副読本 その29 「 金木犀」 」
牧場から帰ってきた俺たちを一番に出迎えたのは、かいだことのない甘い香りだった。
「あれ? 朝にはこんな香りはしなかったぜ?」
「うむ、私も覚えがない。」
俺たちは立ち止まってあたりを見回した。
「あれではないのか?」
カミュが指差したのは、円筒形に刈り込まれた3mほどの高さの木だが、とくに花らしいものも見えない。
「花の香りじゃないのかな?」
「いや、やはりこの木だ。暗くて見えにくかったが、オレンジ色の小さい花がたくさんついている。」
「え?どこに?」
近寄ってよく見ると、なるほど、かなり密生した葉の奥に半ば隠れているのが花に違いない。
ずいぶんと強い香りで、しかもその甘いことといったら………!
ふうん………昭王みたいに、こんな香りの下でカミュを抱けないもんかな………
そしたらきっと、もっともっと甘い時間が過ごせるんだが………
いや、これは無理な相談か……しかしなあ………
考えてみると、長い付き合いだが外でカミュを抱いたことはないからな。
そんなこと、口に出すだけでどんな冷たい目で見られるか、考えるだに恐ろしいぜ!
キスはできるが、それ以上のことは俺たちには絶対にあるはずがない。
そうすると、昭王の逢瀬は、案外うらやましいと言えるんじゃないのか?
月の光に、花の香りに、青い練絹の敷物に、いい酒に、そしてカミュだ!
これ以上の設定が有り得るのか???
喜んでばかりいたが、くそっ、昭王がうらやましくなってきたとはな………
気がつくとカミュはとっくに歩き出している。
俺は慌てて後を追った。
玄関を入るとフロントの横のコーナーに珍しく目が行った。名産品を売っているらしいのだが、今までは関心がなかったのでろくに見てもいなかった場所だ。
この宿はなにしろ品がいいので、売り場もこじんまりとしてどうやら選び抜かれた品を少しだけ置いてあるようにみえる。
その中の一つが俺の目を惹き付けたのは、この場合当然だったといえるだろう。
俺はすぐさま馴染みの従業員に合図を送っていた。