どちらについていこうかと瞬時迷ったミロだが、ここはやはり、今しか見られぬ昔のカミュについてゆくことにした。
回廊の分かれ目からはカミュのためにやはり篝火が用意されており、歩くのに難渋することはない。
もっとも鍛え上げられた聖闘士の目には、星のない夜でもなんの不自由もないのだが。

貴鬼はカミュと一緒にいるのが嬉しいのか、しきりと話し掛けながら横を歩いてゆく。
それでも、近付き過ぎないようにと気を使っているらしいのが、はたから見ているミロには面白い。
そのうちに、カミュが歩きながら腰の佩玉に手をやり結び目を解くと、いかにも遠慮している様子の貴鬼の帯に素早く挟み込んだ。
そのままでは長すぎて床に届きそうなので、半分ほどにたたんで貴鬼の腰の高さに合わせたようだった。
最初は驚いていた貴鬼も、すぐに嬉しそうにしてその音を楽しみながら再び歩き始める。
篝火を掲げている男からは、ちょうど陰になりこの様子は見えぬし、そもそもそういった身分の低い者は、貴人を直視するということを決してしないので、このことは誰に知れる筈もないのであった。
やがて翠宝殿の近くまで来ると、佩玉はいつの間にかカミュの腰に戻っている。
素知らぬ顔で歩いている二人の間には密かな親近感があるようで、それがミロには新しい発見だった。

翠宝殿の入り口を警護していた十人ほどの衛士が拝礼する中を、軽く会釈したカミュが通ってゆくと、その後ろ姿に一斉に賛嘆と畏敬の視線が送られた。
燕を救った神通無碍(じんつうむげ)の士として崇敬されているのはなるほど確かなようで、昔のカミュのこととはいいながら、当然ミロには誇らしい。

   さすがはアクエリアスのカミュだ!
   聖域では当たり前すぎて、俺たち黄金聖闘士の実力がクローズアップされることは少ないからな。
   美しさだけでなく、力量も正しく評価されるっていうのはいいもんだぜ。

ミロが満足の笑みを浮かべながら通り抜けていく翠宝殿は、頭に描いていたよりも親しみやすい柔和なつくりで、部屋数もそれほど多くはないようだった。
どうやら寝所の隣りらしい部屋までくると、すぐに春麗が三人の侍女を連れてやってきた。
しとやかに拝礼をすると、カミュになにか話し掛けながら春麗が礼冠と挿頭(かざし)をはずしにかかる。
どうやって留めてあったのかミロには全くの謎だったが、春麗が最後の銀の留め飾りをはずすと、これ以上はないというほどに艶やかな髪が背を流れ落ち、ミロだけでなく、その場にいる者全てに密かに溜息をつかせたものだ。
カミュとの付き合いが長いミロにしても、こんな光景を目の当たりにするのは初めてのことで、心拍数が上がるのも無理からぬことであった。
室内には幾つもの灯りがともされているのだが、『ほの明るい』というよりは『ほの暗い』というのが当たっているようで、ミロにはそれが口惜しい。
続いて、侍女の一人が帯に手を伸ばすと、カミュがなにか言いながら自分で帯を解こうとする。
困ったように侍女が春麗を見ると、春麗は太后から言い含められているのであろう、カミュの好きなようにさせて、どうしても無理なところだけ手伝うことに決めたようである。

   当然だっ! カミュは乳母日傘( おんばひがさ )の昭王とは違って、自分のことは自分でやれるからな。
   だいたい、カミュの帯を俺以外の誰かが解くなんて、もってのほかだっ!!
   いや、この場合は昭王か・・・。
   それにしても、この警戒厳重で人目の多い天勝宮で、
   控え目と忍耐が衣を着て歩いているような昭王が、ほんとにカミュの帯を解ける日が来るのか、
   俺はだんだん疑問に感じてきたぜ・・・・・・・。

