その48  リュイーヌ

次々と通り抜けていく部屋にはたくさんの廷臣や貴族たちがいて、枢機卿がやってきたのを見ると一様に軽く会釈する。 ごく普通の光景だが今日ばかりはそのあとが違う。 顔を上げたあとでカミュを見て申し合わせたように驚きの表情を浮かべるのだ。 しかし疑問や蔑視の囁きは枢機卿の赤いマントとジョセフ神父の灰色の僧衣が封じてしまう。 一行が次の部屋に去ったあとでは一斉にしゃべり始めるのだろうが、奇異なものを見たという感想に加えて、枢機卿が認めているらしいという観測が新顔のカミュの存在を容認させるに違いなかった。
その中にレオナールとディスマルクの顔が見えてミロを面白がらせた。 二人ともあっと驚いた顔で口をあんぐりと開けて互いをつつき合っているのも無理はない。 事態があまりにも急に展開したため二人に説明する暇もなければ思い出しもしなかったのだが、護衛隊と反目している銃士隊に肩入れしているミロがその護衛隊の設立者のリシュリューと一緒にルーブルに来ていることについてはあとで説明しなければならないのはいうまでもない。 もっとも、宮廷に来たことのないカミュがいるのを見れば、それに関係した話だと推測するに違いなかった。

廊下というものがないルーブルでは通り抜けてゆく部屋にはたくさんの人間がいるものだ。 ことの成り行きを見ようとあとについてくる人間の数がますます増えてきてカミュの頬がさらに紅潮してきたのがわかるがミロにはどうしようもない。
早く終わるようにと祈りながら次の部屋に入るとそこにいたのはトレヴィル侯だ。 こちらに顔を向けていたのですぐわかったが、驚いたことに侯と話していた何人かの貴族のうちにミロの父のトゥールーズ伯もいる。 あとの二人も格式の高い大貴族で、新規に取り立てられた貴族ではそばを通るだけでも緊張するような雰囲気が漂っているのはたいしたものだ。

    …え? どうしてここに?
    父上は、いつパリに戻られたのだ?

