その43  不 安

部屋に戻るとすぐに侍僕がやってきた。
「枢機卿様にはさきほど帰邸なさいましたが、緊急の用件で再びルーブル宮に伺候なさいました。お二人とは朝餐をともに、というご意向ですので明朝七時にお向かえに上がります。」
「承知した。」
さっきは迷路で襲われかけて、今度は枢機卿との朝食だ。 パレ・カルディナルは刺激が強い。
「たいした待遇だ。 宰相の陪食にあずかるとはね!」
「枢機卿と食事なんて考えもしなかった!どうすればいいだろう?」
「なあに、聞かれたことに礼儀正しく答えていれば充分だ。 会話は俺が引き受けるから安心してればいいさ。といっても、枢機卿と一対一っていうのはさすがに緊張するが。」
「なんだかドキドキして、とても眠れそうにない。」
カミュが部屋を見回した。 精緻な幾何学模様を見せている寄木細工の床、鏡面仕上げの腰板、華麗な唐草模様のレリーフを配した天井の装飾、どこを見ても細やかな神経が行き届き、考え得る限りの優雅かつ贅沢な装飾が施されている。
壁に掛かっている絵画はカミュもよく知る聖書から題材をとったものがほとんどで、「 聖母と幼児ヨハネ 」 とか 「川から救われるモーゼ 」 とかの重厚な作品が多い。 いずれも聖職者であるリシュリューの好みを反映したものだろうが、ミロとしてはせめて 「アンロドメダを救うペルセウス 」 くらいは欲しいところだ。
部屋のテーブルには年代物のワインと磨き上げられたグラスが置いてある。 シードルもあるのは、トゥールーズでカミュがワインを飲まないことをリシュリューが観察していたことの現れなのだろうと思われた。 自分が留守にしている間に二人が訪ねてくることを予想してここまで指示しておく用意周到さにミロは舌を巻く。
「少し飲んでから寝るか? そのほうが落着くだろう。」
「ん…そうする。」
カミュにシードルを注いでやり、自分のグラスも満たして椅子に寄りかかる。 開け放した窓から時おり馬車や馬の蹄の音が聞こえてくるのは、昼夜を問わず枢機卿の元を訪れる客が多いことの表れだ。 フランス各地の情勢の報告もあれば、内密の用件で知恵を借りたいという貴族もいるのだろう。
注いだワインは極上でミロを唸らせたが先に待ち構えている懸案を思うととても酔えるものではない。
「このあたりでやめておこう。 明日があるからな。」
二杯飲んだところでグラスを置いたミロが立ち上がった。
「それから今夜は抱かないから。 寝坊するわけにはいかないし。」
カミュが小さく頷いた。

箪笥に用意されていた夜着は極上のシルクで鳩の羽のように軽くて柔らかい。
「女物かと思ったよ。」
「でもレースはついてないし。」
くすくす笑いながら横になる。 むろんすぐには眠れないのであちこちを見ていると、椅子に掛けていたときには気付かなかったものが見えてきた。 ミロが真上を指差した。
「あそこだが、ちょっとすごいかな。 あんな目立たないところまで凝っている。」
「こんな寝室に入ったことがない。」
二人並んで見上げる天蓋はこれ以上はないというくらいの極上の紗の二枚重ねで蝉の羽よりも薄いのだ。 それを留め付けてある中央の装飾がこれまた見事な金と銀の華麗な草花のモチーフで、名のある職人の手になるものに違いない。 複雑で美しい意匠がカミュを感嘆させた。 天蓋を支える四本の重厚な柱は、色こそ落着いた木目を見せているが、二重螺旋に葡萄や蔦を絡ませた複雑にして精緻な彫刻が施されているという芸術的な代物だ。 むろんサテンの寝具も素晴らしい寝心地で、まるで雲の上に寝ているような気になってくる。
「王宮のベッドもこうなのだろうか? こんな贅沢な部屋に寝ているなんて、まるで国王になったみたいだ。 こんなことを言っては畏れ多いとは思うけど。」
なにげないカミュの言葉がミロに不安を起こさせる。 ミロがルーブルの寝室に入ることは有り得ないが、カミュにないとは言えないのだ。

