宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢の内にも花ぞ散りける

                                 紀 貫之            古今集より
                                          
「ほう!これは素晴らしい部屋だ!!そうは思わないか?カミュ。」

足を踏み入れた途端、カミュを振り返ったミロが声を上げたのも無理はない。窓のすぐ外に、金木犀が今を盛りとこぼれんばかりに花をつけているのである。
円筒形に刈り込まれたかなり背の高い木で、二階のこの部屋の窓を半ば隠し、なお上まで伸びている。角部屋のもう一つの窓は遠くまで山並みが見通せるので部屋の中は暗くはないのだった。
「なるほど、とてもよい香りがする。」
窓を開けたカミュがその一枝(ひとえだ)に手をさし伸ばし、橙色の花の香をかいだ。
「どうやってこの宿を見つけたのだ?」
「もちろん、宿の主人に頼んだ。」
ミロが得意そうに胸を張る。
「あの香水の瓶のラベルを指差しながら 『 この花の咲いている宿に泊まりたい 』 とギリシャ語で書いた紙を見せたら、それで決まりだ。しばらくパソコンに向かっていた主人がにっこり笑って予約を入れてくれたというわけさ、簡単だろ?」
「こういうときのお前の行動力は見上げたものだな、脱帽する。」
「任せておけ、なにしろ金木犀のリベンジだからな、本物を味わわなくては気がすまん!」

北海道に秋雨前線が停滞し、この先三日間は乗馬できないことがわかってからのミロの行動は素早かった。
即刻フロントで主人に宿の依頼をし、航空機の手配も済ませると、夕方にはもう、ここ箱根の老舗の宿の玄関に立っていたのである。
どうやらここは宿の主人の知る辺であるらしく、すでに連絡を受けていた女将がにこやかに本館二階の部屋に案内してくれたのだ。むろん、英語ができるのでなんの不自由もない。

広い敷地のあちらこちらに、樹齢を経た庭木に混じって金木犀が何本も見受けられ、宿のどこを歩いても甘い香りが濃く薄く漂っているのはなんとも贅沢なものだ。登別の宿は、新数寄屋造りとでもいうのか、凝ってはいるが最近の普請だが、この箱根の宿は歴史が古くもともとは400年前に開かれ、現在の建物も築80年の木造を大切に手入れして使っているのだ。館内の古めかしい意匠が二人の目には珍しく、同じ歴史的建造物とはいっても十二宮とはまるで違う雰囲気が目を驚かせた。
「ほう!木造で四階建てなのか! 廊下も天井も恐ろしく凝っているな! やたら芸の細かい細工がしてあるぜ!」
「しかし、色使いがシックで実に落ち着いており、私にはたいへん好ましく思われる。 いかにも東洋らしい。」
さっそく予約した貸切の露天風呂に行く途中、通り抜けてゆく通路の左右に目をとめるカミュはいかにも嬉しげで、この宿に連れてきたミロもほっとする。
なにしろ航空券の予約を取り、部屋に戻ってこの計画を話したところ、案に相違してカミュはいい顔をしなかったのである。

