その44 ラ テ ン 語
翌朝の目覚めは早かった。 十分な余裕を持って先に起きたミロがカミュを揺り起こしたのは6時になろうとするころだ。
「あ………おはよう……」
「よく眠れたか? 時間はまだたっぷりあるから慌てることもないが。」
「いや、起きる。 いつまでも寝ているわけにはいかないし……」
そうは言ったものの、起きるといってもいささか都合がよろしくないのだ。 昨夜のことが頭をかすめ、まともに顔が見られない。
「向こうを向いてるからゆっくり着替えてくれ。 大丈夫だ。」
かがみこんだミロに額にキスされてますます頬が赤くなる。 ほんとにパレ・カルディナルは刺激が強い。
「枢機卿って、王室に次ぐ資産家とか?」
朝の光の中で改めて見る部屋の家具調度が見事でカミュは感嘆することしきりだ。 ルネッサンス様式をいっそう優美にした黒檀の家具がこのごろの最新流行なのはミロから聞いて知っているし、表面に鼈甲を張った寄木細工のテーブルも他に類を見ない見事さだ。 広壮なパレ・カルディナルの居室すべてがこの水準で揃っているだろうことを考えると、その財産は莫大なものだろう。
「リシュリューはフランス西部の小貴族の出で、1614年の三部会にローマンカトリックの聖職者代表として出席し、そのときに現国王の母后マリー・ド・メディシスに才能を認められて政界に入ったんだよ。
その後、枢機卿に任ぜられ宰相にもなって今に至る。 聖職者の俸給は教会が出すのが決まりだから、たとえ宰相になっても国家は1リーブルも払わなくていい。
フランスにとってはありがたい話だし、教会としても政治の中枢に代表者を送り込むのは願ってもないことだ。
リシュリューの懐具合についてはよく知らないが、あれだけの地位にあればそれに見合った財産もついてくるということだろう。」
すっかり身支度を整えたミロはカミュに予備知識を入れるのに余念がない。 いくら世間を知らないのは周知としても、やはりわきまえておかねばならないことが幾つかあるのだ。
「財力があるといってもリシュリュー自身は無私無欲の人物で、なによりも重視しているのは国家と王権の拡大だということだ。 プロテスタントとハプスブルグ家が嫌いなことは有名で、国家の敵は許さないし自分に敵対するものも同様だ。
リシュリューなくして今のフランスはないと言ってもいいだろう。 国王もリシュリューに頼りきってる。 いろいろな見方はあるがともかく大人物だよ。」
「そんなに優れた人なのか!」
「ただし、敵も多い。 リシュリューを推挙したマリー・ド・メディシスは、のちにリシュリューと対立して追放されたし、王弟ガストン・ドルレアン公とは犬猿の仲だ。 これはドルレアン公のほうにおおいに問題がある。 陰謀ばかりたくらんでリシュリューを失脚させようと狙ってるんだから、敵視されて当然だろう。」
「えっ!」
「リシュリューにとって一番大事なのは、さっきも話したように王権の拡大だから、その障害となる要素については徹底的に叩くということだ。」
「ふ〜ん……」
カミュも一通りの歴史の勉強はしてきたが、このあたりの権謀術策渦巻く政治の経緯については学んではいない。
選任された家庭教師も現政権や権力の在り処の詳細については言及を避けるのが当然だ。
そんなわけでカミュは初めて聞く話に目を見張る。
「でもそんなことは予備知識として知っておく程度でいい。 リシュリューだって政治的意見なんか求めやしないし、万が一、そっちのほうに話が及んだら、ずっと家にいたのでよくわかりませんって言えばいいんだよ、事実だし。」
「わかった。 とりあえずガストン・ドルレアン公をほめないように気をつけよう。」
「それは肝心だ。」
「お目覚めでいらっしゃいますか。 お迎えに上がりました。」
侍僕がやってきた。
「では行こう。」
いよいよである。 お互いを見やって、身だしなみが完璧であることを確認し合う。
カミュの胸も高鳴るが、ミロの方は胃がきりきりと痛むような気がしてくる。
あのリシュリュー相手に丁々発止の応酬ができるとは露ほども思っていない。
理由は異なるが、カミュを国王に渡さないというただ一点において利害関係は一致する。
リシュリューが持ち出してくるに違いない条件がカミュを不幸にしないものであるように祈るばかりだ。
断ることはできないだろう
あのリシュリューの提案を蹴るなんてことができるはずはない
いったいリシュリューはどんな手を打つつもりだ?
案内された部屋にすでにリシュリューはいた。 思ったよりも簡素な部屋でさほど広いわけでもない。
食卓に四人分の食器が用意されているところを見るともう一人やってくるらしかった。
「おはよう、よく眠れたかね? 昨夜は遅くなったので失礼をした。 このあと王宮に出かけなければならないので朝食を摂りながら話をしようと思ったのだが、よかったかな?」
「むろんです、猊下。 こちらこそ突然押しかけて参りましたのに格別のお心遣い恐れ入ります。」
そこへもう一人の陪食者が現れた。 灰色の僧衣の神父である。僧帽から覗く髪も長いひげも真っ白でいかにも温厚そうな風貌だが、生き生きとした鋭い目は只者ではないだろう。
え? カトリックの神父じゃないか!