   万が一、国王の目に留まり、リシュリューの打つ手が効を奏さなかったら……

「カミュ…!」
「あっ…」
急に引き寄せられたカミュが声を上げた。 明日のリシュリューとの話に備えて、今夜はなにもしないで休むと決めたのはミロなのに。
「ミロ、でも…」
「わかってる……明日のことはわかっているけど、今夜は黙って俺に抱かれて!」
ただならぬ口調がカミュを瞠目させた。 普段のミロはとてもやさしくてカミュを包むように抱いてくれるというのに、今日は真剣な表情が怖くさえ感じられる。 性急な手がカミュの肌を求め、艶やかな髪を握り梳く。 数え切れない口付けと抱擁が烈しくてカミュは流されてゆくばかりだ。
「カミュ、カミュ……愛してる!………どこへも行くな!俺が必ず守るから!」
突き詰めた口調が少し恐くなったカミュが肩をすくめておののいた。 与えられる愛の仕草も常よりは激しくて勝手が違う。 こんなミロは見たことがない。
「ミロ、あの……」
「なにも言わなくていいから!………俺のカミュ………誰にも渡さない! あんな………あんな男などに誰が渡すものか!」
この言葉を聞いたカミュがそれをさっき迷路で出遭った男のことだと考えたのも無理はない。 ミロの怒りももっともで、そのことがあったのでこんなに強く抱きしめられているのだと思ったのだ。
しかし、そうではないのだ。 ミロの考えているのはフランス国王ルイ十三世のことなのだから。
リシュリューがなにを考えているのかはまだわからないが、もしも明日カミュがアルベール邸に帰邸して王宮からの招請状を手にしたら、内容いかんによってはそのままルーブルに行く可能性すらあるのだ。 そして国王がカミュを気に入ったら、それきり宮殿に留め置かれることも考えられる。 それですべては終わる。 カミュは二度と元の暮らしには戻れない。 最悪の場合には今夜がカミュを抱く最後の夜になるかもしれないのだ。
そんなことを想像もしていないカミュのさながら王宮に憧れるような一言が、胸のうちに渦巻く不安をむりやり押さえ込んでいたミロの想いに火をつけた。

   そんなことが認められるかっ!
   この髪も、この唇も、この肌も………俺が見つけて、俺が愛して、俺が慈しんできて………!
   あんなにあんなに大事にしてきたのにっ!

寂しくとも静かに暮らしていたカミュを見つけて世の中に引き出したのはミロだ。 もちろんそれはカミュのために素晴らしい出来事だったが、運悪く寵臣リュイーヌと似ているがためにカミュの運命は大きく変わろうとしている。 栄耀栄華を望む者にとっては降って湧いた王寵は願ってもない幸運だろうが、カミュにとっては最悪だ。 夜毎に王の寵愛を受け、爛れた享楽の相手をさせられることを知らされたらカミュはどう思うだろうか。
「ずっと一緒にいよう………大事にするから………俺のカミュ………あんな男には一指も触れさせない!」
力強い手に抱かれて熱い口付けをここかしこに与えられたカミュが思わぬ情熱に翻弄されて息を飲む。 やさしいミロに慣れていたカミュにはそれは新たに知った一面だ。
「ミロ………ミロ! どうしてそんな……」
「愛してる………こんなに、こんなに愛してる!」
今宵が最後かもしれないと思う底知れない不安がミロを駆り立て追い詰めた。


わけのわからないままにミロに抱かれて深く愛されたカミュがふと目覚めたのは外から聞こえてきた物音のせいらしかったが、それが夜中近くに帰ってきた枢機卿の馬車の音とは知る由もない。やがて自分がパレ・カルディナルに泊まったことを思い出す。

   ミロは……?

蝋燭はとうの昔に吹き消され、窓から射した月明かりにぼんやりと部屋の様子が浮かぶ。 ミロは寝息を立てており豊かな金髪が枕の向こうに広がっていた。 ほっとしたカミュがそっと身をすり寄せ、肩に頬を寄せた。

   ほんとにミロはどうしたのだろう?
   今夜は静かに寝るはずだったのに、あんなに急に………

初めて施された仕草のあれこれを思い浮かべてひとり赤面していると、ふっと恐ろしいことに気がついた。 ミロしか知らなかったが、きっとほかの男でもこうした事をするかもしれない可能性に思い当たったのだ。 ミロだからすべてを許して安心して抱かれているのに、迷路で出遭ったような恐ろしい男にそんなことをされたとしたら………。

   そんなことになったら死んでしまう!
   ミロでなければいやだ!
   私にはミロしかいないのに!

ミロではない男に抱かれる恐怖で胸ガいっぱいになり、身体の震えが止まらない。 もしもあの時ミロが助けに来てくれなかったら、とんでもないことになっていたのだとひしひしと思う。 ミロだから許せる嬉しい仕草も、ほかの男にすり替わった瞬間から地獄の責め苦となるだろう。

   ミロ………ミロ!
   私一人ではなにもできなくて………ミロに助けてもらうしかなくて
   ミロが好きだから………こんなにこんなに好きだから!

危ういところを救ってくれたその胸にカミュはすがりつき唇を寄せる。 ミロが起きないようにとは思ったが、湧き出る想いは止められない。 身を揉み込むようにしているとミロが目覚めたようだった。
「カミュ……?」
「大好き………大好きだから……」
「ん………俺もだよ。」
暖かい手が伸びてきて背中を包み抱きしめる。
「いつも一緒だ、俺のカミュ…」
「ん………」
それきり静寂が訪れて、もう二つの寝息しか聞こえない。 パレ・カルディナルは深い闇に沈んでいった。



                                                                     ⇒ 仏蘭西・扉へ