その8  ミロ、帰郷する

各隊の列が出口を目指し、人と人との間が接近してきた。 混雑のあまり足元がよく見えなくてますますうつむいていた姫が首筋にかかった水滴に驚いて顔を上げると聖水を撒いている修道僧と目が合った。 小さいときから見知っている顔にどきっとした姫の歩幅が乱れた拍子に槍の長柄が足に絡まり、たまらず前の兵の背中にぶつかってあやうく転びそうになる。
「あっ!」
思わず上げたおよそ男らしからぬ か細い声に鋭い視線を向けたカノンが列の中央にいる小柄な二人のほうに一歩踏み出したとき、舌打ちをしたシュラが姫の腕をぐいっと掴んで引き起こすと兜の上から頭を一つ張り飛ばした。
「まだまだガキだな! おい、アルデバラン! 自分の甥くらい、まともに歩かせられないのか!」
「悪かったな! こいつはおしめの取れるのもやたら遅かった。 早熟な貴様と違って、まだケツが青いんだよ!」
兵たちがゲラゲラと笑ったとき、
「なにをしやがるっ!」
「貴様こそっ!」
少し離れた他隊の列で急に怒号が起こり、小競り合いが始まった。 血の気の多い兵たちが小突きあい、今にも殴り合いが始まりそうだ。
「お前ら、何をしているっ! よさんかっ!!」
壮年の隊長が割って入り一触即発の危機を孕んでいる兵たちを怒鳴りつけている間に隊列を立て直したミロの兵たちが横をすり抜ける。 やっといさかいがおさまった兵たちからカノンが目を離した時に取り巻きの一人が寄ってきた。
「カノン様、女たちの用意が出来ました。」
「うむ、明るくなったらいずれも親兄弟の元へ帰せ。 路銀を持たせるのを忘れるな。」
「仰せの通りに。」
十字軍参加の功績によりローマ教皇から拝受する免罪符はそれまでの罪を清めるだけであって、今後も罪を犯しても良いという性質のものではない。 一夜明けたカノンは聖戦の騎士になっていた。 男が去ってゆきカノンが向き直ったときにはミロの隊列はすでに行過ぎている。 東の空が黎明の色に染まっているのが見えた。

「ミロ様、こちらです!」
城から100メートルほど離れたところに生えているナラの若木のそばで兵が合図した。 姫たちを乗せる馬は、乗り手のいなくなった馬を適当な理由をつけて他の隊から買い取らせてあるので問題はない。 三十数頭の馬にそれぞれの荷物をくくりつけると男たちが一斉に馬にまたがり始めたが、さすがに姫たちが一人で乗れるはずもない。
「周りを囲め!」
ミロの合図で兵たちが巧みに馬をあやつりあっという間に丸い輪を作る。 その中央でアイオリアとミロが手を貸してなんとか二人とも馬上の人となる。
「ところでギャロップ ( 駆け足 ) はできるか?」
ミロが姫に耳打ちすると、
「いえ、私たちは並足と早足だけしかできなくて……」
小さい声で答えた姫が朝の光が射し染める中で白い頬を染めた。 兜をかぶり うつむいていても隠しおおせぬ美しさが兵たちの目を惹き付けて、たしかに女だと確信させる。
「村を抜けるまでは早足で行く。 ついて来い!」
男たちにはいささか物足りない駈け方だが、ギャロップができないのでは仕方がない。 あとから出発した隊に幾度も追い抜かれながら2キロほどゆっくりと進み、人目のない森陰を選んで馬を止める。
「ここまで来れば大丈夫だろう。 ここからは俺とアイオリアの馬に乗ってもらう。」
姫とマリンがそれぞれミロとアイオリアに手をとられて抱きかかえられるように前鞍に乗り移ると、兵の間にちょっとしたどよめきが起こる。
「若君、そろそろ聞いてもいいですかな? いったいその二人はどういうことで?」
アルデバランが我慢しかねたように訊いてきた。 ここに来るまで訊いてみたくて仕方がなかったのだが、じっと我慢の子だったのだ。
「城で見つけた俺とアイオリアの嫁だ。 どうだ? 髪こそ短いがなかなかの美人だろう?」
アルデバランとシュラの方を向いたミロがにやりと笑い、兵の間からやんやの喝采が起こる。
「なんと嫁御寮とは! 知らぬこととは言いながら、ずいぶんと失礼なことを言いましたかな。 お詫び申しあげる。」
アルデバランが馬上で頭を下げ、カノンの目をごまかそうと遠慮なく頭を張り飛ばした覚えのあるシュラは冷や汗をかく。
「それにしても、あれはいい機転だったな。 甥の出現には驚いたが、おかげで無事に切り抜けられた。 もう一つのいがみ合いの方は、だれか何かやったのか?」
「喧嘩っ早いので有名なやつを見つけて、ちょいと石を投げてやりました。 たまたま石を持っていたので。」
真面目な顔で答えたのはシュラだ。
「えらく用意がいいな。」
「まさかあの場で剣を振り回すわけにはいかないですからね。」
いちばんの剣の使い手のシュラは、石つぶてを投げるのも目にも止まらぬ早業でたいそう上手い。
「では出発だ! 空馬は誰か曳いて来い!」
こんどは恋人の腕に抱えられているので姫とマリンも安心だ。 トゥールーズを去る二人のために馬を大きく輪乗りにさせたミロが遠くに見える城の姿を指し示す。
「いずれ戻ってくる日も来よう。 その日までしばしの別れぞ。」
黙って頷く姫の目に涙が滲む。 一斉に街道を疾走する騎馬の巻き上げる砂塵がもうもうと立ち昇り、彼らの後ろ姿を隠していった。

馬に乗りなれない姫たちのために途中で幾度か休憩しながらミロの故郷についたのは黄昏どきだ。
畑仕事から引揚げる途中の村人が馬蹄の音に気付いて遠くから手を振っているのが見えて、久しぶりの故郷に帰ってきたことを教えてくれる。 家々からゆっくりと立ち昇る炊ぎの煙も懐かしい。
「おい、シュラ、あの女たちのことだが、若君はいったいどこで見つけたのかな?」
ミロには聞こえない最後尾でアルデバランが首をひねる。
「さて? それにしても、あのカノンの鼻先から二人も掻っ攫ったっていうのは面白いな! 美人らしいが兵の服ではいささか色っぽさに欠ける。 どうだ?若君はもうものにしたと思うか?」
「お、俺はそんなことは知らんっ!」
真っ赤になったアルデバランがそっぽを向いた。 そういう話題はこの武骨な男の得手ではないのだ。
「ふふふ………若君に聞いてみたほうがいいかな?」
「よせっ! そんな恥ずかしいことをっ!!」
「………お前、もしかして想像してないか?」
「馬鹿っ!!」
こんな調子でシュラがアルデバランをからかって楽しんでいるいるうちに、一行の前にどっしりとした石造りの居館が見えてきた。