ミロが悩んでいるうちにカミュは一枚また一枚と重ねた衣を脱いでゆき、後ろに立った侍女がそれを受け取ると手際よくたたんで、控えの侍女に手渡してゆく。

   おい、待てよ!!
   そんなことやっていたら、最後の一枚はどうするんだ??!!
   いくらここが暗いといっても、太后の侍女が四人もいる前で肌をさらす気じゃないだろうな?
   いったい、天勝宮では、衝立の一つくらい置いてないのかっ???
   昭王じゃないんだから、着替えなんて、俺たち聖闘士は人の見てないところでやればいいんだよっっ!!!
   ふつう、こういう場合、羞恥心のないのは育ちの良すぎる昭王のほうだと思うが、
   カミュ、お前、いったいどうする気だっ??
   
ミロは煩悶した。
昔のカミュをもっと見ていたくて翠宝殿まで来たのだが、思いもしない状況が展開されそうで胃がきりきりと痛くなってくる。

   俺だって、昔のお前の肌を見ようとはまったく思わんっっ!!!!
   なんといっても、そっちは昭王の持ち分だからな、おい、カミュ、お前、分かってるのか??!!

しかし、幸いなことにミロの心配は杞憂に終わった。
カミュが最後の一枚の衿に手を掛けたとき、後ろに立っていた侍女が既に脱いだ衣を両手で広げて高く掲げ、その隙にカミュが肩から最後の衣を足元にすべり落とすと、もう一人の侍女がやはり後ろから白い寝衣をカミュに差し出したのである。

   え・・・・・・・・?

ミロが唖然としているうちに、前を合わせたカミュが侍女から帯を受け取り手早く締め終わっている。
気が付いてみると、ドキドキしていたのはミロだけで、あとは誰一人顔色一つ変えてはいない。
この手馴れた様子からすると、どうやら、今までにもこうした着替えが行なわれたことがあるらしかった。
それならそうといってくれればいいものを、と冷汗をふくミロである。

春麗が衣と礼冠、挿頭、佩玉を侍女に捧げ持たせて退出していくと、控えていた貴鬼が寝室への御簾を巻き上げた。
すでに小さな灯りがともされた部屋にほのかに漂っているのは、あの梅花の香りなのかもしれぬ。
貴鬼が手馴れた様子で寝台の横に床几を据えると、続いて入ってきたカミュになにか言ったのは、座るようにと促したようであった。
はて?どうするのか、と見ていると、小卓の上の矩形の小筥から櫛を取り出した貴鬼が、端然と腰掛けているカミュの背に流れる髪を毛先から丁寧に梳きだした。
突然の櫛の登場に、はっとしたミロが近くに寄って貴鬼の手元をよく見ると、それは昭王の持ってきた櫛よりもやや横長で、尾の長い鳥が翼を広げて飛んでいる様子が彫られているようである。

   この櫛ではないのか・・・・・すると、昭王はあの櫛をどこで?
   いや、それより、まさか貴鬼がカミュの髪を梳くとは思わなかったぜ。
   宝瓶宮では、この俺でさえめったなことでは梳かせてもらえんからな。
   貴鬼に嫉妬する気はさらさらないが、俺としてはなんとかして昭王に梳かさせてやりたいものだ。  
   それにしてもカミュも自分で梳かしてもよさそうなものだが、燕に来て王侯貴族の習慣に染まったのか?
   黙って座って人に梳かさせるなんて、およそ聖闘士らしくないぜ。

貴鬼はいかにも丁寧に時間をかけて艶やかな髪を梳いてゆく。
その様子からすると、どうやら貴鬼なりに楽しんでいるようにもみえる。
と、貴鬼がその手を止めてカミュの顔を覗き込み、何か話しかけた。
目を閉じていたカミュが少し首をかしげて左の二の腕をそっと押さえ、二言三言返事をしたとき、ミロはやっと分かったのである。
アイオリアを助けたときに受けた傷にまだ痛みがあり、髪を梳かすために腕を上に挙げることを控えているのに違いないのだった。
手首まである袖のためミロには傷の様子が全く見えないが、まだ癒えていないこの傷を、昭王もどれほど案じていることだろう?

