その9  プチフール

それからミロの訪問は三日に一度のペースで続き、二回目にはカミュの美しい姉たちにも紹介された。カミュより3歳上のアフロディエンヌと1歳上のシュラーヌは面差しがカミュとよく似ているものの、髪は明るい栗色で目は茶色なのだ。二人ともカミュに友人のできたことを素直に喜んでミロに親しげな微笑をみせるのが好ましい。こんなふうに、カミュの家族関係が明るいということがミロを心底ほっとさせる。時々はカミュがリュートを、姉たちがチェンバロを弾いて皆で楽しいひとときを過ごすこともあり、ミロを迎えたアルベール家には今までにはなかった明るさが見えてきた。
やがてひと月もすると、階上のカミュの私室に案内されてそこでお茶を飲むようになってきた。ミロの誠実な人柄に惚れこんだアルベール伯が 「若い者同士で気楽にどうぞ。」と勧めてくれたのである。
むろん通されたのは例の寝室に隣り合った居間の方で、プライベートな寝室に客が通されることなどあるはずもない。
アルベール家は パリ市内としてはなかなか広壮な屋敷を所有しており、当然のごとく家族一人ひとりが組み部屋を持っている。婦人であればこのほかに化粧室や衣裳部屋もあるものだが、カミュの場合は小ぶりな化粧室が寝室に付属しているだけだ。
人の寝静まった夜に忍び足で通っていた廊下を今日は壁の絵などゆっくりと眺めながら歩いているのが可笑しくてミロは懸命に笑いをこらえている。通された居間を夜に少しだけ覗いてみたことのあるミロだが、昼間の光で見るのは初めてだ。眩しいほどに日差しの差し込むその部屋は明るいグリーンで統一されて趣味のいい家具と壁一面の本棚が住み手の好みを思わせた。
「ああ、これはいい! ここにこんなに本があるとすると、寝室の本はここに入りきれなかった分ということか?」
感心したミロが寝室への扉を指して、
「ちょっと覗いてもいい?」
とカミュの確認を取ってから半分ばかり開けてみた。
寝室の方は落ち着いたブルーのしつらえで、「 もしかしたら青かもしれない 」 くらいにしか思っていなかったミロの印象が正しいことが証明された。 そのくらいに蝋燭の灯り一つだけというのは暗いのだ。今は窓からの光でたいそう明るいこの部屋もミロが訪れる時分にはしっとりとした夜の色で満たされる。美しい瑠璃色の被布で覆われたベッドが昨夜の逢瀬を思わせてどうにも面映いのだった。
「ここは夜の部屋だから…」
なにかを思い出したらしいミロが少し赤くなって扉を閉めて、負けずに顔を赤らめているカミュと目があってしまい思わず笑っているとプランシェが銀の盆にティーセットとプチフールを載せてやってきた。素知らぬ顔で給仕を受けて、さてプランシェが行ってしまうとミロが すっと立ち上がった。
「カミュ…」

   ……え?

と思ったときには手を引かれ、ミロの青い瞳が目の前に迫ったかと思うと唇を重ねられている。

   あ……………こんなに明るいのに……

慌てたカミュがミロの腕の中でもがくと名残惜しげにそっと唇が離される。
「キスだけだから………いいだろう?」
「ん……」
この頃ではカミュもやっと呼吸のコツをつかんだものとみえ、そんなに困ることもない。とはいえ明るい日中にキスをするのは初めてで、動悸が高まってくるのは二人とも同じなのだ。よせばいいのに、
「続きはまた今夜……」
などとミロが言うものだから、カミュはますます真っ赤になってしまうのだ。 なんとかして落ち着こうと紅茶に手を伸ばしたカミュだが、手が震えてしまいカップがカタカタと音をたてて踊ってしまう。
「あ……」
「すまん、驚かせた。 もうしないから。」
くすっと笑うミロにはカミュが可愛く見えてしかたないらしい。 それと察したらしいカミュが頬を赤くするのもそれに輪をかける。
「ところで、この次は俺のところに来ない?」
「え………ミロの……トゥールーズ伯の屋敷に?!」
「ああ、ここには何度も来てずいぶん親しくなった。 そのうちトゥールーズに行くんだから、その前にパリの屋敷にも来てもらいたいんだが、どうかな?」
さすがにカミュは蒼ざめる。 自分の屋敷でこそ自由に振る舞っているものの外の世界には一歩たりとも足を踏み入れたことはない。ミロの言うことはもっともだが、ミロ以外の何人もの目に晒されるというあまりにも緊張する訪問に耐えられるだろうか。
「父上が在宅だと客も多いが、いまは母上とともにトゥールーズに滞在中だから屋敷は静かなものだ。使用人にもよく言っておくし、俺がいつも一緒にいるようにするから大丈夫だよ。 どうかな?」
「あの………それはたしかにそうだと思う……………ほかの屋敷に行けぬようではトゥールーズにも行けるはずはないから。」
そう言いながらカップを持つ手がまた震えてしまうのは如何ともしがたいのだ。ミロを通して外の世界が目の前に開けてきたカミュが通らねばならぬ関門は数多い。
「最初は緊張するだろうが、そのうち慣れる。 俺と一緒に徐々に広い世界を見に行こう。」
「わかった、よろしく頼む。」
カップを両手で包むようにして一口飲むと、ミロが丸いプチフールを一つつまんで差し出した。
「え?」
「では、これを食べて。 次の約束のしるしだ。 ほら、口を開けて.。」
戸惑いながら開けた口にプチフールが入れられて甘いショコラの味が広がった。
「次は俺にも。」
「あ………では、これを。」
催促されて真紅のラズベリーが一粒載っているのを選ぶ。
「入れて。」
身を乗り出したミロの口に恐る恐る入れたとき、手首を軽くとらえられた。
「あ……ミロ! なにを……」
カミュの白い人差し指を口に含んだままでプチフールを飲み込んだミロは、クリームがまとわりついた指を離してはくれないのだ。青い目が悪戯っぽくカミュを見詰め、その濡れた温かい感触がカミュの背筋をぞくりとさせた。
「ミ…ロ………あ……」
ひそやかに愛を交すようになってまだ間もないカミュにはこのような仕草を想像することもできなくて、頭にかっと血がのぼる。全身がほてってきて、 ついにはミロに手を預けたままぐったりと椅子にもたれかかってしまうのだ。たえかねたように洩らされる吐息も甘く震えてしまう。
「カミュ………大丈夫? 俺、いけなかったかな?」
気がつくと傍らに膝を付いたミロがいて、流れる髪を梳いていてくれた。
「ミロ………あの………あんなことをされては私は困るから………………あれではミロの屋敷には行けないから…」
途切れ途切れにやっとそれだけ言うと、今度はミロが慌てたようだ。
「すまない! たしかに俺が悪かった! もう、しない、誓うから!」
「………ほんとに?」
潤んだ紅い瞳がミロを見る。
「誓うよ、昼間は余計なことはしない! 夜だけにする。 それならいいだろう?」
「え……あの………」
「ふふふ………大好きだ、カミュ。」
明るく笑うミロには、ほんとうにかなわないのだ。