副読本 その26  「 嫉妬 1 」


「まったく………何をやってるんだ?」
一足先に厩舎に戻って馬から鞍をはずしかけていたミロは、舌打ちせずにはいられない。
少し遅れてついてくるはずのカミュが、小道の途中で馬を止めたまま誰かと話をしていて動かないのだ。
道でも聞かれたのだろうと思って気にもとめずにいたのだが、それにしては時間がかかり過ぎている。
相手はどうやら欧米人のようで三十台前半の、ミロともあまり背丈の変わらぬブロンドの男だった。

   それは確かにカミュは五ヶ国語が操れて、この日本で右も左もわからん外国人が道を聞くには理想的な人材だが、
   だからといって、新婚旅行といってもいい俺たちの間に割って入る理由にはならんだろうが!
   用事がすんだら、さっさと俺のカミュから離れてもらおうっ!

馬にブラシをかけているミロの手にだんだん力がこもってきたらしく、いつもとは違う扱いに馬がいらだたしげに首を振るが、
ミロの自分勝手な怒りはエスカレートする一方だ。
カミュの様子を見張るために馬体の片側にだけ世話が集中し、馬のためには望ましくないことこの上ないが、そんなことはこの場合ミロの知ったことではないのである。
ミロからすれば、意味もなくカミュに近寄る男は、すべてこれ不審者ということになるのであった。
それにどういうわけかここ日本では、男の方がカミュに話しかける傾向が強い。
日本女性はことごとく遠くから見惚れていて、そっと、あるいは盛大に溜息をつくというケースがほとんどなのだが、男の場合は年齢を問わず、身の程もわきまえずにカミュに話しかけてくることが多いのである。
あとでカミュに聞くと、ほぼ全員が 「英語の練習のため」 という、ミロにはさっぱり理解できない理由で話しかけてくるのだというではないか。

   英語の練習なら、アメリカ人が掃いて捨てるほどそこらに居るだろう?
   英語なんて言語は、カミュにとってはフランス語、ギリシャ語、ラテン語、ロシア語に続く第五外国語にすぎんっ!
   なにか下心があるんじゃないのか?
   気に入らんなっ!

日本人にとっては、欧米人はすべて英語が話せるように見えるという事実を知らないミロには、実に憤懣やるかたない事態なのである。
もちろんミロに英語で話しかける日本人もいたのだが、ミロがめんどくさそうに手を振ってカミュの方ばかり向いているので、日本人がこの金髪碧眼、長身の美青年と話すのをやむなくあきらめていることには一向に気付かないのであった。
やがて話の終わりぎわに、ミロがかっとしたことにはその外国人が手を差し出し、カミュと握手をしたではないか!

   あ……握手だとっ?!
   お、俺のカミュになんということをっ!
   この俺でさえ、カミュと初めて握手するのに何年もかかっているのだ!
   あの時にどれほど勇気と決断力を奮い起こしたか、今でも俺は忘れないっ!
   それをそれを………ええいっ、はらわたが煮えくり返るっ!
   だいたいカミュもカミュだ!
   どこの馬の骨だかわからん人間と気安く握手なんかするんじゃないっ!
   いいか、お前はアテナを守る黄金聖闘士だぜ!
   時と場所を得れば、その名は神と等しいほどにあがめられ、その力の前にすべての邪悪はひれ伏すのだ!
   もっと自分の身を大切にしろ!
   俺以外の奴に触らせるんじゃないっっ!


臨戦態勢こそ取らなかったものの、そのときのミロの怒りの小宇宙は、のちになってカミュが 「有珠山の再噴火を誘発するのではないかと危惧した」 と語ったほどのすさまじさであった。

カミュと別れた男は、牧場の外へとつながる道のほうへ姿を消した。
ゆっくりと厩舎へ戻ってきたカミュに根掘り葉掘り問いただしたいミロだが、カミュが何も言わないのに自分から聞くのも腹立たしくて話しかけようともしない。カミュの方を見ようともせず、黙然として馬の世話を続けている。
その雰囲気を察したのかカミュの方から口を開いた。
「さっきの男はギリシャの通信社の特派員だ。」
「え?」
これはミロには予想外の展開だ。
「もうじきアテネオリンピックが開かれるので、各国選手団の紹介記事の中に、世界各国に駐在している特派員の現地取材も入れるということで、あちこち回っているらしい。」

   話がうますぎるな………それがどうしてカミュのところに来るんだ?
   ギリシャの通信社って話は本当なのか?

「私たちの泊まっている宿もこの牧場もグラード財団所有のものだ。財団とギリシャの関係は日本でも知られているらしく、その紹介でこの地に取材に来たということだ。」
「ふうん………そういうこともあるかもしれんな……で、お前、何を話したんだ?」
「ギリシャからの旅行者が見た日本の印象を、と聞かれたので露天風呂について感想を言っておいた。」
「………なにっ?!」

   するとなにか? カミュは自分が露天風呂に入ったと言ったのか??
   そんなことを言ったら、あいつはカミュが入ってるところを想像したんじゃないのかっ??

ミロの頭に血がのぼり、明らかに心拍数が上がってくる。

   宿の者は業務上そんなことには慣れているだろうが、
   どうして見ず知らずの人間に自分が風呂に入っているところを想像させなきゃならんのだっ!
   カミュの奴、世間知らずにもほどがあるっ!
   やつが何を想像したかと思うと、気が狂いそうだぜっ!

あまりのことにそれ以上の話もせずに、ミロは馬の手入れをやっとの思いで終えたのだった。

                                  ⇒続く