「だから何度も言ってるだろう、今行かなきゃ花の時期が終わるんだよ!」
「しかし、二泊もすることはなかろう。 もっと近場で、航空機での日帰りは出来ぬのか?もし天候が回復したら、乗馬の訓練が再開されるのだぞ。」」
「お前ね、あの時に言っただろうが!金木犀の咲いてる土地でお前を抱くって。 日帰りじゃお前を抱けないんだぜ?
 それともなにか? 昼日中にお前を抱いてもいいの?」
ミロが、ふうん…という顔をして素早くカミュを引き寄せる。
「お前がよければ、俺はそれでもいいんだぜ。 どこか人里離れた山の中の金木犀を探して、その香りの中で抱いてやろうか?」
「よ、よせっっっ………そ、そんなことっ!!!!」
真っ赤になったカミュが身をよじり、なんとかミロの腕の中から抜け出そうとするが、そんなことが許されるはずもない。
「泊まらない、っていうことはそういうことなんじゃないのか? でも、お前がそんなことを好まないのは、よく知っている。
 俺が絶対にお前に無理強いをしないってことは、わかってるだろう?」
ミロにやさしく抱きなおされたカミュが、あえぎながら頷いた。
「聞いてくれ……カミュ……俺は本物の花の香りに包まれたお前を抱いてやりたい………」
ミロの青い目にまっすぐに見つめられたカミュが目を伏せる。
「香水は宝瓶宮に帰るまで取っておく………今しかない……理解してほしい……」
「ミロ………」
「わかってくれる………? カミュ……」
カミュが小さく頷いたのは、ミロの優しい口付けが効いたのかもしれなかった。
「それじゃ、荷造りだ。 あと10分で迎えの車が来るからな♪」
こういうときのミロの電光石火の行動力には圧倒されるカミュなのである。

この箱根の宿の露天風呂も素晴らしかった。
敷地の一角の緩やかな傾斜地に臨んでいて、自然の雑木林に囲まれたようになっており、緑の中に色づき始めた紅葉が美しい。
木漏れ日が湯にも当たり、揺らめいて明るい影を作っている。
湯は白濁した淡い緑色で、透き通った湯しか知らぬ二人をおおいに驚かせた。
「ふふ…………どうだ、これならお前も恥ずかしくないだろう?」
「ああ……こんな温泉があるとは知らなかった。 気のせいか、湯が柔らかいように思える。」
雨の日でも入れるような工夫なのだろうか、屋根つきの檜の浴槽に並んで湯に浸かっていると、ときおり肩が触れ合ったりするのが嬉しいミロである。 カミュもはっとしたように身体を固くしていたのだが、そのうちに慣れたのだろう気にしなくなったようだ。
「ねぇ、カミュ………キスしてもいいかな?」
「……え」
うつむいて顔を赤らめたところをみると、嫌と言うわけでもないらしい。
正面に回り込んだミロが、白い身体を包み込むようにして浴槽のふちに両手をつき、はっと身をすくませたカミュに顔を近づける。
「安心して………キスだけだから……」
ゆっくりと重ねられた唇がやがて離れると、軽い陶酔に誘い込まれたカミュが甘い吐息を漏らす。
「続きは夜まで待って………」
ミロの優しい笑みが、心をときめかせた。

目と舌を楽しませる夕食のあと、調えられた寝室に入ったミロが二箇所の窓を大きく開けた。
待ちかねたように甘い香りが風に乗って部屋を満たす。
「来て、カミュ………」
満月が輝く空には雲が流れ、ときおり月を隠してゆく。
「花は香り、月は輝いている………お前を抱くために用意された夜だ……」
「用意された夜………?」
「ああ、そうだ……昭王のように野外で、というわけにはいかないが、甘い香りに包まれて月光を浴びるお前を抱いてやろう。
 二千三百年前に昭王の見た夢を、もう一度繰り返そう。 俺はお前を愛したい。」
「ミロ………」
ミロの言葉に全身が熱くなり、頭の中で鼓動が鳴り響く。
気が付くと、ミロがフトンを窓近くに引寄せていた。 不審顔のカミュにミロがくすっと笑う。
「今夜は満月だ。 油断してると月があっという間に高く昇り、お前を照らさなくなるんだぜ?
 今はさほどでもないが、夜中近くなると月光は白く冴えてくる。 昭王がお前を抱くのはその時刻のはずだろう?」
つと立っていったミロが、行灯の仄かな灯りを消した。
窓から差し込む月の光は思いのほか明るく、カミュの首筋に朱がのぼる。
「さあ、カミュ………お前と俺のための夜だ………」
手を差し出したミロにいだかれたとき、金木犀がひときわ強く香ったような気がした。