その4 ミロ、焼き菓子を入手する
人目を避けて搭の部屋を訪れるのは気を使う。
誰もみな昼間の疲れからぐっすり寝ているとは思うのだが、万が一ということもある。
ミロを酒の相手にしようなどと考えた男が部屋を訪ねてきて誰もいないのを不審に思ったときに、螺旋階段を降りてきたミロが秘密の扉を開いて顔を合わせようものなら最悪だ。
しかしミロとしては、アイオリアを下の部屋に残しておいて自分だけが姫の部屋に行こうとは考えていない。
深夜に男一人で女性の部屋に行くのはどうにも居心地が悪いのだ。 最初の晩こそ女たちを恐がらせないためにアイオリアを階段に残していたが、事情がわかって平和目的の訪問となった今は長い付き合いのアイオリアにさえ余計な憶測はされたくない。 それに相手がこの城の姫となれば、その貞淑に疑いをかけられるようなことがあってはならないのだった。
窓の無い螺旋階段は真の闇だ。 カーブしている壁に手をつきながらぐるぐると上っているとまるで自分が閉じ込められているような気分になってくる。
「鼻をつままれてもわかりませんね。 部屋に入れば少しはものが見えるでしょうが。」
「あの部屋の窓も小さいからな。 今日は月も出ていない。 人の顔もろくに見えないだろう。」
「姫もマリンも美しい顔立ちだと思うのですが、どう思います?」
「そうだな………最初の夜はおぼろげながらなんとか顔が見えたが、たしかに美しかったと思う。
気になるか?」
「それはまあ………ともかくカノンには渡せません!」
「むろんだ!」
てっぺんに辿り着き合図のノックをすると人が寄ってくる気配がして慎重に扉が開かれた。
「おいでなされませ、ミロ様。」
ささやくようなマリンの声がする。
「遅い時刻にすまない。 お変わりはないか?」
「はい、おかげさまで無事にいたしております。」
「今日はこんなものを持ってきた。 少しは喜んでいただけるといいのだが。」
そう言ったミロがテーブルに置いたのはクルミや干し葡萄の入った素朴な焼き菓子だ。
一階の食堂で夕食を済ませたミロがなにか気の利いたものはないかと厨房に入ってみると、ちょうど料理番が向こうのドアから出て行くところで、テーブルの上のこの焼き菓子が目に付いた。
俺が来るのを待ってたみたいじゃないか!
今夜の姫の夜食にはぴったりだ!
まだ暖かいそれをありあわせの布に包んでふところに捻じ込んだミロは意気揚々と4階の部屋に引き上げた。
少しばかリ形がいびつになったが上々の収穫だ。
「まあ! 嬉しいこと!」
マリンの後ろから覗き込んだ姫が声を上げる。
「姫はこうしたものがお好きか?」
「はい、とても。 ほんとうにご親切ありがとうございます。 」
すぐそばにいる姫からきれいな声で礼を言われて胸の踊らぬ筈はない。
これで顔が見えれば嬉しいのだが
今のままでは昼間に他所で会っても、声を聞かない限りはお互いがわかるまい
ミロとしても昼の明るい光の中で姫の顔を見てみたいのだが、いったいいつになることか。
運命が悪いほうに転がり落ちれば、ミロが姫の顔を見るのはカノンの前に引き出されて蒼ざめているときかもしれぬのだ。
この部屋には椅子がない。 せめて姫たちの座る椅子くらいは運んできたかったのだが、城の中の椅子はどれもこれもどっしりとしたオーク材でできていて、男二人の力をもってしてもあの真っ暗な螺旋階段を音を立てずに運び上げるのは至難の業だ。
たった一つの小さなテーブルの周りに集まって声をひそめて話をする4人の距離は通常では考えられぬほど近い。
「この部屋は何のために作られたのだろうか? 五階の廊下の端にこの搭に上るための螺旋階段があって、初日の捜索では何人もがそこを上って搭の上の部屋に入って誰もいないのを確認している。
