいる。 周りに誰もいなければの話だが。 つまりは、そういうことだ。 」
「えっ!」
「念のために言っておくが、この場合の襲うっていうのは、嵐が襲ってくるとか犬に襲われるとかじゃない。 はっきり言うと、相手の意思は問わずに性的関係を強要するということだ。」
ちょっと言葉が固いような気もしたが、下品な言葉は使いたくなかったし、カミュにはこのほうが理解しやすいだろうとミロは考えた。 妙に言葉で誤魔化すと、結局ことの本質が伝わらなくてとんでもない勘違いをされかねない。
「とても酷い行為で絶対に許せることではないが、世の中にはそういうこともあるんだよ。 俺はお前をそんな目に遭わせたくない。」
「ミロ………」
泣きそうな顔をしたカミュが少し身体を寄せてきた。いとおしくてならず、暗くなってきたのを幸い、そっと手を握ってやるとすがり付いてくるのがいじらしい。 遠くのほうを人が横切るのが見えたがこちらに気付いた気配はない。
「俺は初めてお前に会ったとき、女のように美しいと思って驚いて、それから話をして友達になった。 最初から抱こうと思ってたわけじゃない。 でもすぐに好きになって気持ちを伝えたくなって………で、抱いた。 手順としては順当だ。 嫌な思いをさせたことはなかったはずだし、お前も俺を好いてくれたのはわかってる。」
「ん……」
カミュが真っ赤になった。 こんなことをミロから聞かされるのは初めてで、なんと返事をしていいのかわからなかったのだ。
ミロのほうでもこんなことを言うつもりはなかったのだが、話の流れでそうなった。
思い返せばカミュを初めて抱いたのは出会ってから十日ほどたった頃だった。 これが早いのか遅いのか、さすがにミロにもわからない。 世の中の恋の形は様々で、出逢ったその晩に抱くこともあるだろうがそれはそのときの情況次第だ。 相手にその気があって環境も整っていればミロとてその場で抱いたかもしれないが、カミュのあまりの清純さに心打たれたミロがゆっくりと時間をかけていったからこその結果だろう。 しかし数ある男の中にはそれにつけ込んでいきなり襲う者もいるだろうとは思う。
「ともかく、これからは決して一人にはしない。 いつどこであんな男と出遭うか、わからないからな。」
「ありがとう。 あの………私はミロみたいに強くはないから、人を殴ったりはできないと思うし、剣も持っていないし。」
ため息をつくカミュがいじらしい。 背丈こそミロと同じで十分に高いものの、男にしてはいくぶん細身なのと、世間を知らず目の赤いことの引け目もあって無意識に物怖じする様子が、ある種の男から見ればたまらないのに違いない。
「性格は変わらないかもしれないが、剣の腕は鍛えられる。 訓練を続ければ大丈夫だよ。」
「そうだな……そうしよう!」
少し安心したらしいカミュと一緒に庭園を抜けた頃にはすでに夜になっている。 目指す居館の窓という窓はシャンデリアの光で明るく輝いており、いかにも美しい。
「なんてきれいなのだろう!素晴らしい!」
「贅沢な眺めだな! さすがはパレ・カルディナルだ!」
カトリック教会で教皇に次ぐ高位聖職者である枢機卿にしてフランスの宰相リシュリューの居館の豪華絢爛さがカミュの目には眩しく映る。 自分の運命を握る最高実力者の二人がルーブルの奥で地図を広げながら対ハプスブルグ家の構想を練っていることなど思いもよらないのだ。
「そういえば、リュイーヌって誰?」
「……え? その名前をどこで?」
「あの男が私のことをリュイーヌよりも美しいと言っていた。 リュイーヌって誰のこと?」
「リュイーヌ公シャルル・ダルベールは国王の寵臣だ。 そういえば少し似ているかもしれない。」
「そうなのか。 それにしてもミロはほんとによくものを知っていて羨ましい。 宮廷のことも貴族のこともとても詳しいし。 私もいつかそんな風になれるだろうか。」
「大丈夫だよ、こういうのは慣れだ。 人と話をしているうちにいつの間にか覚えるものだ。」
「そうだといいけど。」
リュイーヌの名前がミロには痛い。 それがカミュの口から出たのだからなおさらだ。 行きずりの男でさえも夕暮れ時にちらっと見ただけのカミュをリュイーヌと似ていると判断できるのだ。 いままでにカミュを見たうちの何人がそのことをどこで話題にしたか知れはしないのだった。
「誰と似ていようと関係ない。 俺はそのままのカミュが好きなんだから。」
「ん……私もミロが好きで……」
頬を染めたカミュがうつむいた。 小さな声で終わりのほうは聞こえない。 こんなことを言うのに慣れていないのだった。



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