   そんな傷くらい、聖域にいればすぐに治癒できるんだが、この時代はそういうところが不便だな。
   仮にこの俺に治癒能力があっても、声さえ聞こえないこの状況ではなんともしようがあるまい。
   このころの傷薬がどれほど効くかもわからんし、まったく気になるぜ。

そうこうするうちに貴鬼が櫛をもとの小筥に収め、寝台脇の小卓に置いてあった灯りを壁際の卓上に移動した。
寝台に横になろうとするカミュの枕もとを見ると、なるほど確かに陶枕を使っているようだ。

   ほう、 これがあの陶枕か!
   よくこんな固い小さなもので寝られるものだな、俺にはとても無理だ。
   読んだときには気付かなかったが、これでは二人一緒に枕に頭を乗せることができんではないか、
   そういうときにはいったいどうするんだ?
   もう一つ枕を持ってくるのか、それともこの枕をどけて枕無しで寝るのか?
   なんにしても不便極まりないな、大きい羽根枕が一番だと思うが。

あれこれとミロが気を回していると、寝台に腰を下ろしたカミュの側に寄った貴鬼が、陶枕に頭を置こうとしたカミュの長い髪をさっと手ですくい取るようにして、枕の横に流れるように広げたものだ。
ミロは、えっ?と思ったのだが、どうやら毎晩のことらしく、カミュも別に驚きもしない。
貴鬼が夜目にも艶やかな髪を一糸の乱れもなく再び櫛で整えていると、カミュが笑いながら何か声をかけた。
恥ずかしそうにした貴鬼がちょっと首をかしげながらカミュと笑いあっているのを見て、相変わらず言葉が判らないのが悔しいミロだが、こればかりはどうしようもない。

   ほう! こんなことをしているのか!
   いくら腕の傷が痛むからといって、このくらいは右手でできそうなものだがな。
   貴鬼は案外、世話焼きなのかもしれん、もしかすると、白羊宮でもムウにやってるんじゃないのか?
   まあ、宝瓶宮ではカミュの髪に関しては、俺が一手に引き受けているんだが。
   
貴鬼がカミュに就寝の挨拶らしい言葉をかけると深く拝礼をして隣室に姿を消した。
すぐに向こう側から御簾が下ろされ、ようやくカミュは一人になったのである。

梅花の香り漂うほの暗い部屋は物音一つしない。
脇卓には白い水差しと風雅な意匠の銀鈴が置かれている。
カミュがそれを一振りすれば、隣室からすぐに貴鬼がやってくるのであろう。
すでに目を閉じているカミュにミロが近付いた。
人もうらやむ艶やかな髪が寝台の高さの半ばまで垂れ、それは、宝瓶宮で見慣れているミロの目にも心惹かれる眺めである。
さすがに心騒いだミロが、その髪を手に取ろうとして少しためらった。

   ・・・・・・ここにいるカミュは、俺のカミュじゃない。
   いずれ昭王が触れるに違いないこの髪に、俺が先に触れたら信義にもとるというものだろう。
   ここでの俺は実体がないらしいが、それでも今はカミュに触れるべきではなかろうな・・・・。

結局、触れずにおくことにしたミロが、眠るカミュをのぞきこんだ。
長い睫毛も、形のよい耳も、美しい眉もそのままに、寸分違わぬ端正な面差しが目の前にある。
少しひらいた唇と頬にかかる髪に誘われる思いがしたミロが、慌てて視線をそらせた。

   カミュ・・・・・できるはずもないが、もし、紅綾殿の昭王と俺が入れ替われたら・・・・・・?
   そしたら お前・・・・・・・

臥所のカミュがみじろぎをして、小さく溜息をついた。


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