その6  アイオリア、追い払われる

数日後、十字軍の話が現実のものとなった。 昼食時に主だった者を集めたカノンが誇らしげに演説をし一同をどよめかせたのだ。
「カノンを始めとして十字軍に参加する騎士は来月初めにマルセイユに集結し、陣容を整えた上でそこから海路と陸路とに別れ、聖地を目指すそうだ。 参加するものは各々準備を整えてマルセイユに向かうことになるので今夜限りでこの城を去り、明日はそれぞれの故郷に帰ることになった。」
解散後にアイオリアを見つけ出したミロが興奮冷めやらぬ口調で言う。
「いよいよ本決まりですか!」
「うむ、参加するか否かはともかくとして、我々には絶好のチャンスだ。 この機に乗じて姫たちを外に連れ出す。」
城の守備要員を残して全員が一斉に退去するとなればかなりの混雑になる。 喧騒と興奮の渦巻く城内では監視の目も行き届かない筈で、無事に脱出できる可能性はきわめて高い。
「ともかく女の恰好ではだめだ。 いささか細身過ぎるが男のなりをしてもらわなければならぬ。」
「兵士の服はなんとか用意できるでしょうが、髪はどうします?」
「むろん切らねばならぬ。 つらかろうが一時のことだ。 ここで命を落とすよりも髪を切ってでもこの場を逃れ再起を図るべきだ。 2、3年もすれば髪は伸びるが亡くした命は戻らぬからな。」
「は、それは確かに。 しかし、つらいでしょうな。」
「うむ……」
男でも髪を短くしている者ばかりではない。 現にミロの髪も肩より少し長いのだが、女の身でこの短さは苦痛に違いない。 ミロもアイオリアも見たことはないが、姫もマリンもさぞかし長く美しい髪に違いないのだから。
「故郷までは丸一日かかる。 それを理由に夜明け前に出立することにすれば我らの中に紛れていても目立つまい。 兜をつけてなるべく顔を見られぬようにしてもらう。」
細かい点をアイオリアと打ち合わせ、暗くなる前には男物にしては小さめの衣服も手に入れた。 城の内外は明日の退去を前に騒然となり、人の出入りも頻繁だ。 ミロが故郷から引き連れてきた子飼いの部下達にはギリギリまで姫たちのことは伏せておくことにした。 引き合わせれば女と気付くものもいるだろうが、目くばせ一つでミロの意向を汲んでくれるに違いない。
「城を出てから質問を受けるでしょうが、なんと説明なさるつもりです?」
「城で見つけた女を連れ帰る、結婚するつもりだ、とでも言っておけば良い。 かねてから父上には早く嫁をとれとの矢の催促だ。 驚かれるだろうが、みんなも祝福してくれるだろうさ。 」
「これは思い切ったことを! トゥールーズの姫を妻になさるとは!」
「なに、方便だ。 そうでも言わねば、いきなり女を同行する理由がないからな。 そもそもカノンの指揮下にいることには不満がくすぶっているのだ。 その鼻先から女をさらって我が物にするといえば喝采を浴びることだろう。 といって素性を明かせば動揺が走る。 妻を見つけたといえば、みなも笑って心を一つにするだろう。 ともかく無事に姫たちを連れ帰ることが肝要だ。」
「するとマリンのほうは私の妻ということにしますか?」
「その方が話が早いが、なにか異存はあるか?」
「いえ、なにも。」
ミロの見るところアイオリアはマリンにぞっこんだし、おそらくマリンの方もまんざらではない筈だ。 姫の気持ちについてはミロにも確信がないが、それについては考えがあった。

