「想い」


    ・・・・どこだ、 ここは?・・・・・・暗くてよく見えんな・・・・・・・・・どこかの廊下なのか・・・・?

ミロは当惑していた。 いつの間にここに来ていたのか、自分では覚えがなかったのだ。
昨夜飲んでいたのは確かだが、前後不覚になるような飲み方はしていない。
どこかの宮かとも思ったが、それにしてはどうも様子が違う。
ともかくここにじっとしていてもしかたがないと、歩き出そうとしたとたん、右手のほうから小さな灯りと人の気配が近付いてくる。
そのゆっくりとした歩調の人影が一人や二人ではないと気付いたとき、ふいに左手のほうから大きな炎が二つ現れてミロをはっとさせた。
なんと二人の男が篝火を高く掲げてきたではないか。
火の粉を巻き上げながらはぜる篝火が、それまで闇に沈んでいた周囲を揺らめく炎の色に照らし出し、ミロの視界を一変させる。
長い柄の先に吊るした金属の籠に薪を何本も焚いて炎が辺りを明るく照らすそれを支えている男は一段低い地面に立っており、ミロのいる場所はどうやら建物と建物とを結ぶ屋根付きの廊下のようであった。
しかし、突然に現れた時代錯誤とも思われる篝火よりもミロを驚かせたのは、こちらに近付いてくる人影だった。
それまでのささやかな灯りとは違い、篝火に照らされて浮かび上がった人物の身につけているゆったりとした裾長の衣裳は、ミロにはまったく馴染みのないものである。

   ・・・・・え? どういうことだ? ここは・・・・・聖域どころかギリシャでもないのか?

そのとき、ミロは思わず声を上げそうになった。
先頭で灯りを捧げている男の後から歩いてくるのは、あれはカミュではないのか!

   カミュ!・・・・・なぜここに? それにその服装はいったいどうしたんだ? そこで何をしている?

思わずカミュの名を呼んだミロは、自分の声がまったく聞こえていないらしいことに気付き愕然とした。
少しうつろな響きではあるが確かに自分には聞こえているのに、ここにいる者たちには何も聞こえぬらしく、その歩みはいささかも乱れない。
他の者はいざ知らず、カミュにさえ聞こえていないとはいったいどうしたことだろう?
さらに驚いたことには、カミュは髪を結い上げていたのだ。
かなりふくらみをもたせた頭頂部には、なんと礼冠と挿頭らしいものまでがつけられているではないか。
篝火に照らされて銀色に煌めく挿頭にはたくさんの歩搖がつけられているらしく、歩くたびにさざなみのように小さな飾りが揺れ動く。
思わず駆け寄ろうとしたとき、目の前まで来たカミュが、向こう隣りを歩いていた人影のよろめいたのに気付いて何か声をかけたのが、さらにミロを唖然とさせた。
それはミロの全く知らない言葉だったのである。
カミュの話す言葉なら、理解はできなくとも、それがフランス語かロシア語かくらいの区別は容易につくミロである。
さらに、デスマスクのイタリア語、シュラのスペイン語とも違う、この言葉の響きはいったいなんなのだ?!
あらためて、手を伸ばせば届きそうな近さで立ち止まっているカミュを見たときに、ミロの目に映ったものはなんだっただろう。
贅沢にゆとりを持たせた薄青い衣裳には銀糸で縫取りがあり、腰の帯からは青い縞瑪瑙の飾りが長く下げられている。

   これは・・・・・? ・・・・・・・・青い縞瑪瑙・・・・・この飾りは・・・・

はっとしたとき、カミュの向こう側にいた人物が、やはりミロにはわからない言葉でなにか言いながらこちらのほうを見た。
その、ミロにとってはあまりにも知り尽くした面立ちと、手の込んだ縫い取りのある白と紫の華やかな衣裳が目に入ったとき、かいだことのない不思議な香りがミロの鼻腔を刺激したのだ。
混乱したミロの頭の中で、何かがはじけたのはそのときだ。

   ここは天勝宮だ! そうに違いない!・・・・俺は今、昭王と昔のカミュを見ている!!!

やっと事態が飲み込めて茫然とするミロの前で、カミュがさらに昭王に話し掛けると、首を振った昭王がいかにも優しげにカミュに笑いかけたものだ。
振り返った昭王が回りの者たちになにか冗談を言ったのだろうか、笑いのさざなみがなごやかに広がってゆく。
昭王とカミュの背丈はこの時代にしては珍しく丈高く、周りの者達よりも抜きん出ており、十数人の侍僕達に囲まれていても、二人の様子が、人の輪の外側にいるミロにもよく分かる。
明らかに酔っているらしい昭王は、少し身体をゆらゆらさせながら詩のようなものを朗詠し、それを聞くカミュは少し顔を赤らめながら微笑んでいるようである。
これは確かに、賀宴のあとの内宴もはねて紅綾殿と翠宝殿へ戻るときの二人に違いなかった。

   すると、これがあの回廊というものか・・・ふうむ、ずいぶんと幅の広いものだな・・・・。
   篝火に照らされたカミュの、なんと美しいことか!
   それにしても、まさか髪を結い上げて挿頭までつけていたとは知らなかったぜ。
   綺麗なことは今も昔も変わらんが、
   太后の選んだというこの衣裳はまったくカミュの美質を引き立ててあまりあるというものだ!
   昭王も、さすがに俺だけのことはある!
   俺から見ても、周りの取り巻きとはまるで違う雰囲気を身につけてる! 
   これならカミュが惹かれるのも当然だ。

ようやく落ち着きを取り戻したミロがそんなことを考えていると、再び行列が動き出した。
昭王とカミュの佩玉がそれぞれに軽やかな音を奏で、なんともいえぬ風雅な趣があるのにミロは感嘆しないわけにはいかない。
頭の中で想像していたのとは大違いで、それは思いのほか優雅なものであった。

ミロが二人の横を歩いていても誰にも見えぬらしく、昭王とカミュは静かに話しながら回廊の分かれ目までやって来た。
そこで立ち止まった昭王がカミュに何か言うと、カミュはいとも優雅に拝礼をし、その動作のそれこそ典雅とでもいいたくなるような動きがミロを唸らせたものである。
聖域で教皇、そしてアテナに拝謁するときのカミュの動作はあくまでも聖闘士としてのものであり、武人といってもいいほどの簡潔さである。それはどの聖闘士も同じことで、優雅さなどは要求されないし、おそらく誰もそんなことを考えてもいないだろう。
しかし、ここにいるカミュは、ミロでさえ想像もしていなかった貴人そのものであった。
聖域にあっては一人の聖闘士に過ぎなかったカミュが、ここ天勝宮で昭王と接するようになってから自然と立ち居振舞いが変わってきたのだろうとミロには思われた。
それだけの素質をカミュが持っていたことに喜びを覚えるミロだが、現在のカミュのそれを見ることができないのはいかにも口惜しい。
そんなことを考えているミロの前で昭王とカミュは左右に別れ、気がつくとカミュに一人従ってゆく小さい姿は、なるほど貴鬼なのだった。


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