………まさか、カミュをどこかの修道院に入れようっていう算段ではあるまいな?
そんなことをされたらたしかに国王には手が出せんだろうが、俺からも世間からも引き離されてしまう!
心臓が縮みあがる思いのミロにリシュリューの声が聞こえてきた。
「紹介しよう、私のよき友にしてもっとも優れた学識者のジョセフ神父だ。」
「初めてお目にかかります、ミロ・スコルピーシュ・ド・トゥールーズです。 よろしくお見知りおきを。」
「カミュ・フランソワ・ド・アルベールです。」
これは驚いた!
リシュリューの影の参謀にして灰色の睨下と言われているジョセフ神父その人だ!
リシュリューの片腕としてその政策立案や外交方針にも意見を述べるという噂は俺の耳にも届いてる
この二人がフランスを動かしているといっても過言ではないだろう
枢機卿のリシュリューが赤いマントを纏うのに対して、清貧と厳しい戒律で有名なカプチン派のジョセフ神父はいつも灰色の古い僧服を着ていることから灰色の睨下と呼ばれているのだ。
穏やかな風貌の下には恐ろしいほどの頭脳が隠されている。
カミュはそんなこととは知らないので、リシュリューの知り合いの聖職者がたまたまやってきたのだと考えたらしい。
人数が増えたことに安心したらしいのがミロにはわかる。
にこやかな笑みを浮かべた神父と和やかに挨拶をして席に着く。 食前の祈りをジョセフ神父が唱えるのはいかにも自然だが、ミロはそれさえも緊張する。 なにしろ枢機卿とジョセフ神父といえばフランスの教会で最高の地位にあり、なおかつ政治の中枢だ。 ただの朝食会ではありえない。
ジョセフ神父と当たり障りのない会話をしていたリシュリューが話をカミュに振ってきた。
「ときにトゥールーズはどうだったかね、アルベール君。 いろいろと目新しい体験をしたと思うが。」
「はい、あのぅ、私は屋敷で過ごしていた期間が長かったものですから知らないことが多すぎて、ミロにいろいろと教えてもらいました。」
それからちょっと言葉を切ったカミュがもっとなにか言うべきだと考えたのだろう。
「乳搾りや魚とりや木登りもしたことがなかったので、教えてもらってとても楽しく過ごせました。 ほんとうにいい経験です。」
二十歳の男が言うことではないが、事実は事実だ。 そう思いながらもミロは隣で冷や汗をかく。
「パリの街中にいてはどれも難しかろう。 もっとも私も子供のころは、よくやったものだ。」
「猊下も?」
「田舎には田舎のよいところがある。 私の育ったところも小さな町でね。 ニジマス釣りがいちばんの得意だった。」
「私もニジマス釣りが好きです!」
それから世情に詳しいらしいジョセフ神父も加わって田舎暮らしの話がしばらく続き、カミュも緊張がほぐれた頃だ、リシュリューがこんな提案を出してきた。
「ところでアルベール君はラテン語はどうかね?」
「ラテン語ですか? 家庭教師に習いましたので一通りはこなせます。」
「それはよかった!」
するとジョセフ神父がラテン語でキリスト教の教義について質問を始めたのだ。
おいおい、冗談じゃない!
本は読んだことがあるが、ラテン語で会話をするなんて今の今まで考えたこともないが
困惑するミロをよそにカミュとジョセフ神父の神学話はしばらく続き、ミロは頭が痛くなってきた。
自分のペースで書物を読む分にはなんとかなるが、話のスピードについていくのは神経を使う。
カミュがジョセフ神父とさして緊張することもなく話をするのにも驚いていると、
「これならよろしいでしょう、十分すぎるほどの知識です。 若い人でこれだけ理解しているとは稀有ですな。」
ジョセフ神父がリシュリューに言った。
………え? よろしいって………なんのことだ?
「アルベール君、君のラテン語の知識を見込んで一つ頼みがあるのだが、神学の教義について書かれた文書を研究する会に出てみる気はないかね?」
「え? 研究会ですか?」
カミュの声が弾む。 ラテン語が得意とはいえないミロには想像もつかないことだが、どうやら興味があるらしい。
「昨今流行りのサロンではないが、毎週金曜日の午前中にここで古文書を紐解きながら自由に意見を述べ合いキリスト教会の教義について研究を深めようというのだよ。 主催はジョセフ神父で、私も時間の許す限り出ることにしている。 君のような若い人が加わってくれれば新しい意見も聞けようというものだ。」
「それは素晴らしいですね! 私としましては…」
カミュがミロをちらっと見た。 どう返事をするべきかミロの判断を仰ごうというのだ。
「それは願ってもないことです。 彼はまだまだ社会のことを勉強する必要がありますが、世俗のことだけでなく神学の学問を深めるのにこれほど素晴らしい機会はありますまい。 願ってもないお誘いに心から感謝いたします。」
これだけでは王の誘いを断るまでには至らないだろうが、ともかく継続してリシュリューとの繋がりを持てることになる。
それもジョセフ神父の口添えまでついている。 悪くない話に違いなかった。
「喜んでお受けいたします。 私のようなものでお役に立ちますのなら幸いです。」
「よかった。 楽しみにしていよう。」
リシュリューとジョセフ神父が顔を見合わせて笑った。
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