ミロたちがトゥールーズを発つときにはそんな気配はなにもなく、夏が終わって社交シーズンが始まる秋に合わせて、あと半月ほどしてからパリに戻ると聞いていた。 今朝は屋敷にいなかったのだから、ミロたちがパレ・カルディナルに出発してからパリに着いたということになる。
カミュもすぐに気づいたらしく神学の話が途切れたとき、リシュリュー一行が入ってきたのに気付いたトレヴィル侯が満面に笑みを浮かべて近寄ってきた。
「これはリシュリュー殿、今日もご精勤ですな。…… ほぅ!それがあの! ふむ、家内の言った通りの見事なルビーだ!」
いかにも大貴族といった風采のトレヴィル侯にしげしげと見られたカミュが真っ赤になった。
「カミュ・フランソワ・ド・アルベールです。 どうぞお見知りおきを。」
どきどきする胸を押さえながらそれでも優雅に礼をするところはそつがない。
「ぜひうちのサロンにも来たまえ。 家内も楽しみにしている。 むろん、子爵も一緒に来てトゥールーズの話を聞かせてもらいたいものだ。 君の父上は謙虚すぎて自慢話が聞けなくてね。 鹿狩りが素晴らしいそうじゃないか。」
「これは恐れ入ります。」
こう言われると、次の鹿狩りに招待するのが礼儀だが、三男のミロが父親の目の前で侯を招待できるはずもない。 言葉を切って会釈したところでリシュリューが話に加わってきた。
「トゥールーズの鹿狩りは実によいものだ。 丘陵は変化に富み、馬を走らせるには最高の条件を備えている。 それに新しい友人もできて、楽しいことこの上ない。」
そう言ってカミュに目配せしたので、言われた本人は真っ赤になるし、それを聞いた貴族たちは枢機卿のカミュに対する厚遇ぶりにさらに驚嘆することになった。
「過分にお褒めいただき光栄ですな。 では秋の鹿狩りには皆様でお越しください。 丸々と太った鹿ともども、おいでをお待ちしております。」
トゥールーズ伯が威厳たっぷりに一同を招待して、招かれた側も礼を言う。 トゥールーズに招かれるはずもない格式の低い小貴族たちはこのやり取りを羨望の眼差しで見るだけだ。 よほどのことがない限り、彼等がトゥールーズに足を踏み入れることがあるはずはない。
さらに人数の増えた一行が通ってゆく部屋では、政治談義や恋愛の噂話に花を咲かせていた貴族達が怱々たる顔触れに目を丸くして腰をかがめて会釈する。 ミロとカミュの若さが目立ち、なかでもカミュの目に気が付いた者は一様に驚きの表情を浮かべるのだが、もはや何も言えはしない。
「次が謁見の間だ。 正式な名は瑪瑙の間だが、国王がこの部屋で様々な謁見を行うことが多いので誰も正しい名では呼ばなくなった。」
リシュリューに言われたカミュが頷いた。 いよいよ国王に会うのかと思うと緊張して声も出ない。
「心配しないで私に任せていればいい。 叙位の謝辞は覚えているかね?」
「はい。」
「それで十分だ。」
傍らで聞いているミロも緊張で胸が高鳴るのを抑えようもない。 カミュの運命はこの一瞬にかかっているのだ。
謁見の間に入ると、左手の大きなテーブルの回りを何人かが囲んでいた。 大きな地図を広げながら盛んに論議をしていたが、枢機卿の一行が入ってきたのに気付いて全員がこちらを見た。 その中の一人がリュイーヌだった。
シャルル・アルベール・ド・リュイーヌは、王室の大鷹匠だったのを国王ルイ13世に見いだされ、ついに公爵となり大元帥の地位にまで上り詰めた男だ。 持って生まれた天性の美貌は誰しも認めるところで、男色を好む国王の性癖を知り尽くしたリュイーヌは、スペインから来た王妃アンヌ・ドートリッシュの憂愁をよそに王寵を独り占めにして権力の座に居座り続けている。
王統を途絶えさせかねない成り上がりのリュイーヌの傲慢な振る舞いを古い家柄の貴族たちがよく思っている筈はなく、うわべでは愛想よくしていても内心ではみな苦々しい思いでいるのだった。 国王が王妃とよりを戻さないのを望むのは、リュイーヌと次の国王の座を狙う王弟ガストン・ドルレアン公くらいのもので、それに気付かずリュイーヌを寵愛する国王にもおおいに問題があった。
「リュイーヌ公、国王陛下はまだおいでではありませんかな?」
「陛下は来月の舞踏会の衣装の仮縫いをしておられるが、まもなくお見えでしょう。 私も昨日からこの案件に掛かり切りでしてね。」
「それはお忙しいことだ。 私の忙しさなど足元にも及ばない。」
澄ました顔で言うリシュリューが、ちらと机上の地図に目を走らせた。 イギリスとの間にあるドーバー海峡に面したフランスの港湾の守備隊の再配置図が示されており、目下の懸案の一つであった。 大元帥とはいうものの、戦略的才能はないに等しかったリュイーヌはのちに自らの失策が祟って失意のうちに病死するのだが、この名誉ある地位について間もないこの頃は王威をかさに来て飛ぶ鳥落とす勢いだ。
しかし、フランス西部の司教から頭角を現し、初めて出席した三部会でルイ13世の母后マリー・ド・メディシスにその政治的才覚を認められ、ついに国内のキリスト教会最高位の枢機卿でありながらフランス一国の宰相にまでなったリシュリューは、そんなリュイーヌなど歯牙にもかけぬ。 なにも言わないリシュリューにむっとしたらしいリュイーヌが、ひときわ若くいかにも場慣れしていない様子のカミュに気が付いたのはその時だ。 ルビーのような紅い目に驚き、次には面差しが自分とあまりにも似通っていることに目を見張る。
リシュリューの横で冷静に観察していたミロにはリュイーヌの心理がよくわかった。

   ようやく気付いたか!
   しかし、カミュのほうがはるかに清新で美しい!

かつては清純だったろうリュイーヌも、王寵に狎れた今では驕慢と放縦が表に現れている。 国王がそれに気付いているかどうかはわからないが、カミュと比べれば一目瞭然だ。 国王が初めて見るカミュの清廉な美しさに瞠目するのは間違いのないところだ。
わずかに不快の色を浮かべて唇を引き結んだリュイーヌがカミュを国王に引き渡さない決意をしたのも当然だろう。 新顔のカミュに寵愛が移れば失脚するのはリュイーヌである。 リシュリューと動機はまったく異なるが、そのことについて一言も交わさぬうちから、カミュを国王には渡さないという同盟が暗黙のうちにできあがった。
「はて、そちらには初めてお目にかかるが?」
そ知らぬ顔を装ったリュイーヌが尋ねた。
「彼はアルベール伯の嫡子で、このたび叙位のお礼言上に来たのですよ。」
「初めまして。 カミュ・フランソワ・ド・アルベールです。 どうぞお見知りおきを。」
リシュリューの紹介に続いてカミュがいとも典雅に身をかがめ口上を述べた。 もう何度も繰り返した台詞だし、このあとの国王との謁見を思うと側近のリュイーヌに対しては力まずに自然に振舞うことができた。
「ほう! 叙位の。 それはそれは。」
若いカミュのさわやかな挨拶と優雅な身のこなしがリュイーヌの嫉妬を煽る。 贅を尽くした華美な衣装に身を包み、流行り始めたばかりの髪粉をふんだんにかけて手入れしている自慢の髪も、挨拶のために低く身をかがめたカミュの艶やかな長い髪がさらりと揺れたのには劣るような気もしてくる。 新しもの好きな国王の嗜好を知り尽くしているリュイーヌとしては、焦燥を覚えないわけにはいかない。
そのとき隣室から国王ルイ13世が現れた。



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