「そういうわけで明朝ここを脱出する。 急な話で驚かれるだろうが、ぜひとも協力していただきたい。」
いつもよりずっと早く現れたミロの話は二人を驚かせた。
「では、ほんとうにここから出られるのですね? 生きて自由になれるとおっしゃる?」
「ただし、そのためには髪を切ってもらわねばならぬ。 女のなりでは出られない。 気が進まぬだろうが、兵士の恰好をして我らの中に紛れれば不可能も可能になるだろう。」
「髪を……!」
姫とマリンが顔を見合わせた。 どうやら、男の恰好をすることよりも髪を切ることの方がはるかに重大なことらしい。
「あの………それは……今すぐ?」
「出立は早朝だ。 できれば早いほうが良いが。」
沈黙が下りた。 と、マリンが姫に何かをささやいた気配がする。 暗がりの中で二人がテーブルから離れミロたちには聞こえぬところでなにか話し合っているらしかった。
「髪は切りましょう。 そうしなければ出られないのですもの。 それであの……お願いですが……」
マリンが少しためらった。
「願いとは?」
返事をためらうマリンに代わり姫の声がした。
「マリンはアイオリア様に髪を切って欲しいとのことですわ。 そうお願いしたいのですが。」
「あ……私でよければ…」
アイオリアの声がかすれ、腰の剣に伸ばした手に震えが走る。そのときミロの声がした。
「そうはいっても、急に言われてすぐに髪を切るのもつらかろう。 急ぐには及ばぬ。 存分に別れを惜しんでからでも遅くはない。 アイオリア、マリンと二人で話がしたいか?」
「えっ!あの……はい!」
アイオリアがマリンを引き寄せたのが闇の中でもありありとわかる。
「それから俺も姫に話がある。 髪を切るのも任せていただこう。 それでよろしいか?」
「あ……はい…」
少しためらったのち姫のささやくような声がした。
「では、ここはミロ様にお譲りします。 話が長引いて夜明け近くになるやもしれませんが、よろしいですね。」
さすがにアイオリアは飲み込みが早い。
「こちらもご同様だ。 夜明け前に会おう。」
善は急げとばかりにマリンの手を引いて螺旋階段のほうに向かおうとするアイオリアに、さすがに慌てたのか、
「姫さま、あの………どういたしましょう?」
おろおろした声が聞こえてきた。
「今宵はマリンも自分のために時間を使いなさい。 私のことなら心配は要りません、すべてをミロ様に………」
姫の声が震えた。
「ゆだねます。」
「聞いた通りだ。 アイオリア、今夜は冷えるかもしれん、クッションを持っていけ。」
「では。」
短く言ったアイオリアが手近なクッションを掴むとマリンの手を引いて扉の向こうに消えた。
ミロが姫のほうに向き直る。
「俺は気の利いたことが言える性格ではないし、野に咲く花の名も知らぬ男だ。 それでも姫を大事に思う心は誰にもひけをとらぬ。 姫の気持ちを知りたい。」
「わたくしの気持ちは先ほど申し上げたとおりですわ、すべてをミロ様にゆだねます。 それからわたくしのことはカミーユと呼んでくださいませ。」
「では、カミーユ………俺のものになってくれるか?」
「喜んで……」

こうしてミロはトゥールーズのカミーユ姫と契りを結び永遠の愛を誓ったのだ。
初めて過ごす二人だけの夜は甘くせつない。 最後の夜になるかとも思うと、なにもかもがいとしく思われる。
「この髪は黒髪?」
「ええ、そうですわ。」
胸に触れる髪は艶々としてこころよい。 さらさらと流れ落ちる不思議な感触がそんな経験のなかったミロを驚嘆させた。 指に巻きつけて唇を寄せれば甘い香りが匂い立つ。
「切りたくはない、これほど美しいものを切るのはつらい。 むごいことだ。」
「いいえ、こうしてミロ様に愛でていただけたのですから思い残すことはありません。 ミロ様のお手で切って頂ければ本望です。」
「カミーユ……」
けなげな言葉にミロは胸を詰まらせる。 髪はいつかは伸びるとわかっていてもどんなにつらいことだろう。
「無事に俺の故郷に辿り着けたら結婚したい。 元通りに伸びるまでとても待ってはいられない。 髪が結えぬがそれでもよいか?」
「ミロ様…」
思い切って言った言葉の返答に熱い口付けが返されてミロをいたく満足させた。

窓のない螺旋階段にいたアイオリアが扉を遠慮がちに叩いたのはまだ夜も明けやらぬうちだ。
「ぁっ…」
姫が息を飲むのが聞こえ、ややあってからミロの落ち着いた声がした。
「夜明けにはまだ間がある。 いま少し待て。」
困ったアイオリアがどうしようかとためらったとき、
「あっ……そんな…」
かすかに聞こえてきたのは姫の声に違いない。 これにはアイオリアも苦笑せざるを得ないのだ。
「どうやらお取り込み中のようだ。 声をかけるのが早過ぎたらしい。」
「え!……どうしましょう。」
「知れたことだ。 良き家来は主人に倣うものだ。 そうは思わないか?」
「あら…」
階段を中ほどまで降りたアイオリアがマリンを抱き締めにかかった。