その47  ル ー ブ ル

翌朝、二人がパレ・カルディナルに到着したのは指定された時刻の30分前だ。
「余裕があるにこしたことはない。 リシュリューは几帳面な性格で、ものごとが遅滞なく運ぶのをことのほか好む。 まあ、それはリシュリューに限らないが。」
馬車から降りると同時に現れた侍僕に来意を告げると、すぐに控室に通された。
「ミロはルーブルにはもう何度も?」
「ああ、父上やサガと一緒に何度も行ったことがある。 最初のころは宮廷の雰囲気に慣れさせるためっていう目的だった。 最近では国王主催の舞踏会に何度か行ってる。」
「父上や母上から話は聞いてるし、姉上たちが舞踏会に行くときはとても楽しそうにしているのは知っている。 でも私には立派過ぎて。 それに今日は国王陛下にお目にかかるのだと思うと………」
カミュの姉たちが舞踏会に出かけるときはとてもひそやかだ。 屋敷に篭って人目に立つことは一切しないカミュの気持ちに配慮して、浮き浮きしたそぶりなど見せないし、若い娘なら夢中になるはずの衣装の話題も食卓では出ることはない。
それでも舞踏会当日は屋敷の中がなんとなく華やいでいるのがカミュにもわかる。 馬車は朝から念入りに磨かれて馬丁は馬の毛の艶出しに忙しい。 真新しいお仕着せを誇らしげに着込んだプランシェが馬車を玄関先に回してくると美しく着飾った二人の姉が裾回りに気を使いながら頬を染めて乗り込んでゆくのは舞踏会に縁のないカミュにも心踊る光景だ。
こんなとき、自分が男でよかったとカミュは思う。 もしも女に生まれていてやはり紅い目をしていたら、どんなに悲しかったことだろう。
「ルーブルはいつも人であふれてる。 誰もが国王に一言でも声をかけてもらおうと懸命だし、それが無理ならせめて一瞬でも目に留まるようにと精一杯洒落た服装を競ってる。」
「私はできるだけ目に留まりたくない。 できるものなら枢機卿のマントの陰に隠れていたいくらいだ。」
当たらずといえども遠からずだ。 実際にリシュリューはそのマントの下にカミュを庇護しようとしているのだから。

そうやってしばらく話しているとリシュリューがやってきた。 昨日は私的な服装だったがベルサイユに行くというので赤い僧帽に赤いマントという盛装だ。 トゥールーズで出会ったときも赤いマントを羽織っていたが、あのときの旅装とは違って今日のマントの縁には豪奢な刺繍が施してあり威風堂々あたりをはらう。
「おはよう。 待たせたかな。」
「おはようございます、猊下。 さきほど着いたばかりです。」
「時間に正確なのはよいことだ。 アルベール君は昨夜はよく眠れたかね?」
「いえ、緊張してしまってあまり眠れませんでした。」
「無理もない。 初めてのルーブルは誰しも緊張するものだ。 国王陛下にお目にかかるのだからなおさらだろう。」
リシュリューが現れると同時に玄関前に馬車が寄せられている。 リシュリューに続いて馬車に乗り込む頃にはカミュの胸はこれまでにないほど高鳴っている。
「子爵から聞いたとは思うがルーブルは人が多い。 君にとっては酷だろうが、私の横についていれば心配することはない。 今後はそう何度も来ることもあるまいから、目を伏せたりせずにしっかりとよく見ておくことだ。 フランスの偉大さを自分の目で確かめるといい。」
「はい! そうします。」
カミュは動悸を高めただけだろうが、リシュリューの言葉はミロには千金の重みを持っている。 あきらかにリシュリューは今日の謁見で国王から完全にカミュを引き離す手を打つつもりでいるにちがいない。

