その7  ミロ、肝を冷やす

明けの明星が美しく輝くころになって合流したミロとアイオリアは姫とマリンに着替えの服を渡すといったん螺旋階段にしりぞいた。 今ごろは裾の長いドレスを脱ぎ落として溜め息をつきながら男の服に袖を通している筈だ。
暗い螺旋階段に並んで腰を下ろして黙っていると昨夜来のことが頭をよぎり、いつの間にか頬が緩んでしまうのも無理はない。 お互いに相手はどこまでいったろうと思うのだが、ことがことだけに単刀直入に聞くのもはばかられる。
「私は、」
アイオリアが沈黙を破った。
「帰ったらマリンと結婚します。 ご承知おきください。」
「ほう! だが、こんどは先を越されんぞ。 結婚式は二人同時だ!」
「ほおぉ! でも子供はうちが先に生まれますから!」
「いや、それも同じ日だ!」
一瞬黙ったアイオリアが笑い出し、我慢しきれなくなったミロも笑い出す。 
「ではよろしく頼む。 俺の子の乳兄弟というわけだからな。」
「お任せを。」
くすくす笑っているとドアを開けたマリンが二人を呼んだ。

「ほう………!」
暗い中にも朝の気配が漂い始めた部屋の中央に姫とマリンが立っていた。 着慣れない褐色の兵士の服を着た二人はいかにも居心地が悪そうで長い髪を解いているのが不似合いだ。
「では、残念だろうが髪を切らせていただこう。 明るくなる前に城を出るためには急がねばならぬ。 でもその前に…」
すっと近付いたミロが驚く姫を抱き寄せるとやさしく口付ける。
「髪が短くなっても心から愛している。 忘れないで。 俺の心は貴女のものだ。」
むろん、黙って見ているアイオリアではない。 マリンをぐっと引き寄せるとなにごとかささやいたあとそれはそれは熱烈なキスをしてミロに見せつけたものだ。
「ではお先に。」
真っ赤になったに違いないマリンの後ろに回り、長い髪をひとまとめに掴んだアイオリアが迷うことなく剣をあてがった。 聞き慣れない乾いた音がして長かった髪は首筋を半分ほど見せて短くされた。 ひそかに溜め息をついたマリンが軽く頭を振り兜をかぶる。
「許されよ。」
短く言ったミロが姫の黒髪をばっさりと落としたときには見ていたマリンが目の縁をぬぐった。
「泣くことはありません。 今日が新しい出発です。 わたくしたちに神のご加護があらんことを!」
決然と言った姫が兜をかぶり、一同を見る。
「では、参る。」
わずかばかりの大切な品を懐に入れたミロが螺旋階段のドアを開けた。 幾度も通ったこの階段を上ることは二度とない。 それぞれの想いを胸にミロは姫の手を取り、アイオリアはマリンの手を握り締めて闇の中を降りてゆく。
「部屋の外の廊下に俺の部下を待たせてある。 新顔が二人増えていることに驚くだろうが、誰にも文句は言わせない。 姫もマリンもくれぐれも口をきかぬように。」
最後の注意をしたミロが用心深くドアを開けてタペストリーを持ち上げた。 すこし明るくなった外の光が部屋の中をぼんやりと照らし、夜明けが間近いことを教えている。
廊下側のドアを開けたアイオリアが少し離れたところで待っていた兵を手招いた。 いずれもミロが故郷から連れてきた子飼いの部下で屈強な男ばかりだ。
「これから帰郷する。 激しい戦闘だったにもかかわらず一人も欠けることなく帰れるのは実に欣快だ。 それから二名増員することになったが気にするな。 詳しいことはのちほど話そう。 」
ここで全員の目がミロの後ろに立っている二人に注がれた。 兵の持っている松明に照らされた姿は妙に華奢で色白なのがはっきりとわかる。 男たちの鋭い眼光に射すくめられる思いの姫とマリンは心臓が縮むようで気が気ではない。
「しかし、若君、これはまるで女のような…」
いちばんの巨漢のアルデバランが言わなくてもいいことを言い、慌てた隣りのシュラに小突かれて 「うっ!」 と唸り声を上げた。 ほかの兵士はみな懸命に笑いをこらえている。
「カミュとマーリンだ。 目立たぬように皆で囲んでくれ。」
目くばせをしたミロに、たしかに女だと察した三十人ほどの兵が何も言わずに二人を中央にして隊列を作る。 各人の胸の中にはいろいろな憶測が渦巻いているのだろうが、ミロは気にかけないことにした。 無事に脱出したのちに話せばわかることなのだ。
階下に降りてゆくとあちこちのフロアで隊列が組まれていて人の往来が頻繁だ。 厨房では糧食の準備に大わらわで、夜中から用意されていた包みがあっという間に各隊に奪われてゆく。 この城に来てから知り合いになった顔を見つけては互いに声を掛け合ってマルセイユでの再会を約している者たちも数多かった。
「よう! ミロ!」
声をかけてきたのは同郷の若い領主だ。
「十字軍には参加するのか? やっと帰れるのはありがたいが、すぐまた遠征というのも疲れる話だとは思わんか?」
「いや、まだ決めてない。 帰郷して父上の意向を伺わねばならん。」
「それはそうだ。 一人息子のお前に死なれたら親父殿が困る。 跡継ぎがなくてはお先真っ暗だ。 ではまず嫁取りというわけか?」
「たぶんそうなると思う。 」
「女は良いぞ。 思う存分可愛がってやれ。 しかし溺れるな。 向こうを溺れさせる分にはかまわんが。」
「よくわかった。 もし俺がマルセイユに行かなかったら、俺が溺れたものと思ってくれ。」
「好きにしろ!そのくらいの女を見つけられれば本望だ!」
ばしっと背中をどやされたミロが苦笑する。 父がなんと言おうとこの恋から離れて遠いアナトリア半島にいく気はさらさらないのだ。 それに今のミロにはしなければならぬ遠大な夢がある。
「ミロ様、馬の用意が整いました!」
兵の一人が呼びに来た。
「よし! 荷物を運べ!」
ホールの壁際に一まとめにして置いてある糧食や武器はかなりの量で、てんでに手分けして持ってもまだ余る。
「カミュはこの槍を持ってくれ。 マーリンは矢束の筒を!」
ミロから無造作に渡された槍は思ったよりも重く、そんなものを持ったことのない姫をたじろがせた。 といって軽い荷物など一つもないのだ。 男たちはみなずっしりと重い荷を抱え、あるいは肩に背負って衛兵の立つ門に向う。 
壁に掲げられた松明の炎が揺らめき、忙しく行き交う人の影が石壁に長く伸びる。 出口近くの一段高いところにカノンがいるのが見えてミロは神経を尖らせた。 夜明け前からここに出てきているとは予想もしないことで、しかも通り過ぎる顔見知りに声を掛けているところを見ては肝を冷やさざるを得ない。 あたりを睥睨しているカノンは眉目秀麗、長身の男盛りという偉丈夫でさすがに貫禄がある。 その手前では修道僧が両側に立ち、聖水の鉢に指先を浸しては通り過ぎる者に振りかけて神の祝福を与えている。 いずれも荷物を持っていて十字を切ることができないので軽く頭を下げて通ってゆくのがミロには有り難い。
いよいよカノンの前を通り過ぎようというときがやってきた。