その7  ブーローニュ

初夏を迎えた爽やかな午後のことである。 サン・トレノ街にあるアルベール伯爵家の正門が開き、一台の馬車がゆっくりと走り出た。二頭の馬はいずれも手入れの行き届いた若い栗毛で、背筋を伸ばした御者のお仕着せも立派なものだ。
とくに急ぐでもなく市内を巡っていた馬車はやがてパリの西に広がるブーローニュの森にやってきた。貴族の別荘が多く集まる地区からもほど近く、あふれる緑と点在する庭園が美しいこの森は格好の散策の地なのだった。
「池の周りを巡ってくれ。水面を渡る風が心地よいことだろう。」
「はい、カミュ様。」
同乗していた従僕のプランシェが小窓を開けて御者に指示すると、馬車は進路を変えて池の周囲を巡る路に乗り入れた。散策にはよい季節でアイリスやバラの花があちこちに咲いている。
「もう少し風を入れよう。」
その声にプランシェが左右の窓を引き下ろす。 池では白鳥が優雅に羽根を広げ、緑の芝生には敷物の上に腰を下ろしておしゃべりに余念のない婦人たちの姿があちこちに見えていた。
「あっ…!」
「どうなさいました?」
「ハンカチーフが風に…」
外を見ていたカミュが手にしていた白麻のハンカチーフを取り落としたと見え、プランシェが窓から顔を出そうとしたときだ。後ろから馬蹄の音が近付き、一頭の馬が馬車に並んだかと思うと扉の横をコツコツと叩く音がする。どうやら見知らぬ乗り手が叩いて合図しているようだ。
「馬車を止めよ。」
御者が路の端に寄せて止めたところで、馬上の金髪の青年が窓の中を覗き込んだ。
「ハンカチーフを落とされましたね、どうぞお受け取りください。」
それがまた、あいにくカミュの座っている側の窓だったので、慌てたプランシェが主をかばうようにして身を乗り出して受け取ろうとしたところ、カミュに軽く制された。
「よい。 私が受け取ろう。」
えっ、と息を飲んでいるプランシェの横でカミュが青年に話しかける。
「ご親切、痛み入ります。」
「いえ、たいしたことではありません。 お役に立てて何よりです。」
長年仕えている主のカミュが見知らぬ他人に話しかけるところを初めて見たプランシェの驚くまいことか。

   これは驚いた! あのカミュ様が人とお話しなさるとは! いったいどうした風の吹き回しだろう?

馬車で出かけるときもなるべく奥に身を引いて人目に立つのを避けているのが通例なのに、窓を大きく開けさせたところからして普段とは違っているし、ましてや、自分の顔を見られる危険を冒してまで見知らぬ男に礼を言う必要などあるはずがない。
自分の頬をつねりたくなるのを我慢して控えていると、さらに驚いたことには二人が自己紹介を始めたではないか。
「私はカミュ・フランソワ・ド・アルベール、住まいはサン・トレノ街です。よろしければぜひ一度お訪ねください。」
「これはかたじけない。 私はミロ・スコルピーシュ・ド・トゥールーズ、では近いうちに。」
それきりで会話は終わり、プランシェが思いがけない出来事に目を白黒させているうちに馬上の青年は馬を返して去っていってしまった。
「プランシェ、馬車を。」
唖然として窓から身を乗り出すようにして青年を見送っていたプランシェは、カミュのその声に気付かずに繰り返して言われる破目になり、忠実な従僕の身にあるまじきこととおおいに赤面したのだった。

「…というわけでございます。」
「ほぅ、そんなことが!」
「とても信じられませんわ! でも、嬉しいこと!」
帰邸したカミュが部屋へ入った後で、さっそくプランシェがアルベール伯夫妻にくだんの件を報告したのは当然である。
「で、その青年はトゥールーズと?」
「はい、確かに、ミロ・スコルピーシュ・ド・トゥールーズと名乗られました。」
初めて聞いた人の名でも瞬時に覚えてしまうのが優秀な従僕の必須条件である。これがたとえジュール・セベスチャン・セザール・デュモン・ド・ウルヴィルだろうとルイ・アントワーヌ・レオンフロレル・ド・サン・ジュストだろうと、覚えていられないのでは話にならない。ついでに言うと、このときのプランシェは、ミロの身につけていた衣服の仕立ての良さや襟元のレースの繊細さ、馬具の見事さなどもしっかりと頭に入れてアルベール伯に報告してもいる。いくらカミュの振る舞いに仰天していても、見るところはしっかりと見届けているのが優秀な従僕というものなのだ。身元の怪しげな人物が大事な主人と関係を持つなど、とんでもないことである。
「すると、トゥールーズ伯のご子息のどなたかだろうか? たしか伯にはご子息が3人おいでの筈だ。」
「カミュが自分から招いたといたしますと、明日にでもおいでになるかもしれませんわね。どうか、親しくしてくださるとよろしいのですけれど。 ともかく、いつおいでになってもいいように、さっそく用意をいたしませんと!」
上気した夫人は侍女たちを呼び、あれこれと指図を始めた。

一方のカミュは部屋に入って一人になると、ほっと額の汗をぬぐった。 朝からの緊張が解けて一気に疲れが出るようだ。

   ミロは私の目をどう思ったことだろう………

カミュの部屋には鏡がない。 おのれの紅い瞳を見るつらさに耐え切れず、何年も前に取り片付けさせたままなのだ。
そんな自分がついに昼間にミロと会い、面と向かって話をしたことが夢のように思われる。それでもとてもミロの顔を見ることができず、襟元の素晴らしいレース飾りばかりを見つめてしゃべっていたことが記憶に残っている。
何日も前から細かいところまでミロと打ち合わせをして臨んだこの計画は、初日には急な雨で挫折をし、二日目には池の周囲の人が多すぎて頓挫をし、ようやく三日目にして成功したのであった。
「窓からハンカチーフを落とす?」
「いささか古典的に過ぎるが、たぶんうまくいくだろう。 拾ってもらった礼に自宅に招くのもよくある話だ。」

   もっとも、わざとハンカチーフを落として拾わせるなんていうのは貴婦人が男の気を引くときの常套手段なんだがな
   男同士でハンカチーフの礼に訪問っていうのは大袈裟すぎる、 まず有り得ない

とはいえ、他には正面切ってカミュと面識を持つ手段が思い当たらなかったのだから仕方がない。
聞けば、アルベール伯夫妻はカミュに一人の知人もいないことを悲しんでいるし、突然すぎる出会いにもトゥールーズの名前がおおいに効果を発揮するのは疑いがなかった。
こうして六月のある日、金髪の青年貴族がサン・トレノ街を訪れることになったのである。