狭い馬車の中でリシュリューと向かい合っているというのは類い稀な経験だ。 パレ・カルディナルとルーブル宮はリボリ通りをへだてて向かい合っているも同然の位置関係にありきわめて近いのだが、無難な話題でつなぎながらルーブルの正面階段の前で馬車が停まったときは二人ともほっとした。
「いよいよだ。 大丈夫だから落ち着いて。」
「わかった。」
かすれた声が返ってきてカミュの緊張がミロにもはっきりと伝わってきた。 これまでカミュが人に接したのはいずれもミロが周到に用意した場所で、いわば身内に囲まれた空間だった。 しかし、今日はルーブルだ。
「アルベール君は私の右を歩き給え。 憶することはない。子爵は左に。」
「はい。」
馬車の後部から降りた従者が恭しくドアを開けた。 リシュリューに続いて馬車を降りるとそこはフランスでもっとも華やかで活気に満ち溢れた場所だ。豪壮華麗な王宮の前を大勢の貴族が従者や侍女を連れて行き交い、その多くが枢機卿の馬車がやってきたのを見て注目しているのがミロにははっきりとわかる。 知っている顔が何人もおり、枢機卿の馬車からミロが降りてきたのを見て目を丸くして囁きあっているのがありありとわかって面映い。
一行が歩き始めると、ただでさえ枢機卿の赤いマントが遠くからでも人目を引くというのに今日はその隣りに年若い貴族がいるというのでなおさら注目を集めることとなった。 枢機卿の隣りを歩く者といえば国王かジョセフ神父くらいのもので、これが財務卿クラスだと半歩下がっているのが通例だ。 ミロもああは言われたものの、心もち下がった位置を占めている。 どうしても足が前に行かないのだ。
枢機卿の隣を歩くカミュに物珍しそうに視線を移した貴族たちが一様に息を飲んだ。 中には小さく声を上げた者もおりミロの心臓を縮めたが、その瞬間リシュリューがカミュに話し掛けた。
「どうかね? 初めてのルーブルは。 気に入ってもらえるといいのだが。」
「あの…とても立派でどきどきします。まるで 雲の上を歩いているみたいです。」
「若いということはいいものだ。 私も初めて三部会に出たときには興奮したのを思い出した。」
にこやかに微笑むリシュリューに普段の謹厳さは微塵も見られない。階段を昇りきりたくさんの人がいる広いホールを抜けてゆくと、四方の壁には大画面の絵画が掛かり大理石のアルコーブにはたくさんの彫刻が飾られていて贅沢な装飾の数々がカミュの目を奪う。 そっと見上げる天井も彫刻やレリーフで豊かに装飾され金彩の唐草や蔦が散りばめられて華麗さを競っている。 周囲の人々からの好奇の目を気にしながらも感嘆せずにはいられない。
「あの彫刻はダフニスとクロエだ。 イタリアの彫刻家ベルニーニに注文しておいたのが先月届いてね。 次の間には見事なアテナとアポロンの絵が掛かっている。 君はギリシャ神話はどうかな?」
「はい、とても好きです。 ラテン語の本も読みました。」
「それは素晴らしい! ギリシャ神話には人類の英知が凝縮されている。」
「私もそう思います。」
カミュとしてはリシュリューのほうを向いていれば自分に向けられる視線を気にしないで済むのでこんな会話にほっとする。 芸術やラテン語の話なら大歓迎だ。
そんなわけで頬を染めたカミュがリシュリューと話を弾ませているのを見て驚かぬ者はない。 いや、驚いているのはミロも同じだが。
鷹の爪を持つ鉄の宰相と誰もが恐れ、そのなにもかも見通すような鋭い目に射抜かれる気がして首をすくめるというのに、そのリシュリューと親しげに話す青年が誰なのか、誰もがその素性を知りたがるのは当然だ。 しかもその目が赤いときては全員が好奇心の塊になる。

「ご覧になりました? あのお若い方の目が真っ赤ですのよ!」
「ええ、びっくりしましたわ、なんてことでしょう!」
「わたくし存じてますわ、あの方はアルベール伯の御長男でいらしてずっとお屋敷うちにこもっておられた方に違いありませんことよ。」
「あら! どうしてそんなことをご存知でいらっしゃるの?」
「先日トレヴィル公爵夫人のサロンにお招きを受けたときに夫人から直接お聞きしたんですのよ。 とてもきれいなルビーのような目をしていらして、それはそれはおきれいな方なのだそうですわ。」
「まあ! わたくし、ちらっとしか見えませんでしたのよ。 どのくらいおきれいなのか、ぜひ拝見しなくては。」
「後姿も素敵でいらっしゃるわ、さあ、参りましょう!」

「おい、あれはいったい誰だろう? 目が赤いなんて信じられん!」
「ぎょっとしたが、リシュリューは平気で話してるな。」
「あれはアルベール伯の長男だろう。トレウ゛ィル侯爵から話だけは聞いている。 夫人は会ったことがあるそうだ。 」
「なにっ? あそこに後継ぎはいないと思ったが。」
「目が赤いので宮廷にはいっさい出てこなかったが、今度はトゥールーズが後ろ盾になったという話だ。」
「なにっ、トゥールーズが?!」
「間違いない。 ミロが一緒にいるのがその証拠だろう。」
「トゥールーズだけじゃないな。 あの様子だと最強の後ろ盾が加わったように見えるが。」
「まったくだ。 こいつは豪勢だな。」

ざわめきとともにこの成り行きに興味を持った人間たちが距離を置きながらぞろぞろとついてゆくと、さらに驚くべきことが起こった。
アンリ4世時代の鹿狩りの絵が掛かっている狩猟の間に入ったところで、灰色の僧服を着た人物があらたに一行に加わったのだ。
「おはよう、アルベール君。」
「ジョセフ神父、お目にかかれて嬉しいです。」
「私もだよ。 ところで昨日の話の続きだが、天使は実体を持つと思うかね?」
「トマス・アクィナスの神学大全によりますと天使の存在は…」
今度はジョセフ神父と神学の話が始まった。 それを見た周囲からさらに驚きのどよめきが上がり、ミロもまた然りだ。
トマス・アクィナスは13世紀のイタリアの高名な神学者で、ラテン語で書かれたその著書 「神学大全」 は聖書と並び称されるほどの大著である。 ミロにはとんと縁のない代物で、屋敷にこもっていた時間を無駄にはしていなかったカミュの博覧強記ぶりに驚かされる。
ミロのひそかな驚嘆をよそに、枢機卿とジョセフ神父に挟まれたカミュは右側からの好奇の視線を気にしなくてよくなったのでかえってほっとしたようで、 ラテン語を引用しながらジョセフ神父と天使の話をしている様子は楽しそうにも見える。 国王がカミュに興味を示すかどうかはまだ未知数だが、宮廷社会からカミュが排斥される恐れはなくなったとみてよいだろう。

   リシュリューの布陣は鉄壁だ!
   これでカミュを誹謗する者は一人もいなくなるだろう

内心頷いているミロの横でリシュリューが口髭をひとつひねった。



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