副読本その20 「バレンタイン」


カミュがシベリアから戻ってきたのは、西の空が茜に染まる頃である。
「驚いたな、はるばる極東から氷の御入来か?」
なるほどカミュが無造作に持っているのは、どこまでも透き通った氷の塊である。 暖かくしてある室内でも融ける気配がないのは、カミュが熱を遮断しているためなのか。
「うむ、ここでも作れぬことはないのだが、やはりシベリアのほうが環境が良い。 できる氷の質がはるかに高純度だ。」

先日、ミロが、オンザロックもたまにはいいな、と言ったのを覚えていたらしい。 カミュが作ってきた氷は綺麗な六角柱で、砕くのが惜しいくらいに美しい。 不定形でもいいものを、まるで図面でも引いたように正確な形を作ってくるのはいかにもカミュらしかった。
ミロは立ち上がると、カミュから氷を受け取り大きなボールに入れた。 指先を当て、軽く衝撃を与えると六角柱は一瞬で手頃な大きさに砕かれる。
二つのグラスにいれて琥珀色の液体を注げば、氷に亀裂の入る鋭い音が耳に快い。
「懐かしいな。」
「ん? この音か?」
「ああ、シベリアにいたころよく聞いたものだ、規模は違うが。 春近くなると、一見なんの変わりもないように見えて、厚い氷にも亀裂が入ってくる。 それを聞いた時が春の始まりだ。」
カミュはグラスを揺らして氷の揺らぐ様を楽しんでいるようにみえた。 その心は、しばし、 アイザックや氷河と共に過ごした昔に戻っているのかもしれなかった。
「そういえば、カミュ、向こうの部屋に置いてあるのが今年の分か?」
「そうだが、明日にはもっと増えるだろう。」
「嬉しいんだか、哀しいんだかわからんな。」
ミロは溜め息をついた。つまりチョコレートのことである。
毎年のことだが、この時期になると宝瓶宮にはかなりの数のそれが届くのである。 十二宮のそれぞれで同じ現象が起こるのだが、宝瓶宮に届く数が一番多いのではないかとミロはふんでいる。
むろん、誰も数を自慢したりはしないのだが、そこはそれ、ミロの勘がそれを教えてくれるのだ。 天蠍宮に届く分より必ず多いのは少しばかり悔しいが、それなりにカミュの魅力の証明だと思えば悪い気もしないというものである。

問題は、そのチョコレートの行き先であった。
正直なところ、カミュはあまり甘いものは好まない。 子供の頃はそれなりに好きだったようだが、長ずるにしたがってほとんど口にしなくなってきた。 困ったカミュは貴鬼にやれないものかと、ムウに声をかけてみたのだが、
「せっかくですが、カミュ、私のところでもかなりの量が来ているので貴鬼の分にも多すぎるくらいです。 歯を磨かせるのが大変なのですよ。」
と溜め息をつかれて、挫折せざるを得なかったのだ。 そこで、ミロの出番となったのである。 どうしたものかと相談を持ちかけられたミロが、悩めるカミュを助けてやりたいと思うのは自明の理であった。
こうしてミロは毎年、宝瓶宮と天蠍宮に届く全てのチョコレートを引き受けることになっている。 幸いミロはチョコレートはいまだに好きだし、去年あたりからコニャックやブランデー入りのものが多くなってきた。 「 カミュ入り 」 と銘打ったものなどは、さすがのミロもドキドキしながら口にしたりする。
かなりの量だが、なにも一気に食べるわけではない。 カミュが温度管理を徹底して行なっているので半年置いても品質に問題はないのだった。
ただし、である。 ミロの体重はいまだにカミュより8Kgほど多い。
甘いものを摂取しているのだからと、毎日の修練は欠かさないし厳しく自己を律しているのだが、こればかりはどうしようもないのである。 それでも、カミュの体重が8Kg増えるよりはよっぽどましだった。
カミュのウエストの細さは実に自分の努力によって維持されている、とミロは密かに自負している。

「そういえば、昭王がやっと天勝宮に帰還したな。」
「……ああ……そうだ。」
カミュが黙ってグラスを見つめている。先日の昭王との予期せぬ出会いが、まだ心に残っているに違いなかった。
あの晩のカミュの思い乱れたさまがいとおしくてならなかったミロは、様々に手を尽くし言葉を尽くして慰めてやったものだ。
昭王もとんだ置き土産を残していったもので、落ち着いたかと思えば熱に浮かされたようにすがってくるカミュにはミロも少々手を焼いたが、悪い気はしなかった。
そんなカミュがやっと眠りについたのはもう明け方に近い頃で、それを見届けたミロも共に眠り、目覚めたのは夕刻に近い頃である。 日頃の自分に似合わず冷静さを失っていたことにカミュはすぐに思い至ったようで、赤い顔をして目を合わせようとしなかったのをミロは思い出していた。

あんなに度を失ったカミュを見たのは初めてなのだが、不思議と昭王に嫉妬する気は起こらない。 だいたい、自分自身に嫉妬してどうするのだ、とミロは考えている。
カミュに聞いたところでは、昭王にはミロの存在を話していなかったということで、これは別に、秘密にするというのではなく、その時間がなかったということなのだが、それもカミュの心痛の一因になっていたのだった。
といって、ミロのことを昭王に知らせるすべなどあるはずもない。
ここにいる間の昭王は、終始落ち着いていて笑顔を絶やさなかったらしいが、昭王なりにカミュをみて満足したのには違いない。 最後に部屋に入ってこようとしたミロのことをどう解釈したかは疑問だが、嬉しそうにしていたというのならそれなりに納得はしていたのだろう。

しかし、これ以上考えてもどうにもなるものではなかった。 ミロは立ち上がると明りをつけた。
「カミュ、街にいい映画が来ているが、明日にでも見に行かないか?」
「映画?私は映画にはさして興味はないが………」
「ああ、そうなんだ、せっかくのバレンタインだからたまにはいいかと思ったんだがな。 まあいいだろう、それならそれで一日中ここに篭って、映画以上にいい夢を俺が見させてやるさ。 自信はあるぜ、まかせろよ。」
返す言葉を失っているカミュにすっと近寄ったミロが素早く唇を盗む。
「さあ、食前酒の次は食事だ、食事!」
ドアに向かうミロの背中が妙に大人びて見えた。


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