その部屋はここのすぐ上にあるはずだが、屋上に出られるので今夜も夜通し見張りが立っている。
俺たちがこの部屋を見つけたのはまったくの偶然で、まさか二重の螺旋階段になっているとは思いもしなかったが。」
「万が一のときのための隠し部屋だと父上から聞かされています。 どこに逃げることもできませんが、味方が城を攻めて奪い返してくれさえすれば自由になれるはずですから、それまでの一時しのぎだったのでしょう。
この部屋のことは家族しか知らされておりません。 ミロ様のようなやさしいお方がここを見つけてくださいましたのは神様のお導きですわ。」
にっこりと微笑んだらしい姫が焼き菓子に手を伸ばした拍子に同じ菓子を取ろうとしたミロの手が触れた。
「あ………これは失礼を!」
「あら……」
手を伸ばせば触れ合えるほどに近いので、そんな気配はマリンにもすぐにわかったようだ。
「まあ、なんてことでしょう! 姫様のお手に触れるなど、世が世なら許されませんわ。」
「ここではそんなことは言えないわ、マリン。 ミロ様がこれほどおやさしい方でなければ私たちはもうこの世にはいなかったことでしょう。
それを思うと……」
「姫様………」
思わず涙ぐむ二人の様子に慌てたミロが、厨房で菓子をくすねた話をし、そのあとで料理番がカンカンに怒ってその辺りにいた男達を怒鳴りつけたという話を急遽こしらえあげたのでこぼれる涙が危ういところで笑いに変わったのだった。
無礼講といってもいいくらいに近い距離とはいえ、姫と話をするのはミロだけで、アイオリアはもっぱらマリンと話すことになる。
主筋のミロだから姫と話す資格があるのであって、家来筋のアイオリアにとってトゥールーズの姫は遥か高みの存在だ。
「すると、姫君の乳母があなたの母上ということですか?」
「そうですわ、畏れ多いことには姫君はわたくしをまるでほんとうの姉妹のように遇してくださいますの。
あなたはミロ様のご家来?」
「私の母もミロ様の乳母でした。 同じですね。」
「あら!」
立場が同じとわかるとそれなりに話も弾む。 手を伸ばせば触れるほどの距離にいながら互いの顔もほとんど見えないという不思議な関係がいつのまにか親しい気持ちを起こさせる。
そうやって30分ほどいろいろなことを話してからミロが別れの挨拶をしてこの夜の訪問は無事に終った。
「ミロ様、これからどうなるのでしょうか? 我々もいつまでもこの城にいるわけでもありますまい。」
ミロの寝具を整えながらアイオリアが話しかけてきた。
「そのうちにカノンの指示があるだろう。 周辺の村に新しい領主がカノンだと周知徹底されれば多くのことが軌道に乗る筈だ。
そうすれば俺たち徴用組は故郷に帰れる。」
「そのときになんとかして姫たちを連れ帰れないでしょうか? この城の外に逃がすだけではどうにもなりません。 すぐに捕まってカノンの前に引き出されることになります。」
「それは俺も考えてはいるが、どうにも難しい。 いざ帰郷するときには閲兵があるのが普通だからな。 男装させても華奢な女の身ではすぐに見破られてしまうだろう。」
見捨てていくことはとてもできないが、かといってどうすれば姫を無事に助け出せるかの妙案はない。
焼き菓子のようにふところに入れられたらいいんだが………
もし俺が見捨てていったら飢え死にだ そのくらいならいっそのこと……!
胸をよぎった不吉な考えをミロは慌てて打ち消した。女二人を連れて強行突破を図るなど正気の沙汰ではない。追われた挙句に
取り囲まれて姫の目の前で嬲り殺しにされるのは確実だ。
どうすれば姫を連れ出せる?
考えろ! 考えるんだ、ミロ!
思いあぐねたミロが眠りについたのは夜明けに近かった。
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