その5  アイオリア、先を越す

何日も続けて殺伐とした戦後処理をしていると若いミロといえどもそろそろ嫌気がさしてくる。
なんの不足も感じていなかった男同士のざっくばらんなつきあいよりも搭の部屋で姫と語らうやさしい時間が恋しくなるのも当然だ。 夕暮れ時に城に戻ってくると姫の顔が早くも目の前にちらついてどうにも落ち着かず、もっともらしい口実をこしらえ上げて自室に戻ろうとするのだが、そうは問屋が下ろさない。
「やっとのんびりできる! 一杯やろうぜ!」
このときばかりははるか離れた四階というのが災いし、一階の広いホールや食堂にたむろしようとする同輩に腕をつかまれて酒を飲もうと誘われてはミロに断る理由はない。 城に入れる身分の中では一番若いのでどうしても付き合わざるを得ないのだ。
「この時間が唯一の楽しみだ!俺はもう動かんからな!」
「トゥールーズも手に入ったことだし、早く村に帰って自分の屋敷でゆっくりしたいものだ。 血なまぐさいことはもう御免だな。」
「さて?カノンはご機嫌だからどんなもんかな? 」
「好きにさせておくさ! 戦はもう終ったんだから、俺たち徴用組には関係ない! カノンの相手は直属組と女に任せておけばいいことだ。 早く子供の顔が見たいぜ。」
「女房の顔も、だろう!」
「当たり前だ!そう言うお前も可愛い恋人に会いたくて仕方がないんじゃないのか?」
「ああ、帰郷したら真っ先に会いに行く! 一晩中抱きしめて離さない! 俺の腕の中で泣くほど歓ばせてやるさ!」
「言ってくれるぜ!」
賑やかな笑いが起こったところで真鍮のグラスにワインが注がれ、座は一段と賑わいを増した。
そこへ厨房から大皿に盛られた料理が次々と運ばれてきて男達の手が一斉に伸びる。 ミロが適当に話を合わせていると、一人の男が自慢げに言った。
「ところでこんな話を知ってるか? 東ローマ帝国の皇帝がイスラム人にアナトリア半島を占領されて、その救援をローマ教皇に依頼したのだそうだ。」
「ああ、それなら聞いたことがある。」
「で、去年クレルモンで開かれた会議で教皇がイスラム教徒の手から聖地を奪回しようと呼びかけて、それに大いに賛同したフランスの騎士たちの間で十字軍を編成しようという動きがあるそうだ。」
「十字軍? それはなんだ?」
「キリスト教徒の正義の軍であるということだろう。 なんでも参加者には罪の償いの免除が与えられるという。」
「免罪符か! そいつはすごい!」
「教皇が、神のために武器を取るように、と呼びかけると、大勢の騎士が " Dieu le veult ! " と唱和したという。 神の御心のままに、ってことだ。 いいか、神の軍だぜ。」
「おい、そうすると、もしかしてその騎士の中にカノンも?」
「その通り! 去年、会議に参加すると言ってしばらく出かけていたのはそれだ! 俺の見るところ、カノンはじきに十字軍に参加するに違いない。免罪符がもらえるのなら今の無軌道ぶりも許されるからな。 願ってもない幸運だ。」
「カノンが十字軍に参加するときには俺たちも徴用されるかもしれんぞ。」
「ふうん、そいつは腕が鳴る!」
「そんなこと言って、女房はいいのか?そんな遠くまで遠征したら半年や一年は帰ってこれないぜ!」
「これから故郷に飛んで帰って思う存分可愛がってやるから大丈夫だ! お前に心配されなくても俺の女房は貞淑なんだからな!」
「わかった、わかった! 好きにしてくれ!」
降ってわいたような十字軍の話に花が咲き、酒があらたに注がれる。 興奮した男達と酒を酌み交すミロの胸の中に一つの計画が浮かんでいた。

その夜は鴨のローストとチーズを隠し持って部屋に戻り、夜更けてから螺旋階段を上っていった。パンと飲み水はアイオリアの担当でそちらのほうも抜かりはない。
「ミロ様、ずいぶんと匂いますね。」
「香水だとムードが出るんだが、目下のところは食欲ということだ。」
「そう思って、空き部屋から香水の瓶を見つけて幾つか持ってきました。 きっと姫とマリンが喜ぶことと思います。」
「ほぅ!そいつは気が利くな、いい考えだ。」
毎晩のように姫たちの欲しがりそうなものを見つけては持ち込んでいるので初めは殺風景だった部屋もずいぶんと潤いを増してきた。 といっても夜中にしか訪れないミロたちには想像するしかないのだが、夜毎の姫の感謝の言葉がこころよく胸をくすぐるのだ。 野で見つけた名も知らぬ花を折り取って手頃な花瓶に入れて持っていったときには、感激した姫が花を胸に押し当てて涙を滲ませ、
「なんておやさしくていらっしゃるのでしょう。 ミロ様にお目にかかれた幸運を思えば、いつ死んでも悔いはありません。」
と言って闇の中でミロの手にそっと触れてきたものだ。 どきっとしながらそっと指先に唇を寄せたのはマリンにもアイオリアにも気付かれなかったに違いない。
案の定、アイオリアの持ってきた香水は女性達をいたく喜ばせた。
「ほんとにご親切に! まあ、これはローズね!」
「姫様、こちらの瓶はラベンダーですわ!」
暗い中で瓶の蓋を開けたらしく甘い香りが漂った。
「ああ、嬉しいこと! 」
「心が浮き立つようですわね!」
声をひそめて楽しい話をしていると時間はまたたく間に過ぎてゆく。 遅くなったからと辞去するときにはマリンだけでなく姫までもがドアのところまで来て見送ってくれた。
弾む心を楽しみながら螺旋階段を降りているとミロの嗅覚が闇の中でなにかを捉えた。

   この香りは………ラベンダー?

階段を降り切って室内への秘密の扉を開けるとき、必然的に二人の身体は近接することになる。
「アイオリア。」
「はい、ミロ様。」
「ラベンダーの香りがするな。」
「えっ………あの、それは……きっと、さっきマリンの隣りに立っていたのでそのときに香りが移ったのでしょう。」
「俺も姫の隣りにいたが、ローズが匂うか?」
「………いえ……なにも……」
「……そうか。」
その後は二人とも言葉少なに寝床にもぐりこみ、やがてアイオリアの幸せそうな寝息が聞こえてきたが、先を越されたミロはしばらくのあいだまんじりともしなかった。