その45  書 状

「ああ、それから、」
口許を白麻のナプキンで軽く押さえたリシュリューがカミュを見た。
「アルベール君の叙位のことだが、本来は書類上の決済ですむのだが、こうして繋がりも出来たことだし、明日は君も一緒にルーブルに行って国王陛下にお目にかかって御礼を申し上げたほうがいいだろう。 都合はどうかね? むろん、子爵も一緒に来たまえ。」
「…えっ!」
突然の話にカミュが蒼ざめて絶句した。 鹿狩りのときにリシュリューから爵位を与えようという申し出を聞いてはいたが、まさかこんなに早く実現するとは思いもしなかったし、ましてや国王に会うことになろうとは想像もしていなかったのだ。 噂に聞くルーブルの人の多さがカミュを恐れさせ、そうした場での礼儀作法をなにも知らないことにも足がすくむ思いがする。
「あ、あの……私は…」
なんと言ってよいかわからずに唇を震わせたカミュが恐れおののいているのが、隣にいるミロには手に取るようにわかる。 可哀そうでならず、せめて手を握ってやりたいのをぐっとこらえて代わりに返答をする。
「猊下、まことにありがたいお話ですが、彼はいまだ人前に出たことがほとんどなくて宮廷での礼儀作法もまだ身につけてはおりませんし、国王陛下の前で礼を失することがありはしないかと気にかかります。」
「案ずることはない。 だから私と一緒のほうがよいのだ。 一緒に馬車から降りてルーブルに入れば、すべての扉は私の前に開かれる。 立ち止まることもなく、近侍に来意を告げることもない。 多少はドキドキするだろうが、迷うことなく陛下の御前まで一直線だ。 私が同道する者に無礼な視線を送る人間などただの一人もいない。 これでどうかね?」

   リシュリューと同じ馬車だって!
   想像もできない好待遇だ!

「それは願ってもないことです。 猊下のおそばということでしたら、どれほど心強いことでしょう。 これほどのご厚意にどのようにして報いればよろしいでしょうか?」
「なに、こちらこそほんの恩返しのつもりだ。 気にしないでくれたまえ。 トゥールーズではいろいろと思いがけないこともあったのでね。」
いたずらっぽく笑ったリシュリューが目配せをしてきた。 真っ赤になったカミュもミロに続いて礼を述べ、そんなカミュをジョセフ神父がまるで父親のような目で見ているのがミロの印象に残った。
それからまた神学の話になり、カミュの興奮も少しは収まってきたようだ。 今度はフランス語で話してくれたのでミロも少しは加わることが出来た。

やがて朝食も終わり緊張のほぐれた二人が席を立って別れの挨拶を述べ終わったときだ。 ドアがノックされて侍僕が入ってきた。
「猊下、ロッシュ殿がお見えになりました。」
「通せ。 では今日はこれで。 明日を楽しみにしている。」
「では失礼いたします。」
くるりと向きを変えて部屋を出ようとしたミロとカミュの前に廊下から一人の男が現れた。 そのとたんカミュは 「 あっ!」 と小声で叫んで後ずさりし、ミロは思わず剣の柄を握り締めてカミュを庇うようにして身構えた。 男のほうもぎょっとして血の気が失せた。 見間違うはずもないその男の左目の黒い眼帯からカミュが目をそらす。
「君たちは知り合いかな?」
そのときリシュリューの声が聞こえて、ミロの怒りを静めるのに役立った。
「はい、猊下、昨夜庭園ですれ違いました。 」
「ええ………その通りです。」
剣から手を離したミロが固い声で返事をすると、男のほうも肯定したが動揺は隠せないようだ。 左顎に紫の痣があるのはミロがお見舞いしたきつい一発のせいに違いない。 そのまま二人が出てゆくとドアが閉められた。
「ミロ………あの男は…」
「どうやらリシュリューの部下らしいな。 パレ・カルディナルにいたのだからある程度は関係があるだろうと思っていたが、こんな風に会うとは思ってもみなかった。」
「大丈夫かな………枢機卿にわかるだろうか?」
「俺たちの様子を見れば、なにかあったのだろうと誰でも気付く。 悪いのは向こうのほうだ、気にすることはない。 明日の朝、リシュリューからなにか話があるかもしれないが、聞かれない限りは黙っていればいいさ。」
「ん……それにしても驚いた。」
食事中は高揚していてすっかり忘れていたが、あの男に襲われた恐怖がよみがえる。
「ここにあの男が始終来るようだと、神学の勉強会に来たときも顔を合わせるのだろうか?」
「俺がずっと一緒にいるから大丈夫だよ。それに昨日はわからなかったろうが、今日からのお前はリシュリューの客人だ。 やつには手が出せるはずがない。 安心していいから。」
「ん……」
それでもまだカミュは不安そうだ。

   むろん、いい気持ちのはずはない
   襲われかけた記憶はそんなに簡単に消えるものではないだろう
   もしも女だったら、未遂に終わったとしても絶対に顔を見たくはあるまい
   なにを想像されているか、考えただけでも恐ろしいからな

部屋に戻りやさしくキスをしてからグリモーを呼んで荷物をまとめさせた。 
「さあ、これで屋敷に帰ったら明日に備えてゆっくり休むことだ。 明日が終われば楽になる。」
ほんとうに楽になるのか一抹の不安はあるものの、ともかく道はつけられた。 明日リシュリューが国王の前でカミュを紹介するときにいったいなんというつもりなのかはわからないが、神学の勉強会に誘ったということだけではまだ足りないだろう。 もう一押しの確実な手をリシュリューは持っているのに違いない。 そうでなくてはならないのだ。

パレ・カルディナルを辞去してサン・トレノ街のアルベール邸に戻ると大歓迎を受けたのは言うまでもない。 二人とも気付かなかったが、この夏のあいだにカミュは物怖じしなくなり自信がついたらしいのだ。 一ヶ月以上も会っていなかった家族には違いがはっきりわかったようでおおいに驚かれ、また喜ばれた。
「ほんとにトゥールーズは素晴らしくて!手紙には書ききれませんでしたが、とてもたくさんの出来事を経験しました。 みんなミロのおかげです!」
にこにことしたカミュはほんとに幸せそうで、どうやら明日の重要な訪問のことは忘れているらしい。 城の大きさや森の様子を身振り手振りで説明しミロに同意を求めながら話す様子は実に楽しそうでミロと家族をいたく満足させた。 それから秋の鹿狩りに二人の姉が招かれていることを伝えると、それがまた大興奮を巻き起こした。
「まあ、どうしましょう!」
「夢のようだわ!」
頬に手を当てて嬉しい悲鳴を上げたアフロディエンヌとシュラーヌが手を取り合って喜び、見ているカミュも頬を染める。 自分の存在が姉たちの悩みの種になっていたことはよくわかっており、その自分が、というよりはミロのおかげではあるのだが、こんなふうに姉たちを喜ばせることが出来るのが夢のようなのだ。
ひとしきりの興奮が収まったところでアルベール伯がもったいぶった咳払いをして一同の注意を引き付けた。
「実は宮廷からカミュに書状が届いている。 急ぎの用件だといけないので私が代わって開封した。」
緊張が走りみんなが押し黙る。
「………私に? でも、なぜ?」
戸惑うカミュがミロを見た。 しかしミロに答えられようはずもない。 全員の視線が伯爵が内ポケットから取り出した封筒に集中した。


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