どちらについていこうかと瞬時迷ったミロだが、ここはやはり、今しか見られぬ昭王についてゆくことにした。
十数人に取り巻かれた昭王は、今度は無言で歩いてゆく。
篝火を高く掲げた男が少し離れたところを同じ速さで歩いて行くので、暗い夜でも難渋することはないのだった。
ミロが初めて見る紅綾殿は夜目にも広壮なもので、昭王が近付いてゆくと警護の衛士が道をあけて深々と拝礼をする。
ミロの聖闘士としての感覚が紅綾殿の周囲に配置された警護の厳重さを知らせてくれる。 一見なんでもないようにみえて、実は堅固な守りが敷かれているのだった。

幾部屋も通り抜けたあとで辿り着いた部屋はミロには不思議な香りで満ちていた。
たまに通る処女宮の香りと似ているようだが、こちらのほうがやや清冽なようにも思われた。 なるほど、これが採蘇羅の香りというものか。
ほの暗くて見えにくいのだが、正面にかけられている御簾の向こうが寝所のようである。
数人残った侍僕の一人が恭しく礼冠をはずすと、別の一人がゆっくりと帯を解いてから幾枚も重ねられた衣を一枚一枚丁寧に時間をかけて脱がせてゆく。
その間、当の昭王は軽く両手を広げて立っているのみである。
かなり酔いが回っている筈なのに身体を揺らがせることなく姿勢を正している昭王に、ミロがつい感心してしまうのも無理はない。
飲んだあとはベッドに倒れこんで人事不省になり、翌朝カミュにからかわれるのがいつものことであるミロには、それはとてつもない自制心のあらわれとしか思えなかった。
色鮮やかに重ねられた衣の最後の一枚になると、一人の侍僕が新しい白い寝衣を慣れた様子で着せ掛けたと思ったときには、別の侍僕の手によって最後の衣が抜き取られている。
その間、昭王の肌が露わになることもなく、そばで見ていたミロにも、いったいどうやったのかまったくわからぬことであった。
最後に昭王の前に回り軽く帯を締めた侍僕が深く拝礼し、畳み重ねた衣を捧げ持った二名の同輩とともに退出していく。
寝衣姿の昭王が侍僕の用意した床几に腰かけると、今まで脇に控えていた侍僕が昭王の髪を整え始めたが、それがまたいかにもゆっくりとした動作で、見ていたミロは気が遠くなりそうだった。
昭王の首筋には櫛も手も触れてはならぬのであろう、一櫛一櫛これ以上はないという丹念さで梳いてゆくのには、どちらかというとせっかちなミロには耐えられぬほどであったが、相変わらず昭王は背筋を伸ばして動くことはない。
かたわらで見ているだけの年配の男が侍僕頭なのか、そのかすかな合図だけで全てが動いていくのであった。

髪梳きが終わると隣室への御簾がかかげられ、昭王は寝所へと入っていった。 思ったほど広くはなく、御寝台の横の小卓には銀鈴と水差しが置かれている。
それから昭王が寝台にやはりゆったりとした動作で横になると、向こう側に控えていた侍僕がすかさずやわらかそうな織りの帛を身体に掛けた。
なかばあきれながら見ているミロの前で、侍僕が小さな灯りを一つ壁際の卓に置き部屋を出て行くと、御簾がふたたび音もなく降ろされた。 ようやく昭王は一人になったのである。
これらのこと一切が無言のうちに進められ、昭王にも、先ほどカミュと一緒にいたときのような楽しげな様子は見られない。
一部始終を黙って見ていたミロが昭王に近付いた。
臥所の昭王はすでに目を閉じている。
自分と同じ顔を初めてしげしげと見て、ミロが不思議の感に打たれたのも当然であったろう。
あまりの部屋の暗さに、もう少しよく見ようとミロが顔を近づけたとき、小さく溜め息をついた昭王が一言呟いた言葉がミロの胸を打った。
燕の言葉はわからなくとも、聞き間違える筈がない。
「カミュ…」
隣室に寝ずに控えているらしい侍僕をはばかってか、いかにもささやくように紡ぎだされたその名前……。
「昭王…………俺はなんの力も貸してやれん。 だが、頼む…」
ミロは一段と声を低めた。 目の前にいる昭王には聞こえないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
「カミュを抱いてやってくれ………カミュもそれを望んでいるのが俺にはよくわかる……頼むぜ…」
昭王の目のふちに光るものが見えたようで、ミロは慌てて顔をそむけた。


                                      ←戻る